スカンジナビア・ハワイ

 1970年の春でした。スウェーデンから買い取った豪華客船スカンジナビア号が伊豆の木負海岸に日本初の海上ホテルをオープンする事になりました。私はオリジナルメンバーの一人としてこの船に乗り込む事になりました。この船は1927年にスウェーデンで建造された豪華客船であります。伊豆箱根(本社:静岡県三島市)が6億円で購入し日本初のフローティングホテルをオープンするの です。船は老朽化に伴い営業を停止した後スウェーデンのペトロファースト社が海上ホテルレストランとして営業計画を立て売却契約も済ませて居ました。同船は民間海事検定を終え日本で必要な全ての書類、証明、許可証を収得してオープンを間近に控えていました。

 私のボスはフランコ榊原氏、バックはあの堤義明氏であります。フランコは長野のスキー場サンケイバレーのオープンに携わった人で当時日本に初めてピッツァを紹介した人です。原宿のミッシェリー、ステークハウスフランコ、六本木のラストラーダ等を手掛けた大変なやり手で堤義明氏の信頼も厚い人でした。乗組員達のメンバーは帝国ホテルの料理長、六本木ニコラスの支配人安楽氏、デビ婦人が働いていたコパカバーナから3名渋谷のモンシェルトントンから一名、赤坂月世界から私の先輩川島氏と皆一流の仕事人でありました。私の仕事はホテル内の喫茶室と図書館の管理マネージメントでありましたが当時私は 19 歳年齢をごまかし何とかオリジナルメンバーの一人としてこの夢のような仕事に就くことが出来たのでした。船内では船全体の修繕から清掃と毎日力の続く限り働きました。 船にはまだ電気も無く桟橋も工事中で乗組員は皆小さな手こぎボートで乗り降りしていました。

 やがてホテルがオープンされると東京や日本各地からお客様が来船します。流石豪華客船来られるお客様はファーストクラスの VIP ばかりです。政界、財界、芸能界、一流有名企業トップの方々のお忍びスポットでもありました。私が初めて高倉健さんにお目にかかったのもこの船でした、奥様の江利チエミさんと共にフロントデスクに来られ顎を引いて上目遣いで「鍵、下さい」その一言を聞いた時(なんでこんなに格好いいんだろう!)と目を見張ったのを覚えています。やがてホテルがオープンされ現地採用のスタッフのトレーニングが終わり落ち着きと余裕が出て来たとき私はこの船を降りるか暫くここに残るかを考え始めていました。ある時フランコが「この仕事が落ち着いたらスウェーデンに行ってホテルをオープンする計画があるが、どうだ良かったらお前も一緒に来ないか?もし来るなら少し英語の勉強でもしておけよ。いっその事海外にでも行ってそれまで待つか?」これが私の最初に海外生活を夢見た時で有りました。

 よし船を降りよう。降りてなんとか海外に行く方法を探してみよう!東京に戻りテレビを見ていた時でした。以前私がアルバイトしていた店のお客様であったボードビリアンの鹿島みつおと歌手の扇ひろ子さんがハワイでレストランを開くというのです。早速彼に連絡してみました「どうか私も連れて行って下さい!」運が良かったのです。彼たちも丁度先発メンバーを探していた時だったのです。「連れて行っても良いが」どうやってビザを取ろうか相談の結果私のビザは手打ちそばの職人と言う事になったのです。アメリカの移民局は私が西洋料理のクックですとビザはくれません。何故ならその種の料理人はいくらでもアメリカで探せるので現地の人を雇えというのです。「よし!連れて行こう。」こうして私は食べたことしかない手打ちそばの職人として同行することになったのです。

 本当にまるで夢を見ているようでした。ああ~憧れ〜のハワイ航路で有ります。早速フランコに報告です「僕ハワイに行く事になりました。スウェーデンに行く迄ハワイで待ってます!」1971 年も終わりが近づく頃ついに夢のアメリカ・ハワイに足を踏み入れたのでありました。私の仕事は仕込み段取り皿洗い何でも屋、そしてメインは豚カツの揚場で有りました。仕事は朝6時にお迎えが来て夜 12 時迄通しです。グランドオープニングも間近ですからお休みも無く連日18時間労働でありました。ある日ハワイ側のスポンサーが何やらオーナーと言い争っているのです。「いくら連れて来てやったとは言え一日18時間に全く休み無し、こんな事をしていると今に労働局に捕まり問題になる!」しかしアメリカの事情も知らぬオーナーは全く聞き入れようともしません。アメリカの事情も労働基準法も知らない自分にはよくその意味が分かリませんでした。スポンサーいわくアメリカの基準では週 40 時間を超えると働く人は残業手当を頂く権利が有ると言うのです。私にとってはどうでも良い事でした。

 自分にとっては此処に連れて来て貰っただけで本望であります。このハワイ側のスポンサーの本業は空港からワイキキに向かう途中の丘の上にあるピンク色の軍病院でセキュリティの責任者をして居ました。そんな真面目な彼にとって自分が関わる仕事で法に触れる事は許されないのであります。万が一捕まれば彼自身も罰せられるのです。「お前は一体いくら貰っている?」聞かれるがまま「一月4百ドルです」と答えると「何、たったそれだけか!君には最低この3倍のお金を貰う権利がある。」と言うのです。当時は一ドル360 円の時代。 4 百ドルでも日本円に換算すれば 14 万4千円と見習いの私にとっては決して悪い金額ではないと思うのですがスポンサーの計算では「一日12時間 X30日=360時間-160時間=200時間の残業手当を貰う権利がある。」その上、残業手当は基本給の1.5 倍となりとてつもない金額になるというのです。

 2ヶ月が過ぎた頃現地側のスポンサーが私を迎えに来ました。「今すぐに仕事を辞めて私と一緒に来なさい!」「何故ですか?」と私が聞くと、「こんな事をしていたら今に労働局に捕まる。だから日本のオーナーが納得するまで私の家に来なさい!」と言うのです。何も分らぬ私はついていく以外に選択はありませんでした。暫くしてもオーナーとスポンサーは一向に決着がつかない。私としては仕事をしないと持ち金もあまり余裕が無い。スポンサーが言う、「オーナーと話し合っても無駄だ。本当はこの店で働かない限りビザは無効になるが、移民局に親友がいるので相談に乗って貰う事になった。今日彼と会いに行くので一緒にこい!」というのです。

 移民局に着くと恰幅のいい最高責任者のカールが待っていた。スポンサーのトムが一連の労働違反を伝えるとカールが静かに話し始めた。「本来ならあなたのビザは E2 と云うビザでこの店以外の所で働く事は出来ないし此処を辞めれば日本に帰らなくてはいけないが、他でもないトムの頼みだ。なんとかしよう。その代わり仕事は同じレストランの仕事に限るが、一週間以内に他のレストランの仕事を見つけてくれば特別に内緒で書き換えてやろう。」と言うのでした。やっとの思いで来たアメリカですからそうヤスヤスと帰る訳には行きません。「とにかくやってみます。」と伝えて移民局を後にしました。

 早速翌日から仕事探しが始まりました。その頃ワイキキには日本航空が持つ京屋、現在のハイアットリージェンシーの前にあったビルトモアーホテルに水車の有るふる里、カイマナビーチホテル内のホテルニューオータニの日本食とまだそれ程お店も多くない時代でありました。しかしどの店に行っても雇ってはくれませんでした。その頃の日本食の職人は一流の料理人で私のようなインチキ料理人はいらないのです。私も本当のことをお話ししなくては後でバレてしまうのは当然です。 今度は慣れないバスに乗ってハワイ中の日本食を探し始めました。真珠湾のそばの歌舞伎レストランに行ってみると、「丁度いい。昨日一人辞めたばかりなので明日から来てくれ。」というのです。この店のオーナーは新潟から来られた働きものの加山三兄弟であります。

 若い頃には真珠湾の周りで食品の行商販売を手掛けていたのですが、その後はレストラン、スーパーマーケット、アパート経営、旅行社と幅広くお仕事をされていました。今も残るあのワイマルショッピングセンターもその一つで、ローカル仲間からはハワイの小佐野といわれる人たちです。早速移民局に出向きパスポートのビザを書き換えて頂き、こうして私の小さな真珠湾攻撃が始まったのでした。

 暫くすると板長が呼んでいます。「おい!お前本当は料理人では無いだろう。」嘘はつけない。「はい。違います。」と言ってこれまでの出来事や経過を説明すると、「よし分かった。俺が料理を教えてやるから皆には言わんとけ。」と言って下さいました。如何にも苦労人見えますが心の温かいとても親切な人でした。

 さてここのオーナーは若い時大変な苦労を重ね一代でここまでに築き上げた人です、それだけに金銭にはとても厳しい人でした。ある日ここで働く人が「ここの社長はケチで一年働くと時給25セントの昇給をしてくれますが日に一時間切るのでもらえる手取りは全く変わらないよ。」とこぼすのです。ある日の事、此処のおかず屋さん(仕出し屋)で売り子をして居る二人の女性に、「実は働く人か ら聞いたけど、此処のオーナーはとてもケチで金銭的にはあまり綺麗ではないみたいですね。」と話すと、二人はなにも言わず黙ってその言葉を聞いていました。即刻次の朝オーナーから声がかりました。「つむはワスのワイフになんか言ったか?」と聞くのです。まさかおかず屋の売り子が社長と副社長の奥様とは知らなかったのです。オーナーに「つむも新しいスゴト探すたほうがいいな。」と言わ れ、何と私は解雇されてしまったのです。仕方有りません。昔からよく言う事ですが、『口は災のもと』、本当でした。

 仕方なく移民局に行きカールさんに事情を伝えると、「ソーリー。ビザの書き換えは一度しかできないよ。」と言います。そこをなんとかと頼んでもやはりだめでありました。「私はアメリカで生きると覚悟してきたので安安と日本には帰れないんです。」と云うと、「ザットイズユアープロブレム。」と云うのです。何度お願いしても彼の返事は変わリませんでした。「私がもし帰らなければ?」と云うと、「イフユードンゴーバック、ウイーマストセンドユーバック!」即ち強制送還のことであります。残る私の言葉は唯一つ、「分りました。アイアムゴーイングバック アズスーンアズアイキャン」という他にはなかったの です。仕方なく移民局をあとにしましたが既に私の頭の中はアメリカで本土に逃げてこの国に残ることを決心していたのでした。

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