第5話 廸との結婚までの恋愛ごっこ

僕が若狭わかさ みちと出会ったのは12年ほど前だった。直美の結婚を知ってから1年くらいは経っていたかもしれない。あのころの僕は直美の結婚からまだ立ち直れていなかったように思う。


それまでの僕は恋愛には無頓着で一人の人を愛することなど考えたことがなかった。まだ20代でもあったし、結婚もまだまだ早いと思っていた。同期の連中も皆独身を謳歌していた。


ただ、直美とのことが契機になったのは間違いない。あの喪失感はなんだったのだろうと考え続けていた。そんなときに廸と出会った。彼女は関連会社に勤めていて、会議で同席するようになったのがその始まりだった。


彼女は入社して3~4年くらいで、まだ初々しさがあって、僕にはまぶしく輝いて見えた。髪は肩までのセミロングで、顔立ちも整っていて僕の好みだったこともあって、会議中は彼女を見ていることが多かった。


後で聞いた話だけど、彼女は僕が会議中に彼女を見つめていることにたびたび気が付いていて、私に好意を持ってくれているのかしらと思ったと言っていた。まあ、そこまでは考えていなかったとしても、男は綺麗な若い女性には自然と目が行くものだ。


仕事の関係で、会議で同席することも、2対2で会うことも、1対1で会うことも増えていった。2対2の打ち合わせの後では親睦のために軽く飲み会をすることもあった。それで廸とは個人的な話をする機会も増えていった。


彼女は仕事にしっかり向き合っていて、自分の意見を持っていた。議論しても理路整然としていて論破されることもあった。男同士ならお互い妥協できないところは、なあなあになったりするが、そういうこともなく、ビジネスライクでかえって仕事を進めやすかった。


また、年下だとは思っていたが、意外と芯のしっかりしたところがあった。始めは僕が彼女に恋愛感情を持っていなかったのは間違いない。それは関連会社の人と付き合うことはまずいと考えていたためでもある。


誰かと誰かが付き合っているとすぐに社内で噂になったりする。付き合ってうまく行けばよいが、別れたりすると、あとあと気まずいし、人事考査に影響したり、悪くすると配転になったり転勤になったりしかねない。


ある時、飲み会の後で僕は廸と偶然帰る方向が同じで駅まで二人きりになった。廸は少し酔っていたのかもしれない。いつもより口数が多いように思った。それで歩きながらとりとめもない話題で話が弾んだ。


「吉田さんって、彼女いるんですか?」


何がきっかけで聞かれたのか覚えていない。彼女は僕が独身であることは知っていたが、突然こういう聞き方をされるとは思わなかった。こういう質問をするのは相手に関心がある時だと分かっていた。でもどういう訳か、彼女には誠実にありのままを答えても良いのかなと思った。


「いない。ただ、1年前、高校時代からの女友達にお見合いすると告白された。そしてほどなく彼女は見合い結婚した。結婚の挨拶状を突然もらって、すごい喪失感を覚えた。ただの女友達だと思っていたのにね」


「失恋したような?」


「いや、彼女とは付き合っていた訳でもないんだ。ただ、長い間の友人だった」


「その方、吉田さんが好きだったのですね。でないとそういうことは話さないから。それに吉田さんもその方が好きだったのは間違いありません」


「確かにその時はそういう意識はなかったけど、あとから少しずつそれが分かってきた。僕は恋愛には向いていないね」


「吉田さんに彼女がいないのは分かる気がします。吉田さんは会議で意見が対立しても相手を追い詰めたりは決してしないし、自分が折れて相手の顔を立てたり気配りがすごくできて、尊敬しています。ただ、自分を抑え過ぎるところがあると思います。女性に対しても自分の気持ちに素直になれなかっただけだと思います」


「僕はその自分の素直な気持ちが認識できないのだと思っている。どうしようもないね」


「じゃあ、私と『恋愛ごっこ』してみませんか? 素直な気持ちというものが分かるようになると思いますが」


「『恋愛』じゃなくて『ごっこ』? 恋愛の振りをする?」


「『ごっこ』ですから、本気じゃなくていいんです」


「若狭さんとその『恋愛ごっこ』をすると素直な気持ちが分かるようになるというのか?」


「はい。きっと」


唐突な提案に驚いたが、今思うと、廸は僕が彼女に好意を持っていると確信していたに違いない。それを僕自身が気づこうとしていないこともよく分かっていた。


「でもこのことは絶対に秘密にしましょう。周りからいろいろ言われたり、興味を持たれたり、気を使われたりするのはいやでしょう。職場関係の恋愛は仮に『ごっこ』だったとしても、いろいろリスクが高いですから」


「分かった。若狭さんが協力してくれるなら、その『恋愛ごっこ』をしてみようかな」


こうして『恋愛ごっこ』なるものを始めることになった。それからは誘われて週末にデートをするようになった。デートのときには自然に手をつないできたし、腕を組んできた。廸は僕の恋人のように振舞ってくれた。


でも廸は仕事の関係で会議に同席したときや2対2や1対1で打ち合わせをするときは決してそのような素振りは見せなかった。


会議で時々可愛いなと見ていた女性と週末にデートして、そういうことが自然にできることをいつか楽しむようになっている自分がいた。みちと「恋愛ごっこ」で話していると心が和んで癒された。週末に会うのが待ち遠しいと思うこともあった。


ただ、僕がみちに取った態度は、彼女が関連会社の社員で仕事上の付き合いがあるということが前提というか頭の中にあったので、また「ごっこ」が前提になっていたので、誠実というか真面目そのものだった。やはり恋愛には向かないやっかいな性格だった。


だから1年ほどそういうつきあいというか「恋愛ごっこ」が続いていたが、それ以上に進もうとはしなかったし、できなかった。ただ、みちをとても大切に思っていたことは間違いないし、前へ進むことを自ら戒めていた。それで廸はこれが限界と思ったのだろう。僕に真正面から仕掛けてきた。


「お見合いの話があるので、もう『恋愛ごっこ』を終わりにしたいのですが?」


廸が僕を試すためにお見合いの話を持ち出したのはすぐに分かった。廸には僕の失敗談を話していたからだ。でも、それを聞いたとき、僕の答はもう決まっていた。自分の素直な気持ちが分かっていた。過去の失敗を繰り返してはいけないことも分かっていた。


「ああ『恋愛ごっこ』はもう終わりにしよう。終わりにする代わりに僕と結婚してくれないか?」


僕ははっきり言った。でもこんな時にこんなタイミングでプロポーズの言葉を言うことになろうとは思ってもみなかった。僕はもうすっかり変っていた。


廸は突然の僕のプロポーズに驚いたのか、期待していなかったのか、黙ってしまった。突然のその沈黙に僕は気が動転してしまって、その沈黙の時間がとても長く感じられた。僕の思い過ごしだったのか? いやいや、そんなはずはない。


「すぐに決められないなら、僕と本気で恋愛してみてくれないか?」


すると彼女は僕の目を見てニコッと笑った。


「はい、結婚を前提にした恋愛をお受けします」


それからの僕は堰がきれたように廸との関係を深めていった。次の週末には僕の部屋に誘った。もう、すぐにでも廸を僕のものにしたかった。


廸は以前に付き合っていた人もいたみたいだが、男女の関係になったのは僕が初めてだった。そのころは秋谷君と遊び歩いたりもしていたので、女性の扱いに気後れすることもなく、冷静に廸を自分のものにすることができた。


だから僕には直観的にそう思えた。それがとても嬉しかったことを覚えている。そのときの一部始終の記憶が今でも鮮明に残っている。


そして1年後に僕たちは結婚した。廸は普通に正式なプロポーズをしてほしかったから、最初のプロポーズの時はとても嬉しかったけど、どうしようかとすぐに答えられなかったと言っていた。


その2年後に恵理が生まれた。廸は今も仕事を続けている。その時の僕の給料では専業主婦は無理だったし、廸も働き続けることを望んだからだ。


廸は運命の人とまで言ってもよいかもしれない。僕にぴったりの女性だと思っている。出会いから結婚までの経緯を振り返ってもそうだ。さっぱりしていて性格も良いし、彼女と一緒にいると気が休まって癒される。特に不満もないし、これまで大きな喧嘩もなく仲良く暮らしている。


だから浮気しようという気も起るはずがなかった。でも直美とはすぐにあんな関係を結んでしまった。自分でもどうしてあんなことになってしまったのか理解できなかった。彼女には思い残すことがあったからだ。そうとしか思えなかった。

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