第76話 家族会議Ⅲ:歪みを正す

 



 麗花の両親が真恋に声をかけた数分後、外から叫び声が聞こえてきた。


 病院のスタッフたちが、慌ただしく玄関へと走っていく。


 診察も一時中断され、院内はたちまち騒然となった。


 依里花たちはさっぱり状況ががわからなかったが、どこからともなく噂は広まってくる。


 日屋見グループの社長夫人が殺された。


 その情報が真恋の耳に届いたとき、彼女は慌てて、麗花のいる応接室へ向かって走りだした。


 だが彼女が階段を降りる前に、目の前に本人が現れる。


 彼女は目を赤く腫らして、いつもより元気のない笑顔で言った。




「どうしたんだい、そんなに慌てて。まるで誰かが死んだみたいじゃないか」




 真恋は理解する。


 おそらく麗花は、こうなることを知っていたのだろう、と。


 だから何も言わずに、彼女を胸に抱きしめた。




「こういうときは泣いていいんだ。声を上げて、悲しむべきだ! そうでなければ、いくら麗花でも――」


「泣いたよ、悲しんだよ。そういう儀式は前もって住ませてある」


「そんなやり方で吐き出せるものか!」


「両親は特殊なんだ。いずれ報いが訪れることをお互いに理解していた。それが今だっただけだろう? ところで死んだのは父様かな、それとも母様かな」


「……愛美さんだ」


「そうか、父様の目の前で――きっと、それで救われた人がいたに違いない」


「麗花……」




 割り切る、受け入れる、というよりは、諦めているような。


 そんな声だった。


 いくら真恋だろうと、もはや入る隙もないほどに麗花は悟って・・・いる。


 それが必要な儀式であり、むしろそれを経ることでしか、彼女の両親は許されないのだと――




「大丈夫、真恋の方からこうして抱きしめてくれたというだけで、私の心は熱を取り戻す。あとはしばらく休めば元通りさ」


「私がずっとそばにいる」


「そうもいかないだろう、君には君の“決着”がある。応接室が空いてる、あの部屋を使うといい」




 そっと体を離す麗花。


 彼女の視線の先には、真恋の家族の姿があった。


 確かに麗花の言う通り、自分の決着をつけなければ、彼女の苦しみを分かち合うことはできないだろう。


 振り向き、父と母と向き合う。




「お父さん、お母さん。依里花と一緒に話をしよう、これまでのことと、これからのことについて」




 それを聞いた依里花は、令愛とその父に会釈して、両親の前に立つ。




「いっぱい話したいことあるんだ。16年分、しっかり話し合おうよ」


「私はあんたの話なんて聞きたくないわ」


「そうだよ、真恋だけで十分じゃないか。依里花はここで待ってなさい」


「そうはいかない!」




 声を張り上げる真恋。


 なぜ彼女が依里花をかばうのか――両親は驚きを隠せない。


 そんな二人に向けて、真恋は毅然と告げる。




「依里花はあなたたちにとって家族ではないかもしれない、だが私の姉だ」


「真恋、何を言ってるの……こんな出来損ないがあなたの姉なわけないじゃない!」




 堂々と、娘どころか他人もいる前でそれを言い切る母。


 16年という月日は、それを彼女にとっての“当たり前”にしてしまったのだ。


 様子を見ている令愛とギィは怒りを隠せないが、当の依里花は笑っている。


 楽しそうに。


 そう、まるで誰を殺すときみたいに。




「真恋と私は向き合ったよ。今度はお母さんとお父さんの番ってこと」


「依里花、あなた――」


「真恋に何をしたッ!」




 激高し、依里花の胸ぐらをつかむ父。


 だが、恫喝されたからといって怯えたりはしない。


 死が当たり前の世界にいたのだ。


 これぐらいの暴力で、今さら日和ったりするものか。




「何をした? 逆だよ、私がされて・・・きたの。その精算する必要があるって話」




 そして依里花は父の手首をつかむと、軽くそれを引き剥がした。


 想定外の強さでつかまれ、彼は痛みに「う……」と僅かに呻く。




「ああ、ちなみに私は二人のこと、ちゃんと私の両親だと思ってるよ。“家族”しようよ、16年間で初めての。ね?」




 至近距離でそう告げられると、逆に父が怯え、後ずさる。


 これまで家庭内で向けられたことのある、“無”の眼差しとは違う。


 あまりに深い暗闇。


 楽しそうに、自分を捕食しようとしている。


 生物としての本能的な直感が、この娘に近づいてはならないと告げていた。


 だが逃げ場はない。


 真恋に先導され、四人は応接室へと向かう。


 廊下を去る直前、令愛は依里花に駆け寄り、きゅっと手を握った。


 さらにもう一方の手を、ギィが握る。




「がんばれっ」


「楽しんできてね」




 耳元で囁かれ、ある意味で正反対なその言葉に依里花は思わず苦笑いをした。


 そして、ポジティブな微笑みで応える。




「ありがと、頑張って楽しんでくる」




 ◆◆◆




 依里花と真恋が並んで座り、その向かいに両親が腰掛ける。


 おそらくこうして家族四人が同じ部屋に揃い、向かい合うのは、まだ物心つく前の幼少期以来ではないだろうか。


 まだ何も言葉を発していないのに、重苦しい空気が漂う。


 誰が最初に切り出すのか――父がきょろきょろと視線をさまよわせていると、唯一上機嫌な依里花が言った。




「どうしたのお父さん、そんなに怯えた顔をして。念願の一家団欒の時間だよ?」


「家族じゃない人間が混ざってる時点で話にならないわね」




 口を挟む母。


 彼女は一切悪びれる様子を見せない。


 学園消失前と同じように、依里花をゴミを見るような目で見下す。




「生きて戻って来ただけでも迷惑なのに、真恋にまで余計なことを吹き込むなんて、どういうつもり?」


「だって私たち姉妹だし。ねえ?」


「そうだな、姉さん」


「気持ち悪いことを言わないでッ!」




 母は立ち上がり、怒鳴った。


 隣にいる父がびくっと震えるほどの迫力である。




「真恋を脅しているの? それとも学園の中で洗脳でもされたの!? そうでしょう、そうなんでしょう!?」


「真恋は出来損ないの私に洗脳される程度の人間だってこと?」


「違うわよッ! 大体、あなたに友達なんてできてるのがおかしいのよ。何で女同士で楽しそうに話をしてるのよ、その時点で異常じゃない!」


「友達ぐらいできるよ、私にだって」


「嘘を言わないでッ! わかったわ、私たちにも同じことをするつもりなんでしょう。薬? 暗示? どっちにしたって卑怯な手を使うに決まってるわ!」


「まあまあ、お母さん、落ち着いてよ」


「落ち着けるものですかッ! 私たちの大事な娘を、真恋を汚しておいて!」


「もし操る方法があるなら、とっくに二人のこと殺してるって」


「っ……」




 ぴたりと母の罵倒が止まる。


 どうやら、彼女には娘に殺されるだけのことをしている自覚があるらしい。




「お母さんはまだ生きてる。それは私にそんな力が無いってことの証明だよ。第一、なんで洗脳なんて発想が出てきたの? 誰かそういうことをされた人間でもいたのかな?」


「そんなわけ……ないじゃない」




 急に勢いをなくし、腰を下ろす母。


 その様子に、依里花は笑いをどうにかこらえようとするも、肩の震えを止めることができなかった。


 また、真恋は母の言い草を聞いてすっかり不機嫌になっている。




「お母さんは、私と依里花が関わるだけで“汚れる”と思っているのか……」


「だってそうでしょう。とても、姉妹とは思えないほど出来が違うんだもの。悪影響を受けないために、引き離すのは当然のことだわ。ねえ、あなた」


「あ、ああ……出来損ないの依里花を育てるより、すぐに何でも覚えて吸収できる優秀な真恋を育てた方がいい。その方が、家族全体を見たときに幸せになれる。そう、思っただけだ」


「だから私のこと放り投げて、全部真恋に突っ込んだって言いたいわけだ」


「だがそれを汚れと呼ぶ必要は無いはずだ」


「そんなふうに生まれてきた依里花が悪いのよ」


「じゃあ私のことはこれっぽっちも愛してないんだね」


「当たり前じゃない! その分の愛を、真恋に注いだのよ!」


「愛していたのは本当に私なのか」


「な、何を言ってるのよ。あれだけ愛情を込めて接してきたじゃない!」


「そうだぞ真恋、お前は依里花に騙されているんだ。早くそんな女からは離れなさい」


「かわいそうなお父さん」




 心底憐れむように依里花は言った。


 父は意味はわからないが、馬鹿にするようなその言葉に、顔を赤くして憤る。




「何が言いたい?」


「え? そのままの意味だけど。何も知らないくせに、へたれだからお母さんに逆らうこともできず、言われるがままに生きてるかわいそうな人だなって」


「父親になんてことを言うんだ!」


「だったら父親らしく生きておけばよかったね」


「あなたねえ、ちょっと味方が増えたからって調子に乗りすぎなのよ! 縁を切って捨ててやるわ、露頭に迷えばいい!」


「え、捨ててくれるの? 二人の方から? 嬉しいなあ、やっと自由になれる。無視するだけならいいんだけど、足を引っ張られて迷惑してたんだよね」


「高校の世話だって見てあげたでしょう! あなたの成績で光乃宮学園に入れるはずがないのよ? 事件に巻き込まれたからって、その恩すらも忘れるつもり!?」




 “それを待ってた”と言わんばかりに、歯を見せて笑う依里花。


 真恋は「自分から踏み込むのか」と小さくため息をついた。




「そう、それだよそれ! どうして私を光乃宮学園に入れたの? ああ、待って、反論はいらないから。私は知ってるよ、お母さんがどうして私をあそこに入れたのか。私は“生贄”だったんだよね。いじめられて、暴力を振るわれて、そして最後には神様の生贄される存在」


「な、何のことを言って……」


「そうか……依里花は頭がおかしくなってしまったんだ。きっとあの学園でひどい目に合ったんだろうね。だからもう話を聞く必要もないよ」


「……そうね、耳を貸すだけ馬鹿らしいわ」


「なら私が話しても構わないよ。これは特に、お父さんが聞くべき話だと思うけれど」




 逃げの姿勢を取る両親だが、真恋が関わるとそうもいかない。


 “洗脳した”なんて馬鹿らしい言い訳はもう通用しないのだ。


 愛する真恋の口から事実を告げられれば、彼らに逃げ道は無いだろう。




「なぜ僕が?」


「お父さんは、瀬田口丁という名前を知っているかい?」


「それって――」


「やめなさい真恋ッ! そんなことを話したって何の意味も無いわッ!」




 再び立ち上がる母。


 それは紛れもなく、保身のための行動。


 ついに依里花は我慢しきれずに、「くふふふっ」と声を出して笑った。


 一方、真恋は軽蔑するような目で、母を見上げる。




「な、なによ……そんな目で私を見ないで! あなたも私に育てられた恩を忘れたっていうの!?」


「育ててくれたことは感謝している。だが、これは別の話だろう」


「瀬田口って……光乃宮学園の先生だろう? 確か君の古い友人だと言って、街中で声をかけられたこともあったはずだけど……」


「そ、そうよあなた。彼は、そう、昔の同級生で、たまたま顔を合わせたことがあって」


「私が幼い頃から、お母さんは瀬田口と三人で食事を繰り返していた」


「真恋ッ! やめなさい、それ以上は!」


「瀬田口は言っていたよ。『自分こそが真恋の本当の父親だ』と」


「やめてぇぇぇぇえええええッ!」




 母の金切り声が響いた。


 それは断末魔の叫びにも似ていて、依里花の耳には心地よい癒やし音楽のように聞こえる。




「本当の……?」




 首を傾げる父。


 まだ彼は、言葉の意味を理解できていないようだ。




「つまり私は、お母さんと――」


「やめろよぉぉおおッ!」




 だが真恋が続きを話す前に、母が彼女に飛びかかった。


 そして両手でその首を絞めにかかる。


 しかし真恋はその程度の力ではびくともせずに、平然と冷めた目で見つめている。


 そんな彼女の前で、母は狂ったように声を上げ続けた。




「約束したじゃないっ、話さないって! 真恋、真恋あなたはママの味方でしょう!? 味方なんだから黙ってなさいよぉ、そんなことをここで言う必要は!」


「そのせいで私たち死にかけたようなもんだし、無関係じゃないよね」


「黙れよ生きてる価値もないゴミがぁぁああッ! お前の声なんて聞きたくないのよぉおおお!」


「はははっ、下品な声と顔だなぁ。じゃあお母さんも声を聞きたいみたいだし、私が続きを言うね」




 依里花は、今度こそ父に真実を告げる。




「真恋はお母さんと瀬田口の間に生まれた子供なの。昔の友人なんかじゃなくて、不倫してたんだよ」


「あ――」


「……え?」




 母は口を開いたまま固まる。


 父も首を傾けたまま固まる。


 その間抜けな姿は、まさに崩壊の象徴とも言える、一枚の写真に収めておきたい光景で。


 依里花は『これが見たかったんだよ』と心の中で拍手喝采をした。


 そして時が動き出すと、全てはガラガラと崩れ始める。




「嘘……だよね、栞里」




 そういや母親の名前って栞里だったな、と依里花は思い出す。


 久しぶりに名前を聞くのがこのタイミングだということすら、今は愉快だった。


 一方で、母は瞳孔を開き、冷や汗を流し、「はっ、はっ」と動物みたいに息を吐き出している。


 本当です、と自白しているようなものだ。


 それを裏付けするように、真恋が言う。




「本当だよ。お母さんは戒世教の信者だった。そしてその幹部である瀬田口の遺伝子をもらうことで、私を戒世教の幹部にしようとしたんだ」


「遺伝子……? 待ってくれ、じゃあ、真恋は……」


「私にお父さんの血は流れていない」




 はっきりと告げられた、目を向けたくない事実。


 きっと父は目眩を覚えたに違いない。


 天と地がひっくりかえって、地上から空へと落ちていく気分だろう。


 見てわかるほどにさっと顔から血の気が引く。


 そして縋るように母の方を見た。


 否定してくれ。


 否定できるだけの材料を見せてくれ、と祈るように。


 それに対して――母は、期待を裏切る形で応える。




「仕方ない、じゃない」




 仕方ない。


 第一声がそれだ。


 依里花はわくわくが止まらなかった。




「だ、だって、だってどう考えてもあなたより丁さんの方が優秀なんだものッ! 見た目も、背の高さも、頭の良さも、運動神経も、性格も、夜の生活だってそう! 何もかもがあなたを上回ってるんだものッ!」


「栞里……? 何を言ってるんだ、栞里ぃっ!」


「少しでもいい子供を生みたいって思うのは当たり前よ! 悪いのはあなた! 私は悪くない! 劣ってる、依里花みたいな子供を産ませたあなたが悪いのぉおおッ!」


「そ……そんな、そんなこと……じゃあ僕は、僕がずっと育ててきたのは……」


「いいじゃない、あなたの子供ってことになってるんだから。みんなは、真恋みたいな素晴らしい子があなたの遺伝子で生まれてきたと思ってる。それって光栄なことでしょう!? ねえ!」


「ふざけるなぁぁぁあああッ!」




 父が――あの弱々しくて情けない父が、初めて大声をあげた。


 これには真恋と依里花も驚きを隠せない。


 父は母に掴みかかり、目を血走らせながら言葉を吐きかける。




「お前が、お前が言ったんだろう栞里! 依里花は捨てようって、真恋に愛情の全てを注ごうって! なのに、なのにあのとき知っていたのか、真恋が僕の子供じゃないことをおおおおおッ!」


「知ってたわよぉ! だから真恋って名付けたじゃない。本当に愛しているのは丁さんだから、だから丁さんの子供にだけ愛情を注ごうってっ! そういう意味でつけたのよ、気づかないあなたが悪いのよぉお!」


「僕の、僕の15年は! 実の娘を虐げて、違う男の娘を愛した僕の時間はどうなるんだぁぁああ!」


「知るわけないでしょうがッ! そんな長い時間気づかないあなたが悪い! 出来損ないで生きてる価値の無い依里花を産ませたあなたが悪い! 悔しかったら丁さんぐらい出来のいい人間として生まれてきなさいよ!」


戒世教カルトに洗脳されてるくせに言い訳をぉおおッ!」


「洗脳なんてされてない、正気よ私は! 洗脳されてるのは真恋でしょう!? だいたい、おかげで依里花ですら光乃宮学園に入れたのよ!? よかったじゃない、私が信者じゃなければあの子は高校にすら通えなかった! あなたの、娘を、高校に通わせてあげたの! 愛してない娘をねぇぇええ!」


「栞里ぃぃいいいいいッ!」




 もはや父は意味のある言葉を発することができなかった。


 こめかみに血管を浮かべながら、顔を真っ赤にして怒りをあらわにするばかり。


 それでも――拳は握るが、母を殴ることはできない。


 依里花はその景色を見ながらつぶやく。




「ポップコーンほしいな」




 真恋は一瞬だけ頬を引きつらせたが、すぐに考え直す。




「引いた?」


「いや、姉さんの立場ならそうなる」




 そう、依里花ならそう感じて当然なのだ。


 あの両親が依里花を愛さずに、人間としてすら扱わなかったように――依里花から見たあの二人は、さながら見世物小屋で殺し合わされる獣同士。


 ならばおやつ片手に観戦するのが正しい楽しみ方だ。




「わかってくれて嬉しいよ、話し合っといてよかったね」


「まったくだな。おかげで姉妹だと実感できる」


「お、真恋も楽しんでる?」


「ほんの少しだが、胸の中にそういう気持ちがある」


「家族だねえ」


「ああ、家族だ」




 絆を深める姉妹。


 傷を深める夫婦。


 同じ家族なのに、対極的な姿である。


 だが少し飽きてきたので、依里花はそこに一石を投じることにした。




「学園に入れてあげたとか言ってるけど、私のことは殺すつもりだったんだよ。戒世教の神様の生贄にするためにね」


「殺す――そこまで、そこまで僕の子供が嫌だったのか!」


「そうよ! 学園に入れただけで十分でしょう、母親として役割は果たしてるッ! 劣等遺伝子と同じ家で暮らしてた私を褒めてよぉおお!」




 ついでに、真恋も爆弾を投下する。




「ちなみに瀬田口はあの中で死んだぞ」


「は――?」


「は、はは、死んだ? 不倫相手が? 間男が死んだ! 死んだぁ! あはははっ、ざまあみろぉおおお!」


「嘘よ、丁さんが死んだなんて嘘、嘘、嘘ぉおおおッ!」


「お母さん、まだ死体が見つかってないから生きてると思ってたんだね」


「どうして!? 一体どうしてえぇえ!」


「私が殺した」




 殺した。


 そう聞いた途端に、両親は二人共動きが止まった。




「ちょっと刺激が強すぎたんじゃない?」


「今のお母さんには劇薬ぐらいでちょうどいいだろう」




 人の死を語っているというのに、姉妹は平然としている。


 だが親たちの心中はぐちゃぐちゃだった。


 何より大切な宝物、愛する人との結晶、それが愛する人を殺した。


 血はつながっていないが唯一愛情を込めて育てた娘、それが人を殺した。




「どうして……」


「ああ、どうしてなんだい……」


「ねえ、どうしてあなたが――」


「なぜ依里花ではなく、真恋が道を間違えなければならないんだぁぁああッ!」




 父が嘆いていたのは、あくまで自分の人生が否定されたからに過ぎない。


 そこに依里花を愛する気持ちなどこれっぽっちも無いのだ。


 結局、この夫婦はどこまで行っても似た者同士でお似合いなのだと、その事実を強烈に見せつけられる。


 依里花は、真恋の気持ちもよくわかった。


 いくら瀬田口のことを父だと認めたくないからって、こんなやつらが両親だということも受け入れたくないだろう。


 だが逃げられない。


 それを認められないと、切り捨てることもできない。




「私は生まれてからずっと、姉さんのことを傷つけてきた。あなたたちと同じように、落ちこぼれだと見下し、蔑んできた」


「それはあなたにとって当然の権利よ、だって事実じゃない!」


「そう、当たり前だと思っていた。つまりその時点で私は“出来た娘”などではない。姉さんに言われて気づいたのだよ、紛れもなく私は、あなたたち二人に育てられた“クズの娘”なのだと。それを認めるためには、“自分が父だ”と主張する瀬田口は邪魔だったんだ。消さなければならなかった」




 真恋のよどみない言葉には、“受け入れたもの”の強さがあった。


 今の彼女は外っ面だけじゃない。


 麗花と共に歩むために、内側も強くなろうとしている。




「見てくれだけが立派に育った、出来損ない。それが私だ」


「見てくれすらも育たなかった出来損ない、それが私」


「私たちは似たもの同士で、姉妹」


「だから安心して、お父さん。真恋は紛れもなく、情けなくてみっともないあなたの娘だから。安心して、お母さん。私は紛れもなく、人の心が無くて醜いあなたの娘だから」




 姉妹がわかりあったときに見つけたその結論を、その目を背けられない事実を、二人は両親に突きつける。


 なぜそうする必要があったのか。


 それは手術と同じだ。


 患部がわからなければ、切除はできない。


 正視すること。


 それが必須条件であった。




「その上で言わせてもらう。私たち姉妹は今日をもって――両親との縁を切る。あの家に帰るつもりはない」




 確固たる決意を持って、決別を。


 クズが人間になるために。




「私はその前に縁を切るって言われたから問題ないよね」


「私は――あなたがたこそが本当の親だと認めたよ。だからこそ、離れなければさらに自分が落ちぶれていくと思った」


「そんなの……許すわけがないじゃない」


「そ、そうだ。まだ高校生の女の子が、一人でどうやって生きていくつもりなんだ! 社会はそんなに甘くない!」




 娘たちの――否、真恋の宣言に反応し、両親は一時休戦して詰め寄る。




「二人みたいなクズでも生きていけるんだし、割と甘そうじゃない?」


「家族のことに口を挟まないでッ!」


「私も家族だよぉ?」


「黙りなさいッ!」


「黙る必要は無いよ、姉さん。これは家族の話なんだから」


「真恋……あなた、本当に依里花に毒されてぇええ……!」


「大体、家族がどうこうとか今さら言えること? 不倫のことバレたけどどうすんの、お母さん。お父さんだってまだ許してないよ?」


「許すとか許さないじゃないのよ! そうよね、あなた! 家庭の危機なんですもの。それに真恋が言ってたことよ、生まれなんて関係ない。育てた親が大事なんだって!」


「それは……」




 父の瞳には、まだ怒りが宿っている。


 “驚き”で上書きされただけで、それが剥がれれば、殺意を帯びるほど強い憤怒が再び顔を出す。




「騙していたことは、許せない」


「あ、あなた……」


「ほら、お父さんもそう言ってるし。どうせ私たちが戻ったところで、家庭崩壊は免れないって。てか離婚確定じゃない?」


「そんなことするわけないわ! だ、だって……ほら、あなた、いつだって私のことを許してくれたじゃない! 優しく包み込んでくれてっ! だから、今回も……ね?」




 瀬田口はもういない。


 それを知った母は、途端に父に媚びはじめる。


 結果、余計に父は母への不信感を強め、歯を噛み締めて睨みつけた。


 優しい、怒らない、都合がいい――そんな父が自分に憎悪を向けるその姿を見て、母は事態の深刻さを思い知ったようだ。




「ほんの出来心だったのおぉ! 依里花を妊娠して不安だったところを勧誘されたのよ。そしたらかっこいい男の人がいて――」


「依里花を妊娠したときから、だったのかい」


「そう! だから仕方ないの! どうしようもなかったの! 私は悪くないのおぉお!」


「僕は……僕は栞里のことを愛してきたつもりだよ。誰よりも君を尊重して、何よりも君を優先して」


「わかってるわ、あなたは大学の頃から優しくて素敵な人だった!」


「でも……君は結婚するまでの間に、二度も浮気をしたよね」


「え……?」


「あれを許したのが、間違いだったのかもしれない」




 それは娘も知らない、昔の話。


 依里花は聞きながら思う。


 “見つかった”のが二度なだけで、実際はもっと多いんだろうな、と。




「僕は君にとって都合のいい男だった。優しいから、何でも許すから、結婚しても束縛せずに君は自由に生活できて……だから僕を選んで……っ!」


「そんな、ことは……」


「なんだよ、なんなんだよ、もうっ! 不倫した君が100%悪いじゃあないか、でも……ふ、くぅっ……どうして、僕が悪いって言われなくちゃならないんだぁああ……!」




 ついに泣き始める父。


 すると母の顔から表情がすっと消えた。


 その情けない顔を見て、再び“スイッチ”が入ったのだろう。




「そうよ、あなたが悪いのよ」




 ジェットコースターみたいな人だと、依里花は思う。


 彼女も結局のところ、自分が間違ったことをしていると自覚しているのだ。


 しかし自分が悪いと認めたくない。


 だから自己弁護と八つ当たりを繰り返し、情緒が不安定になっていく。




「そんなふうに気持ち悪く泣いたりするから! そういう男だから依里花みたいな子供も生まれるし、浮気だってされるのよ! 仕方ないじゃない、あなたより魅力的な男性が世の中にはいっぱいいるんだもの!」


「なあ、依里花は本当に僕の娘なのか? 色んな男に抱かれて、もうわからないんじゃないか!?」


「あなたの娘に決まってるじゃない! そっくりだもの!」


「っ……君だって、君だって依里花の母親だろう! あんなふうに生まれてきたのは君の責任でもあるんじゃないのか、なあ!」


「真恋を見たらわかるでしょうッ! 私のせいじゃない、あなたのせいよ! あなたみたいな人間が私と結婚できたんだからいいじゃない、好きにしたってッ!」


「栞里が……そんな人間だから、不倫でしか相手されないんだろう? 本当にいい女だって言うんなら、本命として愛してもらえるだろうッ!」


「丁さんは私のことを愛してくれてたッ!」


「瀬田口の子供、他にもいっぱいいるらしいよ」


「黙れ生きてる価値もないゴミィ!」


「ほら見たことか! 僕みたいな、情けない人間がお似合いなんだよ、栞里はぁぁああッ!」


「気持ち悪いこと言わないでよ、顔も近づけないで、見てるとイライラするのよッ!」




 母は父のことを突き飛ばす。


 ソファから転げ落ち、尻もちを付いた彼は、どこまでもかっこ悪い。


 そんな姿を前に、母は汗ばんだ顔に髪を貼り付け、肩で呼吸しながら、薄ら笑いを浮かべて言い放つ。




「この際だからはっきり言うわ。あなたのことなんて一度も愛したことない! あなたの言う通り、都合がいいから付き合って、結婚したのよ! それで裏で付き合ってた別の男と一緒に馬鹿にしてたわ。堂々と浮気してるのに全然気づかないし、自分が愛されてると勘違いしてる、こんなおもしろいやつ他にいないってね! それが楽しかったのよッ! そうやってあ、あなたで遊ぶのが楽しいから――ッ!」


「あ……ああああ……!」


「ほら何も言えないんでしょう? ここまで馬鹿にされても、文句の一つも言えない! 頬の一つも叩けない! だから情けないって言ってるの! 離婚したいならしてあげるわ。でもねえ、そんなことしたってあなたは幸せになんてなれない! このまま、誰にも愛されない負け組として、自分の実の娘をゴミみたいに扱った人間として一生生きていくのよ! それがあなたにお似合いの人生なのよぉおおッ!」


「うああぁぁ……、ぐ、ううぅぅうう……ッ!」




 ボロボロと泣きながら、うめき声をあげる父。


 依里花はそんな彼に近づくと、しゃがみ込んで目線を合わせ、優しく声をかけた。




「お父さん」


「えり、か……」




 そしてドリーマーを呼び出し、ぽんと父の手に握らせる。




「これは、あなたの唯一の娘から送る、最初で最後のプレゼントだよ」




 あげたこともない。


 もらったこともない。


 そんな依里花から渡さ入れたのは、一本のナイフ。


 ドリーマーという名を冠する、悪夢を断つ刃。


 父にとっての悪夢とは何なのだろう。


 彼は顔をあげ、母を見つめた。




「あなた……それを、どうするつもり、なの? 危ないじゃない、捨てなさいよ」




 異様な形のナイフだったが、それが強烈な殺意を宿していることは、素人の目にもわかった。


 だから母は怯える。


 そして父は、その刃を、そこに反射する自分の顔を、まるで魅入られるようにじっと見つめている。




「さて、と。真恋、私たちはそろそろ行こっか」


「……いいのか」


「夫婦の営みを覗いちゃ悪いよ。特に娘なんかに見られたら気まずくてしょうがないからね」


「ああ……わかった」




 真恋は、最終的な判断は依里花に委ねると決めていた。


 自分も加害者だ。


 口を挟む権利はない。


 二人は席を立つと、両親だけを残して部屋から出る。


 そのまま離れるかと思いきや――依里花は、部屋の近くの壁に持たれ、目を閉じ、耳を澄ました。




「あなた、やめて。お願いだから。近づかないで!」


「栞里が……悪いんだ」


「謝るからっ! 私が間違ってた! さっきのは、その、ちょっとしたはずみで! ほら、あなたも知ってるでしょう? 私が興奮すると歯止めがきかなくなるって!」


「一体何年、僕を裏切り続けてきたんだ? 僕の人生を弄んできたんだ?」


「認めるわ。あなた、男らしい。素敵。だって、ほら、そんなナイフを向けるなんてこと、他の男にもされたことないもの。だから、もう十分でしょう? 今までの言葉は全部撤回するからぁ!」


「愛情が無いってわかってるのに、我慢なんてできるわけないだろぉおお!」


「いやっ、いやぁぁぁああああッ!」




 部屋から叫び声が聞こえる。


 父はついに母に襲いかかり、娘から渡された愛の刃を激しく突き立てる。


 防ごうとする母の両腕をざくざく、ざくざくと斬りつけた。




「痛いっ、痛いのおおっ! やめて、あなたあぁぁっ! 私が悪かったですぅ! 全部、私がっ、私がぁぁああっ!」


「認めたからなんだよぉお! それで僕の、僕の人生が戻ってくるわけじゃないんだぁぁああ!」


「いやぁぁあああっ! あぎっ、があぁぁっ! いたひっ、いやらあぁあっ! 誰か、誰かたすけてっ! 真恋っ、まりいぃんっ! もう依里花でもいいからっ! だずっ、げっ、ひいぃいいっ!」




 ここからだと、声だけでなく、中でドリーマーが母を切り裂く音も聞こえる、


 今日までずっと使い続けてきた相棒だから、その音だけで、どういう形で人体に触れているのかわかるのだ。


 ああ、今は前腕の筋を引き裂いた。


 ああ、今は骨まで到達した、骨も半分ぐらいは断てたはずだ。


 鎖骨表面の肉を削いだ、耳を斬り落とした、指を飛ばした、二の腕の柔らかい部分に沈んだ。




「は、あは、あはははははっ」




 依里花は笑った。


 隣で真恋は苦しげな表情をしていたが、依里花は笑った。


 悲しみも、迷いも、苦しみも、何一つ無い純粋な笑みで。




「あっははははははははっ!」




 口を大きくあけて、目に涙が浮かぶぐらい笑った。


 もちろん泣いたわけじゃない。


 笑いすぎて、涙が溢れてきたのだ。




「栞里ぃ、! 栞里いィィィィ! よくもっ、よくも僕を馬鹿にしてくれたなぁぁぁあああっ!」




 きっと今日まで、父はたくさん我慢してきたんだろう。


 それが一度堰を切ったように溢れ出し、もう止まらなくなっていた。




「あがあぁあっ! い、いやぁあっ、じにだぐっ、あひっ、じにだぐないいぃぃいっ! お、ごおっ!」




 母の声は濁り、水音もまじり、おそらく喉に傷が入っているのだろうと予想できた。


 とうに刃は首の動脈すらも引き裂き、彼女の体は血の海に沈んでいる。




「死ね、死んでしまえぇぇえっ! 返せよお、僕の人生を、僕の娘を返してくれよぉおおお!」


「あ、あが……ぐ、あたる……さ、……ぐうぅっ……」




 やがて母の声が聞こえなくなってからも、父の狂乱は響き続けた。


 さすにが病院のスタッフもそれに気づき、顔を真っ青にして駆けつける。


 依里花は笑う口元を手で隠した。




「はっ、ふふふっ、ん……ふっ、くぅっ……」




 今の笑っているのだが、しゃがみこんで目を閉じてみると、相手から見ると泣いて見えたらしい。


 中から聞こえる異様な声。


 漂ってくる血の匂い。


 そして泣き崩れる娘。




「あの、この中で一体何が……」




 真恋は看護師から目を背け、ぼそりと答えた。




「父が暴れだして……母を、ナイフで刺したようです」




 看護師の表情が引きつり、ゆっくりと応接室の扉の方を見る。


 さすがに、そこを開けというのは酷だ。




「警察を呼んでください」




 真恋がそう言うと、看護師は慌ててナースステーションのほうへと走っていった。


 その姿が見えなくなったあと、依里花は真恋に礼を告げる。




「ご、ごめんっ……ふふっ、ありがと。んふふっ」


「嬉しそうで何よりだよ」


「うん、やっぱ殺したい人が死ぬときは、こうじゃないとね。ははっ、初めてお父さんが父親でよかったと思ったよ。くふふ……っ」


「……」


「真恋は辛かった?」


「いや、思ったよりも心が動かない。冷めた自分に少しショックを受けている」


「はは、仕方ないよ、あの二人が親なんだから」


「変わりたいな、こんな自分から」


「日屋見さんと一緒なら大丈夫じゃない? 私もこれで……ふふっ、八割ぐらいは解放されたかな」


「まだ二割も残っているのか」


「夢実ちゃんの親とか、戒世教本体もあるし」




 だが気楽なものだ。


 依里花にとっての呪いの大半は、もう消えて無くなったのだから。


 母の声は完全に聞こえなくなった。


 父の叫びも途絶え、中からはすすり泣きが聞こえてくる。




 ◆◆◆




 その後、数分後に警官が到着。


 倉金栞里はその場での死亡が確認された。


 現場にいた夫の倉金直樹を殺人の疑いで逮捕、後の取り調べで犯行を自白した。


 なお、容疑者は凶器について『娘から渡されたナイフを使用した』と話している。


 だが凶器は見つかっておらず、娘の関与を示す証拠は一切残されていない。


 当然のことだ。


 父が激昂して、母を殺した。


 ただそれだけのことなのだから。


 依里花にも真恋にも関係はない。


 現在も、そしてこれからも――二人は倉金の血に縛られることなく生きていく。


 最初で最後の家族団欒は、そのために必要な儀式だった。



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