(12)峡谷からの脱出
カッパドキア観光の拠点の街であるギョレメには、旅行会社が星の数ほど存在する。
中には観光客を引き込もうと、「○」の中に「i」の文字が入ったインフォメーションセンターのマークを看板に掲げた少々たちの悪い店もある。
旅行会社で体験できるアクティビティは様々だ。
カッパドキアの定番である熱気球飛行のほか、荒野を走るバギーカーや乗馬も人気だ。また、ギョレメ周辺に点在している観光名所や見どころを巡るツアーはコースによって名前が付けられており、それぞれレッドツアー、グリーンツアー、ブルーツアーと呼ばれているらしい。
それだけ多彩なアクティビティやツアーが用意されていながら、結局私はそのどれにも参加することはなかった。
金を出し惜しんだ、というわけではない。もともとツアーが苦手ではあるのだが、カッパドキアのように自然豊かな場所は自由に散策するのが好きなのだ。
今回はちょっとした散歩のつもりが冒険になってしまった、よくわからない話をしようと思う。
* * *
ギョレメでの行動を始めた私は、まず適当な旅行会社に入った。
ツアーに参加する気は無いのだが、カッパドキアの地理や名所を把握しておきたかったのだ。旅行会社の青年の話を聞いた後、検討するフリをして店を出ていく。若干申し訳ない気持ちはあったが、向こうも慣れていることだろう。
カッパドキアで最も人気の場所は、ローズバレーと呼ばれている峡谷らしい。日本語では「薔薇の谷」と言ったところか。写真を見せてもらったが、夕方になると谷が薔薇色に染まることがその名前の理由であるらしかった。
場所も教えてもらったが、片道7,8キロというところだろうか。徒歩でいけなくもない距離だ。私はローズバレーを目指して歩いていくことにした。
その日の気温は32度だった。エジプトから入国したばかりの頃はトルコはなんと涼しいのだろうと感激したものだったが、今度はこちらの気温に体が順応し始めたのか30度でも暑く感じるようになってきていた。
街を出てひたすら北へ歩いていくと、舗装されていない土の道に入る。その道はたまに車が通る程度で、歩いているのは私くらいのものだった。坂を登っていくと、開けた見晴らしのいい場所に出る。そこはキャンプ場のようで、何台かのキャンピングカーが泊まっていた。
世の男性が一生に一度は憧れを抱くように、私もキャンピングカーに興味を惹かれた。好きに移動して、気に入った景色の場所で寝泊まりができるというのはなんと優雅な旅だろうか。寝床の確保に苦労して、しかも徒歩で観光をしている今の自分の境遇とまるで正反対だ。
さらに周囲を見渡してみると、谷を挟んで向かい側の高台に人が集まっているのが見えた。どうやらあの場所に観光客が集まっているらしい。私は坂道を下って谷に降りると、再び坂を登って高台を目指した。
途中、崖の近くで休憩していると一台のバンが私のそばに停車し、中から若い女性が出てきて話しかけてきた。
「あなたは歩いてここまで来たの?」
私が「Yes」と答えると、女性は嬉しそうに「それならラブバレーへの行き方はわかる?」と尋ねてくる。
ラブバレー?
ローズバレーの聞き間違いだろうか。
私が「ローズバレーですか?」と聞き返すと、女性は胸の前で指でハートの形を作り「“ラブ”バレー」と訂正してきた。その仕草に多少ドギマギしながら「知らないなあ」と挙動不審に答えると、女性はあっさりとバンに戻っていった。
バンに乗っていたのは、同じ年頃ばかりの女性が6人だった。友人同士のグループでカッパドキアに観光に来たところだろう。
それにしても、ラブバレーとはなんなのだろうか。
あの女性6人は愛を探して旅でもしているのだろうか。
高台に到着すると、その謎が解けた。売店の男性にコーラを買うついでに「ここはローズバレーですか?」と聞いてみると、「ここはラブバレーだよ」と答えが返ってきたのだ。
どうやら私は違う谷に迷い込んでしまったらしい。
しかし、それも当然といえば当然のことだった。私がこの場所に来たのも、「高台に人が集まっているのが見えた」というだけの理由だったのだから。
怪我の功名というわけではないが、ラブバレーも面白い場所だった。
高台にはハート型のオブジェがいくつも設置されており、カップルや家族連れが記念撮影を楽しんでいる。見下ろす景色は、まさに奇岩地帯と呼ぶべきもので、背が高く先が尖った岩が乱立している。人工物に見えるが、これが全て自然にできたというのだから不思議だ。
しかし、その特徴的な岩の形がどうも男の股についている“アレ”にしか見えない。
——もしかしてラブバレーって“そういう”由来なのか?
そんな疑念が頭に思い浮かんだが、深くは考えないことにした。
谷では奇岩の近くで、先ほど会った女性6人組が楽しそうに写真を撮っている姿が見えた。どうやら女性たちは高台の上ではなく谷そのものに行こうとしていたらしい。だから私に「歩いてきたの?」と尋ねてきたのか、と合点がいった。
私も高台を降りて、谷を歩いてみることにした。
奇妙な形の岩の間を歩いていると、谷の道がずっと続いていることに気がつく。この道はどこに続いているんだろうと考えた時に、「もしかしてギョレメに戻ることができるのではないか?」と思いついた。
私の推測は丸っきり勘というわけでもない。
谷は両側を岩山に囲まれているのだが、私は左手側に見える岩山に沿ってここまで歩いてきた。ならば、同じように岩山と並行して歩いていけばどこかでギョレメに近い場所に抜けることができるはずだ、と。
——元来た道を引き返していくよりは面白そうだ。
私はそんな軽い考えで、谷の奥へと足を踏み入れていくのだった。
初めは意気揚々と奇岩地帯を歩いていき、「あ、あの岩、親指をグッと立てた形に似てるな」などと周囲に目をやる余裕もあった。だが、道が険しくなるにつれて「この道は本当に大丈夫なのか?」という不安が膨らんでいく。
道はやがて森の中を進んでいくようになる。Tシャツとサンダルという軽装で藪の中に突っ込んでいった私は、枝に生えた棘にあちこちを刺されて痛い思いをすることになった。
藪の中では大量の虫が大きな羽音を立てていた。アブなら噛まれるだけだが、もしもハチに刺されたなら毒で動けなくなってしまう。そうなったら、周囲に人影がないこの場所では助けも呼べない。
私はなるべく虫を刺激しないように、身を屈めてゆっくり進んでいった。
なんとか森林ゾーンを抜けると、今度は岩の上を歩いていく。藪の中を不快な思いをしながら進んでいくよりははるかに楽だったが、太陽光からの逃げ場がないのは辛かった。
持ってきた500mlのペットボトルの水はすでに飲み干してしまっている。私は疲労と乾きに耐えながら、谷の道をふらふらと歩いていった。
左手側を見上げると、岩山は変わらずそこにそびえ立っている。あの岩山の向こうに街があるはずなのに、超えることができない。それがなんとももどかしかった。
ラブバレーの高台を出発して2時間ほど経った頃だろうか。ようやく谷の果てのような場所にたどり着く。最後の気力で上り坂を登っていくと、岩山の上に出ることができた。
——助かった……
私は無事に脱出できた安堵感から、深いため息をついた。
振り返ると、私が歩いてきた峡谷が見渡せる。よくもまあ、こんな谷をずっと進んできたものだと呆れるような、得意になるような気持ちになった。
自分の足で歩いていると、思いがけず冒険が始まることがある。
私が頑なにツアーに参加しようとしないのは、そのちょっとした冒険を心のどこかで求めているのかもしれない。
もっとも、それは自分自身の不注意や早とちりから生まれることがほとんどなのだけれど。
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