④-12

 陽が沈み烏のしわがれた声が響く時間帯。正沢地区の猟師小屋から、ランプの灯りが漏れていた。正沢は水樹沢原生林へと向かう県道の途中にある。小屋の外には見張りが三名。普段は人気ひとけのないこの場所に、複数の男たちの気配が混ざり込んでいた。

「お兄さん、命拾いしたなあ。イオシフさんがおらんかったら今頃木屑と一緒に山の養分になってはったやろなあ」

「ひっ、なっ、なんなんだよお前らっ……!」

 縄で椅子に括りつけられた三十代半ばの男が目を見開いて大橋を睨みつけた。派手な柄シャツと見せつけるように彫られた安っぽいタトゥー。見るからに素行の悪い男だ。懸命に虚勢を張ってはいるが手足も声も震えているのが情けない。その道の人間ではないなと大橋は判断した。本物の悪に利用されて身を滅ぼす半端な痴れ者だ。大橋は冷酷な視線を男に送った。

 烏羽がばさりばさりと音を立てて上下に動作した。生じた風で埃が舞い上がる。背後からは獣の低い唸り声が聞こえた。イオシフが牙を剥き出しにして怒りを露わにしている。

「うわぁあっ! ば、ばけものっ!」

「そやねえ、恐ろしいなあ。ほんならお兄さんが何運んできはったか正直に話してくれるな?」

 諏波の大明神の忠告を受けて、天里がイオシフを含めた講社構成員にここ数日水樹沢周辺を警戒させていた。その網に引っかかったのがこのチンピラ風の男だった。イオシフが嗅ぎ付けた時には既に成分不明の白い粉がばら撒かれており、惜しくも犯行を止めることはできなかった。それでもどうにか男の持ち物を押収し身柄を拘束した後、鉄砲水に襲われながらもイオシフが男を水樹沢から連れ出したのだった。

 男は大橋の問い掛けにほとんど叫ぶような声で答えた。

「し、知らねえ! あの粉がなんなのか、ほんとになんも知らねえんだ! 澁谷しぶやのクラブのトイレに張り紙があって、バイトの募集で、俺はそいつの指示に従っただけだ! こんなヤバイもんだって分かってたら手出してなかった! 信じてくれよ!」

「指示を出した人物というのは?」

「会ってねえ! コインロッカーに鞄と紙が入ってて……鞄をここまで持ってきて、中身を川に撒けって書いてあるだけだった。ひ、肥料かなんかだと思ったんだよ。木を育てる的な……」

「報酬は受け取るんやろ? どないして連絡取るつもりなん?」

「……ロッカーに十万入ってた……それで、成功したらもう二十万って……」

「手渡しか? 場所は?」

「コインロッカーに入れておくって」

「連絡先は分からへんの?」

「分かんねえ」

「あほか。そんなんやったらいくらでもすっぽかせるやん。怪しいと思わへんかったん?」

「お、俺もそう思ったよっ。でも十万で行って帰って来るだけで、ワンチャンもう二十万貰えるかもとか、オイシイと思うに決まってんだろ! ……と、とにかく俺は悪くねえ! 俺は騙されたんだ!」

「被害者面すんのも大概にせえ」

 腹の底に響くような凄みのある重い声がその場を凍てつかせた。普段の朗らかな高めの声からは想像もつかない、怒気を含んだ声だった。チンピラ男は「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げた。

「知らなかったで通すつもりかもしれへんけど、お兄さんええ大人やし、ほんまはえらいもん運ばされてんの分かってたんとちゃうん? 同情してもらえるおもてんなら残念やけど俺らには通用しぃひんよ。何か隠してることはないな? 嘘やて分かったら警察よりももっと怖いとこに突き出すからな」

 大橋が冷淡な口調で捲し立てる。男は詰め寄られて観念したのか、がくりと項垂れてしまった。鼻水を啜りながら「うそじゃねえ……おれはかんけえねえ……ころさないでくれ……」と哀願している。大橋は溜息を吐いて後ろを振り返った。

「まだ続けるのか」イオシフが言った。

「いえ、これ以上この男を吊るしても有益な情報は得られなそうですね。ひとまずこの人の身辺と、澁谷のクラブは調べさせましょう。コインロッカーも。あとこの人始末されるかもしれないから念のため式神でも付けてもらいますかね」

「始末……⁉ なんなんだよ、なに話してるんだよ、お前らおかしいよ、おれどうなっちまうんだよお……」

「大の大人が情けないなあ。あんたに説明してやる義理ないねん。世の中には人間一人が一生かけても知り得ないことがぎょうさんあんねんで。他人に全部説明してもらおうだなんて思わへんことやな」

 泣きつくような男の訴えをばっさりと切り捨てて強制的に会話を終わらせた。他責的な連中に優しくする必要はない。これに懲りて少しは真っ当な生活を送ってみたらいい。

 男は監視を付けて解放するとして、さてこれから忙しくなるぞと、大橋は眉宇を引き締めた。大黒蛟を討ち取ったことで雨は止んだが、被害の全容は明日以降にならないと見えてこない。崩れた法面の整備などは恐らく数年かかるだろう。浸水で家を追われる者もいるかもしれない。しかし一番大事なことは……命があるかどうかだ。

 まずは人命優先。その後の災害復旧は現場に任せるとして、自分には他にやるべきことがある。大橋は頭の中で筋道を立てた。最後に辿り着いたその場所が己の予想と外れますようにと、大橋は胸中で願った。


 大洪水から一夜が明けた。前日の大雨が嘘のような清々しい晴れの日だった。高い空に秋の薄い雲が斜めに流れている。

「孝二郎のばかっ! なんですぐに助け呼ばなかったんですかっ! わたしが気付かなかったら今頃っ……!」

「心配かけて悪かった。泣くなよみこまー」

「泣いてません! 怒ってるんです!」

「泣きながら怒っててウケる。……いやーそれにしても生きてて良かった。死んだら先生にボコされるところだった」

「縁起でもないことをっ……!」

 避難所の広間の一角で、孝二郎とみこまがそんなやり取りをしていた。座って壁に寄りかかっている孝二郎の姿は、酷い有様だった。頭には包帯が巻かれ、全身には打撲の痕。右手首が折れているらしく布でかっちりと固定されており負傷した部位をみこまが氷のうで冷やしている。応急処置程度では到底治らない怪我だ。早く病院に行かなければならない。

「孝二郎さん……その……私、なんて言ったら……」

「だから気にしないでって~。伊澄ちゃんのせいじゃねーよ。どっちみち守り刀くらいじゃ防げなかったよ」

 潔乃は日登江とフミを救助した後、孝二郎に連絡を取ろうと試みるも上手くいかず、そのままダムの防災館に一時避難をしていた。そして雨が止んだ後再び巡視に向かう警報車に乗せてもらい日登江たちと共に避難所へと帰ってきたのだった。意識を朦朧とさせた孝二郎が運び込まれてきたのは、彦一たちが到着した後のことだった。

「致命傷は避けたから大丈夫。それに活術かつじゅつもあるし。久しぶりに補助系の方術使ったけど結構覚えてるもんだなあ」

「……」

「唐沢さんたちは無事だったんだな。良かった。伊澄ちゃん立派だったな。すげーよ」

「ありがとう……ございます……」

「ほれ暗い顔はやめだ。ジジババが心配するぞ。伊澄ちゃんは年寄りたちのアイドルなんだから笑顔でいないと」

「でも……私を狙って孝二郎さんの車が襲われたんだとしたら、私のせいで孝二郎さんは……」

「うーん、それなんだけどさ」孝二郎が考え込むように左手を顎に当てた。

「あんなデカブツが野良な訳ないから誰かの差し金だろうと予測ができる。で、俺が生きてここにいる時点で俺が目的じゃないことはまあ分かる。でもじゃあ、なんで伊澄ちゃんの方は襲われなかったんだ? 参王橋に向かうことが分かってて待ち伏せしてて単純に失敗したと考えたらあの場にいた避難者が怪しいってことになるけどそれはちょっと考え辛い。春枝さんに聞いたけどあの後誰も外出なんてしなかったって言ってたし。唐沢さんの旦那さんも引き止められて結局避難所に居たってよ。外部の人間が盗聴してた可能性も低いな。さすがにリスクが高過ぎる。そうなると救助に向かう俺たちを監視してたってことになるけど、それじゃあ尚更伊澄ちゃんの方に行かなかったのはなんでだって思わない? そもそも伊澄ちゃんがここにいるのはたまたまなんだから、伊澄ちゃん狙いだとしたらなんか筋が通ってなくておかしいんだよな」

「それは……そうですけど……」

「上手く言えないけど違和感がある。なんつーか、他に目的があって、それを悟られないようにかき回してる感じがする。勘だけどね」

「孝二郎! 和昭さんが表まで来てくれましたよ!」

 外の様子を見に行っていたみこまが戻ってきた。病院に行くために車を準備していたのだ。孝二郎の母・詩織しおりも一緒にいる。日登江の夫も付き添ってくれるようで、孝二郎の身体を支えてゆっくり起き上がらせた。本人は大丈夫だと言っていたがやはり痛々しい。こんな状態で救急車は呼ぶな、他の怪我人を優先しろと言って聞かなかったのだから自分なんかよりよっぽど孝二郎の方が立派だ。

 潔乃は立ち上がって玄関の方へ向かう孝二郎の背中に頭を下げた。

「孝二郎さん! とにかく、本当にありがとうございましたっ。私守り刀がなかったら死んじゃってたと思います」

「えっ使う機会あったの?」

「はい、蛇がいて……でも刀から光が飛び出してきてやっつけてくれたんです。白い光が粒になってきらきらして、天の川みたいでとっても綺麗で……」

「光……?」孝二郎は納得いかない様子で頭をひねった。

「俺の方術はあくまで護身用だよ。蛟を倒すほどの攻撃力はない。そんな風に作用したのは……もしかしたら伊澄ちゃん自身の力の影響かも」

「えっ?」

「孝二郎、早く」

 みこまに急かされてそこで会話が終わってしまった。怪我人をこれ以上呼び止めるのも憚られて潔乃は黙って彼らを見送った。立ち尽くしながら、孝二郎の言葉の最後の部分を胸中で反芻する。私自身の力……?


 潔乃はもうしばらく、木蘇に留まることになった。電車が止まっているから松元に帰れないのだ(試験は後日受けられるよう対応してもらうことになったがもう投げ遣りになっている。テストどころではない)。親が迎えに来ようとしたが今はまだ道路状況が悪く現場も混乱しているため、落ち着いたらまた連絡すると言ってなんとか収めた。昨夜電話した時には母親に泣かれてしまった。ずいぶん心配を掛けた。帰ったらちゃんと謝ろう。

 時刻は午前九時過ぎ。家の安全の確保ができていない者はまだ避難所にいるが、半数以上の人々は自宅へ帰っていった。雨が止んだとはいえ依然として土砂崩れなどの危険はある。当面は通常通りの生活をただ送る、という訳にはいかないだろう。

 潔乃は食料品や毛布類の整理をしながら、彦一のことを考えていた。彦一は朝早くから出掛けてしまったので今日は顔を合わせていない。高十から至急の連絡があってそちらへ向かったそうだ。昨日の夕方の、玄関でのやり取りを思い出す。自然と手を取ってしまった。痛いと漏らしたあの人が、迷子みたいな怯えた表情をしていたから。

 ふらふらと廊下の奥へ去っていく彦一の背中が暗闇に消え入ってしまいそうなくらい危うくて、胸が締め付けられた。初めて彼を守ってあげたいと思った。彦一君の力になりたい。私自身にその力があるのなら。

「あら潔乃さんちょうど良かった。そこの荷物取ってもらいたいんですが、届きますか? 台を持ってくるのが面倒で」

 物置に入ると春枝がいた。収納棚の上の方を指差してこちらに頼みごとをしてくる。潔乃は自分の持ち物を置いた後、春枝の希望する荷物を取るべく手を伸ばした。

(そういえば春枝さんて鬼、なんだ)

 月陰の間で話をした時、自身を竈鬼だと言っていた。竈鬼がどんな物の怪なのかは知らないが、鬼と言うからには相当な力があるのではないか。目元の涼やかで纏う空気が上品な女性という印象しかなかったので、意外に思った。

 春枝は潔乃が下ろした荷物を受け取りながら礼を言い、続けてさらりと一言二言付け加えた。

「潔乃さんは背が高くて羨ましいわ。彦一さんと並ぶととてもお似合いですよ」

「えっ⁉」

 思いも寄らない言葉を受けて咄嗟に対処できず、露骨に動揺を表出してしまった。これではだと肯定しているようなものだ。ジーナと孝二郎に続けて春枝まで……潔乃は観念して誤魔化すのをやめた。

「わ、私って……そんなに分かりやすいですか……?」

「ふふ」

「彦一君に気付かれてたりしますかね……?」

「うーん……彦一さんは……」春枝は首を傾げながら斜め上辺りを見上げた。

「色恋沙汰に鈍感というか縁がないと思っているのか……とにかくそういうことを遠ざけている感じはしますね」

「そうなんだ……」

 独り言のように小さく呟きながら、潔乃は内心ほっとしていた。本人に聞いたことはないが、恋人はいない、のは、確定事項でいいのだろうか。前に一度孝二郎に尋ねた時は「あり得ない」と腹を抱えて笑われたのだが。

「あの、人間と神様って、その……いいんでしょうか」

「ん? なにがですか?」

「えっと……その……」

 その先を言えなくて口籠ってしまった。誰かのことをこんな風に真剣に考えたことがなかったので、相談の仕方すらよく分からない。

「いいも何も、誰かを思うのに許可なんていりませんよ」

「……」

「この国ではもともと神と人間の境界なんて曖昧なんですよ。学問の神様だって人間でしょう? だからそんな些細な事気にしなくていいんです。神と結ばれ子を成した人間の話なんていくらでもあります」

「子っ……⁉」

 素っ頓狂な声を出してしまって慌てて咳払いをした。妙な想像をし掛けた自分を恥じる。顔に熱が集まるのをどうにもできなくていたたまれない気持ちになった。

「で、でも私、彦一君に嫌われちゃったかもしれません……私が余計なことしなければ、孝二郎さんは……」

 孝二郎が運ばれてきた時の彦一の有様が頭から離れない。努めて冷静に振舞おうとしていたが明らかに取り乱していた。すぐに救急車を呼ぼうとして孝二郎に止められていた。そこで喧嘩のようになって周りに仲裁されて……あんな風に感情的になっている彦一を初めて見た。昨夜の彦一はやっぱり様子がおかしかった。

「余計なことではありませんよ。貴方のお蔭で救われた人がいます」

 穏やかな、しかし窘めるような口調だった。

「あ! すみません、私なんてことを……」

「潔乃さん、ちょっと時間あるかしら?」

 春枝はにっこりと微笑んだ。その笑みに含まれた意図が潔乃には読めなかった。


 八畳程の休憩室で潔乃は春枝と向かい合って座っていた。畳の間で二人とも正座をしている。ただならぬ空気に潔乃はすっかり畏まっていた。

「敵対者を見つけたいですか?」

「えっ?」

「貴女は敵に立ち向かう力を欲している。そんな風に見えます」

「……はい」

 切れ長の目から覗く真剣な眼差しに身を竦めながらも、潔乃は深く頷いた。以前から考えていたことだ。強くなりたい。役に立ちたい。あの人の隣に相応しいくらいの力があれば、これからも一緒に――

「私が差し上げたお守りは今も持っていますか?」

「はい、ここに」

 潔乃は服の中から小さな巾着を取り出した。この数か月間肌身離さず持ち歩いていたお守りだ。風呂に入る時ですらビニール袋に入れて浴室に持ち込んでいる。

「そろそろ中身を交換しましょう。タガソデソウではなく、真輝石と呼ばれる魂力の媒体になるものを」

「媒体?」

「ええ。魂力というのは生命力の源のことですが、それを利用して術を発現させるのはそれなりの修行が必要です。孝二郎さんの陰陽術のように。ですが魂力を練る訓練をしなくても技を使用できる場合があります。それを手助けするのが真輝石しんきせきです」

「私も孝二郎さんみたいに不思議な力が使えるってことですか?」

「そうです。今まで貴女は物の怪や悪霊の類を感知して避けることに専念してきましたね。ですが真輝石を使えば気配を察知するだけではなく、例えば索敵して相手を拘束できるようになります」

「本当ですかっ? いったいどうすればっ」

「ただし」

 春枝は潔乃の言葉を遮って厳しい表情を見せた。重苦しい雰囲気に潔乃は息を呑む。

「敵をということは相手からも可能性が高まるということ。当然危険が伴います。今まで真輝石の存在を教えなかったのもそのためです」

「……そう、ですよね……でもじゃあ、どうして今になって教えてくれたんですか?」

「敵の動向が読めないからです。規模も目的も。個人なのか組織なのか、貴女の心臓が目当てなのか他に狙いがあるのか。大禍時に蛟を目覚めさせなかったことから破壊が目的ではなさそうです。とにかくこの規模の災害を起こせる敵がいることは確かです。貴女も力を付けた方がいい。天里様からも真輝石の使用許可は下りています。貴女がそれを望むならと」

「ぜひ、お願いします」

「覚悟はありますか?」

「はい」

「よい表情です」

 そう言って春枝は目を細めた。和装の似合う楚々とした佇まい。いつもの春枝だ。

「ではさっそく始めましょう。これを握ってください」

 春枝は懐から取り出した半透明の石を潔乃に手渡した。淡緑うすみどり色に輝く神秘的な石だ。きっと貴重なものだろうと、手のひらでそれを恐る恐る包んだ。

「敵感知の応用編です。今はせいぜい視界に捉えられる程度の範囲でしょうが、徐々に広げていきましょう。さあ目を瞑って」

「はい」

「そのまま遠くを見るように。暗闇の中で目を凝らして」

「……」

「何か見えますか?」

「黒い……靄が……」

「いいですね。今から私がわらべうたを唄います。唄い終わるまでにその靄を捕まえてみてください」

「つ、捕まえる……?」

「ふふ。その場から動いたり、手を使ったりしては駄目ですよ。とにかく捕まえようとしてみてください」

「やってみます」

 目を閉じているだけなのに自分が広い空間にいるような錯覚に陥る。暗い世界の遠い場所に、闇よりも昏い靄が見える。それは炎のように揺らめいていた。全て春枝が見せている幻なのだろうか。

 静かでささやかな歌声が聞こえてきた。


 かこめかこめ──

 つぎはだれにおにがつく――


 どこか哀調を帯びた旋律だった。綺麗な高音がゆったりと流れて、頭の奥に染み入る様に響く。靄を捕まえる……


 かえれかえれ――

 カクシサマにみつかるな――

 おやのあるこはいりひへかける――

 だれもよびこぬひとりのこ――

 おやのないこはいりひをおがむ――

 いちばんうしろはどちらのこ――


「――あら、これは予想以上です。私程度では全く歯が立たないみたい」

 気が付くと歌が終わっていた。集中が切れてハッとする。目を開けて顔を上げると、目の前で春枝が右手を掲げていた。腕が捻じれてぴくぴくと痙攣している。

「ごっ……ごめんなさいっ!」

 自分のせいだと直感する。慌てて春枝に近寄ると、彼女の右腕がだらんと垂れ下がった。「大丈夫ですよ。鬼は頑丈ですから」と言って春枝が自分の腕をさする。

「今の感覚を忘れないで。普段から練習するといいですね。けれど安易に物の怪を捕まえてはいけませんよ。貴女には攻撃の手段がないのだから。さすがにそこまではお教えできません」

 潔乃は広げた手のひらの上で光る石を見つめた。それを慎重に巾着にしまう。それから春枝に礼を言って休憩室を後にした。まだ心臓がドキドキと脈打っている。敵を探して拘束する力……上手く使えば彦一君の役に立てるかもしれない。

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