永住権、そして旅行業界へ

 ジーンが言っていたことは本当でした。移民局の係員は「コングラッチュレーション!おめでとう」と言って「『永住権』が届いたらお知らせしますがどこで受け取るか知らせてください。お幸せに!」と言いました。ビクビクしながら街を歩いていた頃がまるで嘘の様であります。信じられません。私は本当に永住権を頂けるのです。ハワイに戻ってから半年が過ぎた頃知らせがあり移民局に受け取りに行くと私を強制送還すると言ったカールがいるではないですか。彼は私の顔を見るなり「君は日本に帰らなかったのか?」私が永住権を取りに来たと知ると、「おい、君はどうやって永住権を取ったんだ?」と聞いて来ます。此処がやはり日本人。まずいと思った私は彼が部屋を出た隙に逃げ出しました。考えれば何も後ろめたい事はないのですが知らぬ国の白人の持つ圧迫感にどうも日本人は弱い様であります。どうしようどうやって貰えばいいか悩んでいたある日ふと新聞を見るとカール局長が解雇されたと云うニュースが一面に出ています。聞くところではカールは長年連れ添ったワイフと離婚してコーリヤンクラブのママさんと再婚するとその店に働くホステス達のビザを違法に書き換えてハワイに入国させていたのでした。それから3日後私は移民局に行き「アイケームトゥピックアップ マイ グリーンカード」と云うと女性係員が「コングラッチュレーション!」といって私の『永住権』を差し出しました。よく見ると私の生年月日が違います。19 49 年生まれが 48 年になっているのです。早速それを伝えると「大したことじゃないわ。そのうちに直せばいいでしょう。取り敢えず今は有り難く貰っておけば。」こんな事を言うと叱られそうですがその当時のお役所の仕事は結構いい加減でありました。ちなみに私のグリーンカードは未だ間違ったままですがアメリカに出入国する際に一度もこのことで質問をうけた事はありません。

 永住権を頂くと私は一心に働きました。長い間働く事が出来なかった欲求不満が一挙に爆発したのです。私が最初に仕事に就いた所はビジターサービスオブハワイという会社ですがこの会社その頃のハワイでは一番古く大きな会社で有りました。この時代はまだ日本の大手旅行会社の現地事務所は無くこの会社がその代行下請けをしておりました。その後私がお世話になった旅行会社が舟山社長の率いるムーン旅行社であります。旅行業にはアウトバウンドとインバウンドの2つの業務がありますがアウトバウンドはハワイの人達を海外にご案内する業務、インバウンドは日本を始め海外から来られるお客様を現地でお世話する仕事であります。ムーン旅行社はこのハワイでもよく知られた老舗でありました。私の最初の大失敗はハワイの夜景が一望出来るタンタラスの丘にお客様をご案内した時の事です。くねくねと曲がった細い道を登っていくのですが明かりもなく真っ暗で月明かりだけが頼りです。日本でいうといろは坂とでもいいましょうか私はこの坂をいろは坂でなくハワイのアロハ坂と呼んでいます。

 丁度中腹まで来たときでした「ガシャン!」激しい音とともに白い煙が黙々と立ち始めたのです。気づいた時車は道の壁に衝突していました。「お客様。車から降りて離れたところに移動してください!」お客様も文句を言うどころか、ただただ恐怖と驚きの瞬間であったと思います。暫くして煙は消え去ったものの車は全く動きません。事故が起きるときは一瞬のことで何故山の壁に衝突したのか見当も付きません。さてこれからどうやってお客様をホテルまでお送りすれば良いのだろう。 その頃は携帯電話もまだ無い時代です。途方に暮れていると一台の車が丘の上から降りてきました。「ストップ!」私が大声で叫ぶと男がウインドウを下ろして「ワットユーガイズドゥイン」と聞いてきます。訳を話すと「ドントウォーリー、アイテイクユーダウントゥーユアーホテル」といって車から降り、後部座席のドアーを開けてくださいました。やはりハワイの人は親切ですね。感心してる場合ではありません。見ず知らずの彼らの手を借り何とかお客様をホテルまでお送りしました。自分の車で事故現場に戻り明日一番で車を取りに来るとサインを残し家に帰りました。 翌日の朝突然私のアパートの電話が鳴り響きます。出ると舟山社長です。「会社の PUC がタンタラスにあると警察から連絡があった。一体どうしたのですか?」PUCとはお客様を乗せるためのライセンスでこれがありませんと人の運搬は出来ません。丁度タクシーと同じような営業用の認可です。本当は見つかる前に修理に持っていって直してから車庫に返そうと思っていたのですが私の考えは浅はかでした。「すいません事故を起こしてしまいました。車は私がちゃんと修理してお返しします。」と云うと、「車は直せば良いですが、お客様も君も怪我がなくて良かった。」と云います。残念な事にその車は下のパイプが折れてしまい廃車となりました。「私が働いて必ず弁償します。」と云うと、「これは君への支度金だと思ってこれからも仕事を頑張って下さい。」と言って下さいました。

 以前私の会社で大韓航空のホールセーラーをさせて頂いていた時があります。お世話いただいた方は土佐忠雄さんという方です。その頃、多くの大手旅行会社は日本を代表する国内の航空会社とアメリカの大手パンアメリカンやノースウエストを利用していました。彼が大韓航空に入社してまもなくすると各大手に乗りこみ、見事に他の航空会社に負けぬだけのセールスを勝ち取るのです。名もない平のセールスマンにとっては大変な偉業を成し遂げたのです。そしてそれを見ていた大韓航空の副社長に認められ関西地区の販売部長からハワイのセールス部長に抜擢され此処に来られました。元々のきっかけはハワイのムーン旅行社の社長と土佐さんの繋がりでしたが新会社を立ち上げた時「誰に会社を任せますか?」という船山社長に理由はわかりませんが「あの人がいい」と土佐さんが私を選んでくださったのです。その後土佐さんはロスアンジェルスのセールス部長になりアメリカ本土に移り住みました。それから何年か過ぎた時私も例の(後ほどお話ししますが)事件でロスに移り住み、レストランを開店したのです。私も幾度となく土佐さんの会社に連絡しましたがお互いに忙しくお話する機会もありませんでした。「ゲーリー、なかなかいい店やな~」「あっ土佐さんと奥様の美代子さんだ!」懐かしさと嬉しさに目頭が熱くなったのを覚えています。その後彼が定年退職を迎えるときです「ワシも会社辞めたらなにかやりたいんやけどゲーリーの真似してレストランをするわ。」と本当にレストランを開店しました。場所は俳優の大沢たかおさんもお店をやっているパサデナという街です。ゆったりとした住宅地のそばにあるきれいな街です。店の名前は祭りレストラン。土佐さんは何年か前に肺を患いお亡くなりになりましたが現在は奥様と息子さんとで続けています。このお二人もまた私の兄貴と姉さんのような人たちで今も時々彼を思い出し美代子さんと思い出話に花を咲かせています。

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