第36話 とても安全な場所


 ♦ ♦ ♦


 夢は必ず覚めるものだ。

 幸せなぐーたらをする夢を見たあとの現実は余計につらかった。


「ここより安全な場所はありませんので」


 連れてこられた場所は、薄暗い地下にある牢屋。ここは『悪い子』が折檻を受ける場所で、落としきれない血の跡や鉄の匂いが今もなお染みついている。


 カチャリと牢屋の鍵を回されたあと、私は鉄格子の中から外で話す司教様とラーナ様を見上げる。


「しかし本当に彼女を救ってくださり、トレイル卿には感謝しかございません。私も彼女を引き渡したこと、後悔していたのです。この子はとても不器用な子ですから……最後まで私が面倒みるべきだったと……」

「あら、だったらちょうど良かったわね」


 お二人の会話が、どこか白々しい。

 よくよく見れば、司教様は少しお痩せになったようだ。ランプの明かりだけではっきりと見えるわけではないが、目の下にくまのような影が見える。そんな司教様が両手を揉むように動かしていた。


「少しお時間を頂戴できますでしょうか? ぜひ上でお礼をさせてくださればと」

「別にいいのに……でもそうね。これまでの経緯や今後のことは色々と相談させていだたきたいわね。私もこのまま『あとは任せた』じゃ始末が悪いもの」

「さようでございましょう。では、こちらへ――」


 そうして、二人はこの場から立ち去ろうとしてしまう。


 ――待って!


 そう呼び止めようとする前に、司教様がちらりと向いた。


「ノイシャ。あとであなたにもしっかりと“おはなし”聞きますからね」


 その冷たい笑みに、私はひぃと息を呑む。

 司教様のいう『おはなし』は、鞭で打たれることだから。


 ――大人しく、待ってなきゃ……。


 でも、やだ。私は知ってしまったの。


 あたたかい場所があるんだって。幸せな場所があるんだって。

 こんなところに居たくない。こんな寒い場所はいやなの。


 あのお屋敷に……みんなのいる場所へ帰りたい。


「ラーナ、様……」


 去り行く背中に、小さく手を伸ばせば。

 彼女は口元を隠し、目を細めていた。


「それではノイシャさん。どうかお幸せに」




 暗い牢屋の中は、とても寒かった。

 お日様の光が入らないから、厨房裏の保存庫のように空気がひんやりしている。しかもランプも消されて行ってしまったから、とても暗かった。


 明るくしようと思えば、自分でできるの。

 あたたかくすることもできる。なんだったら、この牢屋から出ることだってできる。


 だって、私は聖女だから。

 私にはマナがあって、マナの式をたくさん覚えているから。


 だけど、私は牢屋の隅で膝を抱えたまま、動くことができない。

 抜け出したって、鞭で打たれる回数が増えるだけ。


 そもそも私が『らぶらぶ奥さん』として不出来だから、ラーナ様に目を付けられ戻されてしまったというのに。そんな私が戻ったところで、みんなの迷惑になるだけだ。


「幸せ、だったなぁ……」


 私は指先でマナをパチパチ遊ばせながら、思い出す。


 初めてマナをコレットさんに見せた時、とても綺麗だと褒めてくれた。

 セバスさんの膝を治療したら、倒れて旦那様に叱られてしまったけど……それでも翌日からセバスさんの動きが目に見えてスムーズになっていたから、まるで後悔はしてないの。

 ヤマグチさんのご飯、ぜんぶぜんぶ美味しかったな。

『ノイシャ』とみんなから名前で呼ばれたの、嬉しかった。

 ジャージ制作も楽しかったな。アイス作りも毎日飽きなかった。

 かなりの頻度で旦那様から『ど阿呆』と怒られたけど、嫌な気持ちになったことは一度もない。旦那様との添い寝、気持ちよかったな。街で見た働いている旦那様、すごく凛々しかった。

 私が変な態度しても、一度も怒られなかった。笑いじわを作る旦那様のお顔、とても可愛かった。もっともっと見ていたかった。


 私……旦那様に買っていただいて、本当に幸せだった。

 けっきょく、何もなくなってしまったけど。


「あ、残ってる……」


 私は着ている服の胸元を掴む。桃色のジャージ。みんなお揃いの、旦那様色のぐーたら洋服。けっきょく抱き枕の制作までは間に合わなかったけれど……それでも、旦那様と一緒に寝た時の心地よさ、私は一生忘れない。あのときに見た幸せな夢を、私は忘れたくはない。


「リュナン様……」


 結局、旦那様のお名前を呼んだのはあの一回だけだった。今が二回目。


 旦那様を呼んだら、ジャージが色を変えた。ぽたぽたと、色の濃くなった部分が増えていく。

 雨? 上を見上げても、うっすら黒い天井しか見えない。


 その天井がガタガタを大きく音を立てだす。


 ――なんだろう?


 すると、そのガタガタがどんどん近づいてきて。

 階段から、誰かが慌ただしく下りてくる。


 その声が、私を呼んだ。

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