第33話 恋

「なんで、こんなことをしたんだよ」

 琴音が出ていった部屋で圭吾は茜に怒った。


「ごめん、こんなつもりじゃなかったの」

 茜が誘ったのは事実だが、陥れる気持ちは全くなかったようだった。

 このマンションは、入室に一階のオートロックがあるため、一度インターフォンを押さないとならない。扉を施錠していなければ、入ることはできなかった。

 

「恐らく、誰かと同時にエレベーターに乗ったんだと思う」

 琴音の性格からはロビーの扉が開いていてもインターフォンを鳴らす可能性が高かった。琴音は知らないでエレベーターに乗ってしまったのだろう。部屋前のインターフォンだって鳴らせば避けられたことだ。


「琴音も女性の部屋にひとりでいる圭吾が気になったのだと思う」

 確かに仕組まれていたにしては、出来すぎていた。僅かな時間のズレで起こり得なかったことなのだ。結局のところ、俺の不注意が招いたことだった。


「圭吾、琴音を追いかけて、今までの苦労が報われなくなるから」

「ごめん、行くな」

 マンションを出た。目の前に花時計、超えて北側が駅まで続く道だ。琴音の姿は見える範囲のどこにもなかった。


 あの後、走って逃げたのだろうか。駅に向かった可能性が高かった。圭吾は駅に向かって走った。会えるか、会えたとしてもどう話せばいいのだろうか。嘘をつく、ダメだ、琴音に嘘は通用しない。しかも、それは最低な行為だった。


 やがて元町の改札口が見えてきた。圭吾はカードをかざして、改札を潜り抜ける。


 西宮方面の階段を駆け上がった。そこに琴音がいた。エスカレーターから降りる琴音をみる。真っ直ぐ先を見つめていた。ホームにはすでに西宮行きの電車が到着していた。圭吾は急ぎ駆け上がった。


「間に合ってくれ」

 一つ飛ばしに階段を駆け上がる。琴音はすでに阪急電車に乗っていた。扉が閉まります、とアナウンスが伝えられる。

 扉が閉まる。間に合わない。身体を無理やりねじ込んだ。

 大人のくせに何をしてるんだ、という不満混じりの視線が突き刺さる。でも、ここで逃すわけにはいかない。


「琴音、……ちゃん」

 全速力で走ってきたからだろう。息を切らせながら、目の前の琴音の前に立つ。明らかに嫌そうな表情を浮かべた。


「どうしたの、走ってきて。それに無茶して乗るなんて最低だよ」

「ごめん」

「いいよ、それより言いたいことあったのでしょ」

「うん。茜とは、琴音が思っている関係とは違うんだ」

「ちょっと……」

 琴音は周りを見渡して、不満を口にする。俺は焦って大声で言ってしまった。これでは乗客に聞かせているようなものだ。


「ごめん、声が大きかった」

「で、何が言いたいのかな、わたしと圭吾くんは彼氏彼女の関係でもないし。わたしに言い訳なんかしなくていいんだよ」

 明らかに口ぶりは怒っていた。


「さっきのこと、謝りたくて」

「だから、別に気にしてないよ。私たちただの友達でしょ」

「でも怒ってる、ただの友達なら、普通に話すはず」

 琴音が振り向いた。上目遣いに怒気を含んだ視線が突き刺さる。


「ちょっと静かにしてくれないかな、恥ずかしいから」

「ご、ごめん」

 冷静になって周りを見渡すと明らかに好奇な眼差しを感じた。ただでさえ目立つ琴音。言い訳をする男。カップルの痴話喧嘩にしか見えなかった。数人の客が圭吾に羨望の視線を投げかけていた。可愛い娘と付き合いやがってとでも思ってるのだろうか。


 こうなったら行くところまで行くしかない。放置しては駄目だ。


 琴音の方を向く。琴音は窓に向かっていた。正面につかせないつもりなのだろう。スマホでは文字を打ってる。ペアスマホで誰とメールをしてるんだろうか。いや、メールをしてるとは限らない。今は圭吾と会話をしないと決めているのだから。


 西宮のホームに電車が入る。ゆっくりと電車が止まって扉が開く。


「それじゃ、これで。わたし帰るから」

 別れの挨拶を言って、電車を降りてしまう。追わなければ、琴音は宝塚方面の電車へと歩き出す。圭吾もその後を追う。


「なぜ、追いかけてくるの」

「話したいから」

「圭吾、あなたが以前言っていたことと矛盾してる」

「そんなこと、関係ない」

「圭吾はわたしを守ってくれると言ったよね。いま鈴木や由美に見つかったら、私たち浮気と言われるかもしれないよ」

「でも、それでも……」

 宝塚行きの電車に同乗する。琴音は相変わらず窓際に向けて、スマホを触っていた。

 宝塚のホームに到着すると、そのまま立ち止まることなく家に向かう。ここから、家まではおよそ15分くらいだ。


「どこまで、ついてくるの」

「謝罪をさせてくれるまで」

「聞きたくない、わたしと圭吾は恋人同士じゃないから」

「でも、嫉妬してるじゃん」

 俺はある一つの可能性に賭けた。


 交差点の前まで来た時に、琴音が振り向いた。

「嫉妬なんか、してない!」

「でも怒ってる、話し方も圭吾になってる」

「だから、何! 怒ってちゃ悪いの。呼び捨てにしちゃダメなの」

「何も悪くない。嫉妬してくれて嬉しい」

「圭吾に嫉妬なんてしてない」

「でも、怒ってくれてる。怒る必要なんてないのに」

「なんでか分からない、けど怒ってきちゃうのよ」

 俺は覚悟を決めた。ここから歩み出さないと議論は堂々巡りになる。当たって砕けろ。


「俺は琴音が好きだ。由美と付き合うよりずっと前から、初めて会った時から好きだ」

 琴音の表情に大きな驚きの色が広がった。


「じゃあなんで、茜を抱くの!」

「ごめん」

「なんで、わたしが好きなのに、茜に気を使うの。それを見てわたしが何も感じないとでも思ったの?」

「軽率だった。最後にいい格好したかったのだと思う」

「それで抱くの、最低……だよ」

「ごめん、悪かった」

「謝罪はもういいよ、何度言われても気持ちは変わらない」

「どうしたら許してくれる?」

「どうしたら、いいんだろうね」

 解決策の糸口を探すような琴音の視線を感じる。


「圭吾くん、わたし、茜ちゃんに嫉妬してる。圭吾の軽はずみな行動も許せないでいる」

「ごめん」

「何度、謝られても許せない。許せないけど、そんなの関係ない……」

 こちらに大きな瞳で、見つめてくる。


 琴音がいきなり頭を押し当ててくる。肩が目の前にあった。圭吾は思わず抱きしめた。


「わたし、この気持ちがわからないよ、今も許せないよ、許せないけど、そんなの関係ないという気持が大きい」


「どうして、わたしが好きなの。由美さんよりも茜ちゃんよりも……」

「琴音のお母さんが亡くなった時、本当の琴音を知った時、線香の煙を結婚式みたいだね、といった時から誰よりも琴音が好きだった」

「そんな昔の話持ち出すの、ずるいよ」 

「ずるくても、本当の気持ちだ。琴音に振られたと思ってなかったら、由美との関係はなかった。今更だけど、随分と遠回りした」

「わたしのせいだったの」

「そんなこと言ってないよ」

「ううん、…きっとわたしのせいだ」

 何度か琴音は、今の言葉の意味を考えてた。


「わかった。圭吾の気持ち伝わったよ」


 琴音に目をやると、目を瞑っていた。

 これって、もしかして、もしかしなくても。由美とは何度もしたけれども、俺の中では琴音は別格だ。初めてキスをする高校生のように焦りまくっていた。


「あっ、ぁぁぁ……」

 しばらく目を瞑った理由なんて一つしかないのだけれど、頭の中がパニックになっていた。怒っていた琴音と繋がらなかったのもある。俺が初めてキスをする前に戻ってしまったような気がした。


 瞳を開いた。なんだ俺の勘違いだった、と思った刹那。

 琴音の顔が近づいた。唇が目の前にあった。


 唇に触れる柔らかい感触がした。琴音の匂いが温もりが唇を通して伝わってきた。琴音の顔が目の前にあった。10秒くらいの時が永遠に感じた。


「圭吾くん、大好き」

 はにかんだ琴音がにっこりと笑った。


 圭吾は今度は躊躇うことなく、琴音の唇に自分の唇を重ねた。少し舌を入れてみる。数秒間、舌と舌を絡めた。驚いた琴音の舌が逃げた、その舌に絡めた。琴音の舌の熱さを何度か感じた後、身体をゆっくりと離した。糸のような筋が伸びて切れた。


「圭吾くん、ちょっと、これはないんじゃないかな」

「ダメだった?」

「エッチさっきのファーストキスだったんだからね」

 ちょっと怒った表情をしながら圭吾を見た。圭吾は頭の中の考えが確信に変わった。結局、琴音は誰とも付き合っていなかったのだ。


「ごめん、俺だけ由美と付き合って」

「いいよ、わたしが拗らせてただけだから」

「でも今後、絶対浮気はダメだからね!」

「わかった、それと謝罪させて……」

「それはもういいよ、茜が長文送ってきたから、全部知ってる」

 電車の中の長文は茜とのやりとりだったのだと、圭吾は今にして気づいた。


「でも、これで私たちも浮気だよね」

 琴音が嬉しそうにはにかんだ。


―――


一区切りですかね。引き伸ばすつもりはなかったですよ。


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ここからもう少し続きます。

今後ともよろしくお願いします。

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