(2)船はアテネへ

 ギリシャの海の玄関口であるキオス島は、のんびりとした空気の流れる過ごしやすい場所だった。


 中心街周辺にある観光スポットといえば『キオスの風車』くらいのもので、ここを見てしまえば後は街をぶらぶらするか海を眺めてぼんやりするくらいしかやることはなくなる。バスに乗れば幾何学模様の装飾があちこちに施されたピルギ村という村にも行くことができるのだが、残念ながら週末は運行しておらず断念した。


 島の中ではあちこちにレンタカー屋を見かけるのだが、そうした交通事情があってのことだろう。観光客が島を回るのは、レンタカーを借りるのが一番手っ取り早い。


 とはいえ一人旅で車を借りるのは贅沢だし、慣れない左ハンドルで事故を起こしてもつまらない。私はおとなしく街中や海沿いを散策して2日間を過ごした。


 3日目に宿を引き払い、夜行フェリーでアテネを目指すことにした。最後にオーナーのアレックスさんと話がしたかったのだが、来客対応をしていて忙しそうだったので簡単な挨拶だけ済ませて別れた。


 キオス島からアテネへのフェリーの料金は48ユーロ(約7200円)だった。かなり高額に感じるが、1日分の宿泊料を含んでいると思えば納得できなくもない金額だ。


 キオス島での最後の夜は、ギリシャの地酒であるウゾを飲んだ。ウゾはハーブで香り付けされた蒸留酒で、透明な色をしているが水を注ぐと白く濁る特徴がある。


 私が最終日までウゾを注文することをためらったのは、トルコで飲んだラキという酒が舌に合わなかった経験が関係していた。ウゾとラキは似ている。と言うよりも名前だけが異なる同じ酒だ。


 恐る恐る白濁したウゾを飲んでみたのだが、不思議とおいしく感じた。ラキを飲んだ時の強烈なクセが大分和らいでいるような気がする。


 ラキはグラスの半分以上を残してしまった私だったが、ウゾはすんなりと飲み干すことができた。注文したラキの銘柄がたまたまクセの強いものだったのか、それとも私の味覚が変化したのだろうか。


 イカのフライを一緒に摘んでいた私は、ウゾだけでは酒が足りず白ワインを追加で注文した。グラスで頼んだつもりだったのだが、運ばれてきたのは金属製の容器になみなみと注がれたデカンタだった。


 たっぷり500mlはあるだろうか。私は少し気合を入れてワインを飲み進めていった。食事も酒もなくなる頃には、すっかり飲んべえの完成である。支払いを終えると、私はふらふらとおぼつかない足取りでフェリー乗り場へ向かった。



 出航30分前となる午後9時を回ると、フェリー乗り場は待機する乗客で溢れるようになった。キオス島は人が少ないと思っていたのだが、こんなにも観光客がいたことに驚いた。


 9時15分に乗船が始まる。チケットを確認してもらった時に「私の席はどこですか?」と尋ねたのだが、返ってきたのは予想外の答えだった。


「君のチケットでは席に座れないよ」


「席に座れない? ではどこで寝ればいいんですか?」


「席以外のどこでも」


 席以外のどこでも、とはどのような意味だろうか。実際にフェリーに搭乗して、その答えがわかった。

 通路には、床にマットレスや寝袋を敷いて思い思いにくつろぐ乗客の姿があったのだ。

 これはマズい。私はマットレスも寝袋も持参していない。かと言って、床に直接横になるのはあまり気が進まなかった。共用のソファーも探したのだが、それらはすでにキオス島よりも前に乗船した客によって埋まっていた。


 フェリー内を上に下に奔走した私は、窓際のスペースを確保した。ここに自由に使えるプラスチックのイスを二つ置いて簡易ベッドにする。

 簡易ベッドと言っても横になることはできないし、背もたれも腰までしかない。足を向かい側のイスに乗せて俯いて眠るしかない。


 ——やれやれ。こんなことになるなら、もっとしっかりチケット売り場で話を聞いておけばよかった。


 私はチケット売り場の窓口で一も二もなく「一番安いチケットで!」と言ったことを後悔していた。


 出航を知らせる汽笛の音が響き、船はキオス島を離れていく。デッキに出て島の光が遠くに消えていくのを見届けた私は、寝る体勢をつくるため自分のスペースに戻った。


 空気枕とクッションを膨らませて頭と背中に置くと、アイマスクを着けて目を閉じる。しかしやはり無理があるのか、なかなか寝付くことはできなかった。

 こういう時は、眠れなくてもじっと目を瞑って時間が過ぎるのを待つのが得策だ。多少は寝た気になる。


 ——アテネに着いたら、柔らかいベッドに飛び込みたいな。


 そんなことを考えながら、私はアイマスクの暗闇の中で船の揺れを感じていた。




 どれくらい時間が経ったのだろうか。


 薄く意識を保ったままじっとしていた私は、周囲がざわつく音を聞いてアイマスクを外した。


 周りを見渡してみれば、乗客が荷物をまとめている。窓の外を見ると、空はすっかり明るくなっていた。スマホを取り出すと、時間は午前7時20分だった。


 ——もうそんな時間なのか⁉︎


 無茶な体勢で寝ることができるか不安だったのだが、意外と熟睡してしまっていたらしい。我ながら自分の適応力の高さには驚くものがある。立ち上がると、凝り固まった体がバキバキと嫌な音を立てた。


 デッキに出ると、海の向こうに朝日が昇っている。そしてその方向に街が広がっているのが見えた。


 私はアテネに来たのだ。

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