悲愴
飛び込んだ茂みの葉は想定以上に固く、桜の脚に細々とした切り傷が出来上がってしまった。所々枝も刺さり当然痛みも伴うが大きな爪に裂かれるよりかは幾分かマシであろう。
突然の方向転換によって背後の化物とは若干距離が開いたが直ぐに距離が詰められているのが肌感で分かる。
こんな茂みに入った程度じゃ全く逃げることはおろか凌ぐことすら無理なのは重々承知していた。けれど、それでも現にほんの少しであるが差が開いたのだ。この積み重ねだ。この積み重ねでやっていくしかないのだ。
何かしないと始まらない、何かしなければ何も起こらない。僅かな可能性に
諦めるなんてことは絶対にしない。絶対的な絶望に立たされようと、不条理な境遇に落とされようと桜の姉は……夏希はいつも諦めずにやってきたのだ。その姉を見続けた……
──私が…… 売木桜が、諦めるわけにはいかない!!
運命を断ち切ろうと髪を短くした。顔が似ていることに嫌悪感を覚えた。
それでも…… 桜の中では未だ夏希を想う心がほんの
憧れて背中を見続けてきた姉の姿が
茂みを抜けると小道に入り、更にそこを抜ければ街灯が一つ照らされるこの村唯一のアスファルトで舗装された道路へと至る。
そこへ足を踏み入れると、硬く安定したアスファルトの感触が脚から伝わってきた。木の根や
そして若干の下り道も相まってスピードは出し易いが……それでも
離れないというのか……
分かっていた現実であった。そもそもこんな相手にここまで
分かっていたからこそより一層焦りも加速する。無理して走り続けていたため、スタミナももう尽きそうだ。
──このままでは、間違いなく私は……
諦めない。けれど、気持ちだけではどうにもならない現実が立ち塞がっている。あまりにも強く、高く、広く、理不尽な壁だ。自分の運命を、終わりを確信してしまう程の強い壁だ。
──こんな時、姉さん達なら……
打開していたのかも知れない。でも売木桜にはその力が無かった。跳ね返す力が、立ち向かう力が無い。それ
「はぁ……はぁ……」
喉が焼き付くように熱い。肺が殴られたように痛い。頭に酸素が行き渡らなくて激しい頭痛が襲いかかる。
頭が回らず、我を失いかける桜。視界は徐々にぼやけて見え、そのまま
桜の脚が徐々に減速してしまう……その時であった。
傍目で過ぎる人影を
──人……?
意識が朦朧としており気付くのに遅れてしまったが、あれは確かに人影であった。桜の走る方向とは逆方向へ歩く4人の人影……
暗くて認識するのに遅れたがあれは間違いなく4人の人間、しかも家族連れ……一人はランドセルのようなものを背負っていた。帰宅途中なのか、はたまた星を見にいくのだろうか……
過ぎ去った時は気付かなかった。いや、頭が回っていなかった為何も考えていなかったのだ。
そして、事の誤ちに時間差で気付く。そして理解する、自分の横を通り過ぎた家族がどのような運命を辿ってしまうのかを。
薄暗くてよく見えなかったから……
全速力で意識が朦朧としていたから……
近くにいたのに今まで気付かなかった。気付くのに遅れた。それで
「……っ!!!」
声が出ない。焼き付くような痛みが喉元を過ぎ声帯が震えない。絶え絶えの息で全く発声が出来ない。それでも声にならない声で桜は振り返りながら叫ぶ。叫ぶしかなかった。叫ぶしか出来なかった。
──だめだ、そっちに行っては!
一言も発されることのない桜の声。当然、あの4人家族に届くわけがなかった。届くはずがなかった。
何故なら、既にこの世を去ってしまったからだ。
「……嘘」
一瞬の出来事であった。
桜が家族とすれ違い、事を認識し、脚を止め、振り返るまでに全て終わっていた。声を出ようが出てなかろうが関係のない話、あの4人の家族連れは『化物』に
ほんの一瞬だけ見えた。父と母と小学生の男女とも思われる姿。今日が無ければ暖かい家庭で平和に暮らしていたはずの家族であった。そんな家族達が逃げる桜の姿に気付き、逃げる間どころか奴らは悲鳴をあげる間も与えてくれなかった。
一人……爪により胴体を縦に真っ二つにされてしまった父と思われる姿
一人……口と思われるものに頭を噛みつかれ、鮮血を飛ばす母と思われる姿
一人……ランドセルと伴に文字通り餌食になる男の子と思われる姿
一人……か細い声だけ残し、
一つの家族が、たった一瞬にして肉塊へと変貌を遂げる。なす術なく奴らの餌となる。
微かに見える惨たらしい光景に桜は唾を飲んだ。アスファルトは血と思われる液体によって塗れ、生臭い異臭を放ち始める。
暗闇に広がる異音に耐えきれず桜は耳を塞いだ。それでもあの少女が残した最後の声が幻聴のように聞こえ、正気を侵食する。
「あぁ…… そんな……」
言葉にならない。こんな状況言葉にできるわけがない。子供の一人はランドセルを背負っていた、そんな幼い子供が突然殺されてしまう。子供だけじゃない、その家族も全員だ。全員殺された。
どうしてこんな目に遭わなければいけないのか、怒りが込み上げる云々の話ではない。
信じることができなかった。理解ができなかった。
ほんの数秒まで生きて歩いていた人間が今となっては声を出さないただの肉塊だ。
──やめてくれ、さっきまで生きていたんだぞ……!
桜と同じように、ものを考え、暖かみを共有し、時には感情を昂らせる生きた人間だったのだ。生きた人間が辿っていいカタチじゃないはずだ。
だがそんな桜の思いが奴らに届くはずもない。子供の肢体を引きちぎり、それを
桜は思わず目を瞑ってしまった。向き合いたくない現実に目を逸らすように…… 今日何度も目を逸らしたが今ほど夢と疑う時はなかった。
──これが、夢でなければ…… 嘘でなければ…… 現実……なのか?
朦朧とした頭を抱え下を向く。認めたくなかった。こんな世界が現実だなんて、認められるわけがない。けれど、夢ではないという証拠が鼻から伝わる血生臭い臭いではっきりと分かった。
知りたくない臭い、聞きたくない音が桜に現実であると教えてくれる。現実であると叩きつけてくる。
「うぅ……」
激しい頭痛、放たれる異臭と異音に桜の精神は追いやられ、ついにその場で
あの少女の声が頭からこびりついて離れない。耳を塞ごうとも何度も何度も「助けて、助けて」と呪怨のように語りかけてくるのだ。目の前で
「死にたくない」と、「痛い、苦しい」とあの微かな悲鳴が意味していた全てが怨念のように膨らんでゆく。桜がどんなに謝罪を述べようと、言い訳を並べようと到底掻き消えるようなものではなかった。
だから、桜の心は遂にある場所まで行き着いてしまう。
──私のせいだ。
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