白のキャンバス

「これから色々と忙しくなるな」


 剣を鞘に戻しながら言うカイルの声はどこか弾んでいるように聞こえた。


「変な人。これから私たちが行くところはタイニアだっていうのに」


「ある意味ここだって似たようなもんじゃねぇか」


 カイルは謁見室の方角に目を向けながらフンと鼻を鳴らした。


「早速明日には王都を離れるつもりだが問題ないか?」


「私は問題ないけどカイルこそ大丈夫なの?」


 孤児だったユアとは違いカイルは他国にも名が知れ渡るジェミニ家の当主。勝手気ままが許されるはずもないと今さらながらにユアは心配してしまう。


「もしかして俺の家のことを心配しているのか?」

「当たり前だよ。だって王様に散々喧嘩を売ったご当主様がそのまま旅に出たら残された家の人たちに迷惑がかかるでしょう」


「どうやら気を遣わせてしまったようだな。だが俺も考えなしに動いているわけじゃない。ユアが心配することはなにもないさ」


 カイルから透明な微笑を向けられたユアは慌てて顔を逸らしてしまう。


(私ったらなにを焦ってるんだろう?)


 自分でとった行動の意味がわからず、ユアは内心で首を傾げる。

 次に思ったのは今の態度でカイルが気分を害したのではということだった。


「──俺の顔に何かついているのか?」


「え? あ、ううん。何もついていないよ」


 慌てて両手を振るユア。

 カイルは首を捻りながら、


「ところで荷物は結構あるのか?」


「え?」


「荷物だよ荷物。それなりの量があるなら家の者に使いを出して運ばせるぞ」


「ああ、私の荷物のことね。ありがとう。でも大丈夫、一人で運べる量だから」


「なら今すぐ取りに行くぞ」


「え? 一緒に行くの?」



 驚いて聞けば、カイルは呆れたような表情で口を開いた。


「当たり前だろう。護衛はもう始まっている」


「あ、うん。……じゃあ、じゃあ行こっか」


 たどたどしく返した後、カイルと共にユアは自室へと向かう。途中すれ違う官吏かんりや警備兵たちは、ユアとカイルが共に歩く姿を見て、一人の例外もなく怪訝な顔を覗かせていた。


「──すぐに準備するから」

「ああ」


 カイルは向かい側の壁に体を預けて腕を組む。


 部屋に入ったユアは閉じたばかりの扉にもたれかかると、肺の中の空気を絞り出すようにして息を吐いた。


(朝起きたときはいつもと変わらない耐えるだけの日常が始まると思っていたのに……)


 そう思いながらカーテンすらない灰色にくすんだ部屋を見回す。

 ほとんど物が置かれていない部屋でユアが目を止めたのは古い机。


 机に歩み寄ったユアは、引き出しを開けて中に入っているネックレスを手に取った。


(アルフォンス……)


 脳裏に浮かぶのはサンゼンイン・シズカの手に恭しく口づけするアルフォンスの姿。

 自然とネックレスを握る力が強くなる。


(私のこと愛しているって言ってたくせにッ!!)


 ネックレスを床に叩きつけようとして振り上げた手は、結局振り下ろされることはなかった。


(もしかしたら王様の命令で仕方なく……ふふふっ。私ったら本当に馬鹿ね。まるで女神様でも見るようなアルフォンスの姿を見せられたっていうのに……)


 ユアは自嘲し、ノロノロとした足取りで衣装棚に移動すると、わずかな着替えを淡々とカバンに詰め込んでいく。そして、聖衣に手をかけたところで動きを止めた。


(もうこれを着る必要もない。だけど……)


 確認するまでもなく私服と呼べるものは一着しかない。どうするか考えたのち、聖衣を手早くカバンに詰め込んだ。


(あとは……)


 ベッドの枕元に置かれている絵本をカバンに入れて荷造りが完了する。


 ネックレスを机の引き出しに戻したユアは、最後に2年間過ごした部屋を見回して静かに扉を閉めた。


「──随分と早かった……荷物はその小さなカバン一つだけか?」


「うん。このカバン一つだけ。身軽でしょう?」


 両腕を伸ばしながら一回転して微笑むと、顔を顰めたカイルは無言でユアからカバンを奪い取った。


「あっ」

「行くぞ」

「ちょっ、自分で持つから返して」


 大家の当主様に荷物持ちをさせるなどさすがに気後れしてしまう。

 だがカイルにカバンを戻す気はさらさらないらしく、問答無用で先を歩いていく。


 カイルの様子は何だか怒っているように見えた。歩く速度もさっきとは比べ物にならないほど早く、時に距離が開き過ぎないよう小走りになりながらユアはカイルの後に続いていく。


 廊下と並行して連なる窓から見える空は、朝と同様に鉛色で満たされていた。


 カイル足はどうやら王宮から出る最短ルートを進んでいるようで、程なくしてユアが昼食時に利用する中庭に出た。


 自然とユアの視線は一際大きな木の下に置かれた長椅子に流れていく。


 日々冬の香りが濃さを増していくこの時期に、中庭で食事を摂ろうとする酔狂人はユア以外には誰もいない。見慣れた景色もざわめく葉の音も全て置き去りにして、ユアは中庭を通り抜けていく。


 再び王宮内に足を踏み入れると、先を見通すことができないほどの長い廊下が続いている。ちょうど仕事が始まる時間と重なったようで、廊下は官吏たちでごった返していた。


 ここの官吏たちは他人に興味がないのか、二人の姿を目にしても気にも止めないのはありがたかった。


 官吏たちは足早に左右均等に配置された扉の奥へと消えていく。


 長い廊下を通り過ぎ、さらにいくつかの廊下と階段を経由しながら、やがてユアは目的地である大扉を視界に収めた。


(この扉を抜けたらもう……)


 いよいよ王宮の外に出ようというそのときに、ユアの足は自分の意思とは無関係にその動きを止めてしまう。

 そんなユアの異変にカイルはいち早く気付いた。


「どうした?」


「王宮から出るのは初めてでちょっと怖いのかも」


「それは本当か」


「うん。王宮から一歩たりとも出てはいけないって宰相様からきつく言われていたから……だから外に出るのがちょっとだけ怖いのかも。ここに連れて来られたときも窓にカーテンがかかった馬車に乗せられていたから王都の街並みを見ることはなかったし。私がまともに知ってるのは灰被りの街とあとは戦場くらいだから……」


 たははと笑っていると、カイルからひと際大きな舌打ちが聞こえてきた。


「……もしかして怒ってるの?」


「ああ。何も見えていなかった俺自身にな」


 言葉の意味がわからず困惑するユアの肩へ、厚く大きな手が力強く置かれた。


「怖がる必要なんてどこにもない。ユアの側には常に俺がいる。堂々としていればいいんだ。──開門!」


 カイルが門兵に向けて声を張り上げれば、彼らは慌てて跳ね橋を下ろす作業を始めた。


「これからは顔を上げて真っ直ぐ前だけを見ろ。ただ耐えるだけの日々はもう過去のものだ。ユアのキャンバスは未だ真っ白のまま、これからいくらでも鮮やかな色に染めることができる」


「ありがとう……ところでいつも女性にはそんなことを言ってるの?」


 不安を紛らわせようとしてくれているのだろう。

 笑んで言えば、カイルは無言のまま濁りのない綺麗な青い瞳をユアに向けてきた。


「えっと……その……」


 急速に顔全体に広がる火照りを感じながら口籠もっている間にも、けたたましい金属音を奏でながら巨大な跳ね橋が下りていく。


 それからしばらくユアはカイルの顔をまともに見ることができなかった。

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