第28話 ユイとルカ
ピシッ、ピシッ、ピシピシピシピシ・・・
瞬時にして、その音が何なのか、ルカには理解出来た。ルカの目は、棚に注がれた。
大半のガラス器は、地震で倒れてしまったが、三方向から張られた糸で固定されたガラス器だけは、倒れずに残っていた。
その中の一つ、首の長い花瓶、地肌は黒ずみ、ユイの母親、ルミ子が語ったエミール・ガレの作風そのもののアンティークなガラス器が、ルカの目に留まった。
黒いガラスの地肌に、毛細血管を連想させる細かな赤いひびが広がっていく。音の正体はそれだった。ひびは、瞬く間に花瓶全体に広がった。
ユイの問いかけに答えられずに生じた、じりじりとした時の流れの圧力、沈黙の重さに、黒い花瓶が反応した!?
ルカには、そう感じられた。
その時、ひび割れたガラスの一部が剥がれ落ちた、音もなく。
ルカは、その破片から目を離せなくなった。
破片の黒い地肌が、みるみる赤く染まっていった。染まるだけでなく、その赤が破片の表面に盛り上がり、溢れ出ようとしていた。
破片は、先端のとがった細長い流線形。ナイフ!?
血に染まった、真っ赤なナイフが、無言でルカに何かを語りかけている・・・。そうとしか思えなかった。
ナイフが、何かを語ろうとしているのか!? 心を集中して読み取ろうとしても、ルカには読み取れなかった。
ただ、ナイフの鋭利な刃先と、溢れ出ようとする血の赤が、恐怖と痛みとなって伝わってきて、ルカの神経をチリチリと刺激した。
チラッと視線をユイに向けた。今も頬杖をつき、ボンヤリとしているようだった。ユイは棚で起きている異変について、何も気付いていない。
それが不思議であり、同時に当然であるようにも、ルカには思えた。棚で起きた異変は、何かを伝えるため、ルカに向けられたもの。異変が伝えようとしているのは、ユイの過去を、その内面を物語るものであり、いわば、ユイそのものだ。ならば、今さらそれをユイが見るまでもない。だから、棚で起きた異変に、ユイは気付いてない・・・。
電気が流れるように、ルカの脳裏を、そんな考えがよぎっていった。
心の迷いは、いつしか消えていた。ユイの過去に触れることは、既にタブーだとは思えなくなっていた。花瓶の破片、血塗られたナイフが、ユイに聞いてみるよう、促していた。
「ユイさん」
「ルカ」
互いを呼ぶ声が、事務所に同時に響いた。二人は互いの顔を見合わせ、その偶然の一致が意味するところを感じとっていた。
「私がユイさんにうかがいたいことを、分かるんですか? 」
ルカの声にとまどいは感じられない。ユイには分かっている、という確信があった。
「私が、ルカにだけは知っておいてもらおう、と思ったことを聞きたいんだよね? 」
ユイの表情も声も、静かだった。
「あなたが、ここを訪ねてくれた日、放火によるご両親の焼死という悲劇から始まった不幸・・・いいえ、違うわね。不運としか言いようない半生を、あなたは語ってくれた。衝撃だった。あなたの半生が、じゃないわよ。そんな人が、今、目の前にいるってことがよ。自分には何の責任もない不運を背負わされ、不運を生き抜いてきた人だからこそ、仲間として、私には必要なんだ、と直感したわ。
でも、その日以来、あなたにだけ喋らせるのは、フェアじゃない、とずっと感じていた。仲間はフェアじゃなければならないもの・・・。
だけど、話す機会がなかった。話す必然性がなければ、話せない内容だからね。やっと、その機会が巡ってきた。だから、話すわ。聞いてくれるわね? 」
ユイが口にした「仲間」という言葉が、胸にこたえた。熱い涙がこぼれ落ちそうになったが、ぐっとこらえた。
話はまだ、これからだ、とルカは自分に言い聞かせた。口を開くと、
「その前に、一つ教えてくれる? 黙り込んでから、暫く棚を見つめていたようだけど、あなたの目には、何が見えてたの? 」
ユイは、背中で見ていたのだ。ルカは正直に答えた、ありのままを。
話を聞くうちに、ユイの目が鋭くなった。棚を見た。ルカも振り返った。ひびの入った花瓶もなければ、血に染まったナイフもなかった・・・。
「死んだおばあちゃんを見たあなただもの。確かに見たのよ。それに、血まみれのナイフ・・・幻覚でも何でもないわ」
そう告げたユイは、大きく息を吐いた。
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