第4話 農場見学-1

 次の日の朝、農は壁に掛けられていた鏡に写った自分の顔を見て驚いた。昨日、目覚まし時計が命中した左頬が腫れていた。意識すると様々な意味で痛みが増してくる。加えて寝不足のため、目の下にクマができて顔をむくんでいる。何度も殴られたと思えるような顔だった。実際は、早生により飛ばされてきた目覚まし時計による一発だけである。


 洞爺に言われた通り七時に一階のテーブルに向かった。すでに洞爺により朝食の準備が済まされていた。挨拶をした洞爺はニヤニヤしながら農に訊いた。


「その顔はどうしたんだい?早生ちゃんの裸でも見て殴られたかい?」


 正解ではないが、かなり近い状況を言い当てられたことに驚きながら、昨日の悲劇の内容を説明した。


「それはラッキー、じゃなくて不運だったね」


 発言とは裏腹に表情は楽しそうと訴えているような気がするのは気のせいなのだろうか。


 早生の怒号が鳴り響いていたとき、洞爺は店にいたためこの事態を知らなかったようだ。他の人に聞かれていなかったことを願うしかなかった。


 そんな会話の直後に早生が『おはようございます』と一階に降りてきた。農はすぐに『昨日は、ごめん』と早生に謝罪をした。もちろん意図的にやったことではなく、事故だ。不注意が招いた失態であることについてはとても反省している。


 早生が農の前に立ち、左手を振りかぶった。農は殴られると思い、目を瞑った。早生は無言で湿布をやや叩きつけるように農の顔に貼った。


「二回目はないから」


 早生のその一言にゾクッとしつつもホッとした。だが、優しいところもあるのだと歓心したのも束の間だった。


「菜々さんに何かしたら、鼻にとうがらし突っ込むから」


 出会ってからまだ一日も経っていない早生は本当にやりそうだから怖い、というか絶対やる。農は思った。


「菜々さんって誰?」


 農の問いに対しては洞爺が説明をしてくれた。もう一人のシェアハウスの女性住人で、早生のお姉さん的存在なのだという。


 昨日は仕事で帰って来なかったが、今日は帰ってくるということなので会えるそうだ。早生のお姉さん的存在とはどういう人なのだろうか。ヤンキーみたいな人だったらどうしようと不安になった。


 そんなやりとりをしているとき、一人の男が登場した。『おはよう』と言いながら当然のようにテーブルの椅子に腰掛けた。農が疑問の眼差しを洞爺に送った。


「この人は、農場を経営する『味来 惠味みらい めぐみ(みらい めぐみ)』さん」


「はじめまして、ほし・・・・・・」


「彼は昨日からここで働いてもらうことになった『やぎくん』」


「よろしくね、やぎくん」


 農と味来の自己紹介は洞爺によって中途半端に終了した。


 朝食の準備も進み、人数も揃ったのでいよいよ朝食の時間だと思ったとき、一つの疑問が生じた。朝食のメニューは『スクランブルエッグ』『ベーコン』『食パン』『?』。


 農は思わず「これはなんですか?」と質問をする。


「はぁ?バーニャカウダでしょ。こんなことも知らないの?田舎者なの?」

 いきなり早生が口撃をする。


 丸いガラス容器の中に透明の大小様々な丸いジェルのようなものが詰まっている。僅かに見えている根にそのジェルのようなものが塊になりくっついている。ジェルまみれの根から生えている短い茎から小さいキュウリやミニトマトと思われるものがぶら下がっている。まるで、ミニ菜園だ。


「ははは。まぁ、やぎくんは知らないかなと思って、朝から奮発してみました。」

洞爺が得意げに語る。


「これ、お店で食べたら高いんだからね。贅沢」


 早生が続けた。そういえば、昨日このレストランに来たときに客席に同じようなものがあったことを農は思い出した。


 まだそのありがたさを理解できていない顔をしていると、早生が続けた。


「まさか、お店の前にあった表示見てないの?『さとうさんの野菜あります』って書いてあったでしょ?」


「日本の名字で常に上位にランクインしている『佐藤さん』という農家が作った野菜?」


 早生が、『本当に何も知らないんだな』と言いたいことがよくわかるくらい呆れた顔をした。


『さとう』とは味来が経営している会社の名称らしい。ともかく、なんとも不思議な感覚だが、テーブルの上でガラス容器のミニ菜園からの採れたての野菜をいただく。

『採れたてはおいしい』だけではなく、みずみずしさや野菜の味がしっかりしている。農にとって『確かに高いお金を払ってでも味わいたい感覚』だった。


 何も言わなくても、農が感激しているのは周囲に伝わったようだ。


「満足してもらえたようで良かったよ。農場を見学させてもらったらどうだい?」


 洞爺の提案により、農は朝食後に農場を見学させてもらえることになった。


「オーナー、ありがとうございます」


「洞爺でいいよ」


「洞爺さん、ありがとうございます」


 朝食の片付けが終わった後、早生が少し慌てた様子で部屋へ戻った。農も一度部屋へ戻り、昨日顔面を直撃して破損した目覚まし時計を手に取った。


 農は昨日起きた災難の後、一階で見つけた工具で目覚まし時計を修理していた。線が一本切れていただけだったので、はんだ付けで済んだのは不幸中の幸いだった。ただし、デジタル表示は復旧したが、割れた部分は少し傷が残ってしまった。


 早生が自分の部屋から出てくるのを待って、その目覚まし時計を返した。目覚まし時計を目にした瞬間、早生は涙目になっていた。


「変態の次は泥棒か」


 怒りを含んだ涙声で言い放つと、目覚まし時計を農の手から奪い取った。部屋へ戻りすぐに出てきた早生は、農には見向きもせずに洞爺たちに『いってきます』と言って出かけて行った。早生は農学部に通う大学生であることを洞爺に聞いた。


 お礼を言われることはあっても、涙目で罵声を浴びることは農にとって予想外の出来事だった。このような状況になるきっかけを作ってしまった責任は感じているため、複雑な心境だった。農にとって、今日も波乱の一日になる予感しかなかった。


 朝食後、農は味来に連れられてレストランの近くにある農場兼本社ビルにやってきた。確かにレストランから近く、洞爺の作る朝食を食べてから味来が出社するというのも頷ける。


「なんじゃこりゃ」


「うちの会社」


 農場兼本社ビルという建物の前に立ち、ビルの頂上を目指して目線を上げると首が痛くなるほどだった。三十七階建てのビルすべてが『株式会社さとう』のものだという。

 先入観というのは恐ろしいものである。『農場=広い』ではなく「農場=高い」だった。イメージとの差が大きすぎだ。このビルの体積はもちろん、面積も十分に大きい。


 ビルの入口から中に入ると、『農場』ということを忘れてしまうくらい大企業のオフィスのようだった。


 農と味来は、まずエレベーターで十九階にある社長室に向かった。着替えをするのが目的ということだった。農は味来が私服で出社していたので、スーツに着替えるのかと思った。が、着替え後の姿はつなぎだった。


「汚れることはそんなにないと思うけど、やぎくんもつなぎどう?」


 農は『つなぎを着るのは初めてだな』と思いながら、つなぎを借りることにした。

「なぜ社長の仕事着が『つなぎ』なんですか?」


「作業着は『つなぎ』がいいでしょ?」


 なぜ、オフィスにいる社長の仕事着が『スーツ』ではなく『作業着』なのか?質問の意図が全く伝わっていなかったが、今回は納得することにした。


 味来曰く、『つなぎ』はトイレを除いて最も動きやすく落ち着く服装らしい。『落ち着く服装なら家で着るべきでは?』と突っ込みそうになってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る