(10)バスは荒野を走る

 古代エジプト建築の最高傑作とも称される『アブ・シンベル神殿』は、アスワンの街から車で4時間の距離にある。


 神殿の観光はホテルや旅行会社でツアーに参加するのが一般的で、料金は大体300ポンド(約2100円)から。午前3時にアスワンを出発し、7時ごろに神殿に到着。1時間ほど観光した後、また来た道を4時間かけて引き返し、昼過ぎにアスワンに帰ってくる。


 私はツアーに参加せず、独力でアブ・シンベルに向かうことにした。


 理由は3つほどある。

 まず、神殿を見て回る時間が制限されるのが嫌だった。残り時間を気にして早足に歩き回るのは、せっかくの機会を台無しにしてしまうように感じられる。

 もう一つは来た道をその日に引き返してしまうのは、あまりにも味気ないように思えたからだ。せっかく片道4時間もかける“大旅行”を、1日で終わらせてしまうのはもったいない。

 最後に、これは根本的な問題なのだが、私はツアーと名のつくものが苦手なのだ。


 午前8時に宿を出ると、中心部から3キロほど離れた場所にあるバスターミナルを目指す。川沿いにひたすら北に歩いていけばいいので、迷う心配はない。


 ——3キロなら、30分くらい歩けば着くかな。


 朝の時間帯なので、気候も涼しい。私は気楽な気持ちだった。


 ところが、道中で事件は起きる。

 バックパックを背負って歩いていた私は、なんの疑いもなく道にあったマンホールを踏んだ。すると、いきなり蓋が外れて足場が消えた。


「うわっ」


 私の体はマンホールの穴へ引きずりこまれかける。背中のバックパックが引っかかり、なんとか完全に落下する事故は避けられた。


 危なかった。

 日本で過ごしているとマンホールがずれるなんてことは滅多にないため、油断していた。見れば、私が踏んだマンホールは頼りないゴム製であった。

 近くにいたエジプト人2人に引っ張り出されて救出されたが、私はあちこちに擦り傷を負ってしまった。いや、擦り傷で済んでよかったと思うべきか。


 助けてくれた2人にお礼を言うと、私は再び歩き出した。歩いている間も、擦りむいた膝がじんじんと痛んだ。なるべく足元を注意し、二度とマンホールの上は歩かないように気をつけた。


 バスターミナルでは、大型の屋根の下に何台ものバスが並んでいた。

 すぐにアブ・シンベル行きバスは見つかった。乗客が集まってから出発する乗り合いバスで、すでに数人のアラブ人とフランス人カップルが乗っていた。

 料金は片道100ポンド(約700円)だという。ツアー料金が往復で300ポンドだと考えると少々高額に感じたが、そのまま支払った。


 バックパックを荷物台に乗せて座席に座ると、ようやく落ち着けた。アブ・シンベルまでの道の出だしだというのに、ここに来るまでに大分疲れてしまった。

 15人乗りのバスにドライバーも含めてきっかり15人が乗車したところで、バスは出発する。

 それが苦難の始まりだった。


 バスは街中ではおとなしく走っていたが、荒野の真ん中を突き抜ける一本道に入ると本性を現した。

 2車線道路の中央をすさまじいスピードで走り、右に同じ方向に進む車があれば左にハンドルを切って追い越し、左に対向車があれば右側に避けて再び中央に戻ってくる。一体なんのゲームをしているのかと思う荒い運転をおっぱじめたのだ。


 あわや激突……という目に何度もあったせいで肝は冷えていたのだが、それで暑さがしのげほどエジプトの夏は甘くない。

 車内にはクーラーなどという気の利いた装置は搭載されていないので、窓を開けていた。しかしバスがスピードを出して走り始めると、熱風が吹き込んでくるようになる。乗客は次々と窓を閉めるのだが、空気の循環が止まり車内の温度はぐんぐん上昇を続けた。


 湿度がないので蒸し風呂という表現は当てはまらないが、40度以上の気温の中で鉄の塊にぎゅうぎゅうに閉じ込められているといえば、私の置かれている状況の過酷さも多少伝わると思う。 まさに熱と密の二重苦である。


 ——ツアーに参加していれば、エアコンの効いた車内で優雅に車窓の風景を楽しめていたのかな……


 後悔が頭をよぎるが、バスは走り出してしまったのだ。私にできることは、じっと耐え忍ぶことだけであった。

 3時間ほど走ったところで、バスは荒野の中に一軒だけポツンとある休憩所に立ち寄った。そこでは他の乗り合いバスの乗客やトラックの運転手が思い思いに休んでおり、エジプトのサービスエリアのような場所だった。


 私はふらふらとバスを降りて、売店で5ポンドの水と10ポンドのコーラを買った。エジプトではペプシが圧倒的に普及しているのだが、このサービスエリアでは何かのこだわりかコカコーラだけしか置いていなかった。


 ——ああ、生き返る!!


 火照った体に冷たいコーラが染み渡る。

 「この一杯のために生きている」という言い回しがあるが、熱射の砂漠で飲むコーラは何よりも私に生を実感させた。

 20分ほど休憩をしていると、バスのクラクションが鳴った。出発の合図だ。すっかり体力が回復した私は、意気揚々とバスに乗り込んだ。


 荒野を走っていたバスは、やがて水のある風景の中へと入っていく。ナイル川に見間違えるが、正確には湖だ。

 アスワン・ハイ・ダムの建設によって生まれた人造湖、ナセル湖。ダムの建設に着手した当時の大統領の名前にちなんで名付けられたという。


 湖が見えてきたということは、アブ・シンベルの街はもうすぐそこだ。

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