21 止まっていた時間
悠理のマンション前で受けた電話の発信者は、矢島さんだった。幼いころ住んでいた悠理の家のお隣さんだ。
「もしもし、小野さん?」
「小野です。矢島さん、もしかして悠理が来ましたか?」
「えぇ、えぇそうなのよ。今電話の子機を持ってきて別の部屋で話しているんだけど、聞こえてしまうかもしれないから小声でごめんなさいね。まさかとは思ったけど、本当に…姿を見かけてとりあえず家に入ってもらったの。一人だったわ。どうしたら良いかしら」
「ありがとうございます。そうですね、急いでそちらに向かうので、なるべく長く引き留めておいて欲しいです。悠理が帰ってしまったらすぐに連絡が欲しいです」
「わかったわ。頑張ってみるわね」
悠理と二人で訪れた後、私一人でもう一度矢島さん宅を訪問した。突然の訪問に警戒されたものの、現状を必死で説明していくうちに協力してくれると首を縦に振ってくれたのだ。悠理はこの地を最期の場所として選ぶのではないか、という予感があった。
「今回限りよ」と全面協力してくれたさとみは、その後私を車に乗せると高速道路をかっ飛ばして現地まで送ってくれたのだ。合流した後に、救急車を手配してくれたのも。
各方面へ迷惑を掛けながらも、私の人生一と言っても過言ではない大博打は成功したのだ。
事が収まってから、改めて矢島さんへお礼の電話を掛けると涙を流して喜んでくれた。落ち着いたら悠理を連れて会いに行くと約束した。
さとみは「振り回されて疲れたから、しばらくゆっくりさせてもらう」と言って眉を下げ、私の髪の毛をくしゃりと撫ぜた。互いの眼を見て思う。私たちの関係にもけじめがついたのだ。お礼を言うと、この貸しはいずれ返してもらうと笑った。互いに言葉少なく会話をして、別れた。きっと彼女は大切な人が出来るまで私と会わないだろう。そしていつか、その大切な人の為に動くさとみに、私は借りを返したいと思う。
会社はしばらく休暇を貰った。佐川には全部打ち明けた。二人とも無茶しすぎだと怒られたけれど、その真っ直ぐな気持ちが嬉しかった。いずれ飲み会に連れてこい、揶揄ってやるさと笑った声は、とても優しい声色だった。
過去との決別なんて、そう簡単に出来るものではない。それでも、少しだけ二人の道のりに先が見える。
悠理の右腕は靭帯損傷の為、しばらくは使えない。傷が塞がればリハビリが始まる。何針も縫った傷跡は、二度目に抉った傷を含めて残るだろうと医師に言われた。出血も多かったが、こちらはコートで傷口を巻いて止血したのが幸いして大事にはならずに済んだ。実は救急車が来る頃に悠理の意識が朦朧としてきたので気が気ではなかったのだ。医師の説明を聞いた時は安堵から情けなくも足が震えた。
ちなみに私がナイフを握った時にできた掌の傷も縫いはしたが、こちらは殆ど目立たなくなるそうだ。悠理の証言により事件性も疑われることはなかった。
それでも私は、ナイフを振り下ろした時に感じた肉を裂く感覚を生涯忘れられないだろう。
そして、人を故意に傷つけたことも。でもこれで良いのだ。この重みを背負って私は生きてゆく。
悠理は数日入院した後、私のアパートに身を寄せることになった。暫くは仕事もせずにゆっくり過ごすそうだ。常に愁いを孕んでいた雰囲気は立ち消え、明け透けに物を言う様になった悠理に少しだけ驚いたのは秘密だ。でもきっと、これが本来の悠理なのだろう。以前より笑いが増えた二人の関係は、ジェットコースターから降りて今ゆっくりと、進みはじめた。
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