第16話 祖母
恋路・・・いや、違う。恋とは似て非なるもの。結婚へ至るいばらの道を歩もうとする、何組ものカップルと並走するようにして、過ごしてきた七ヶ月間だった。
ルカには、今もって、なぜ自分がこの「ユイ・マリアージュ・オフィス」にいるのか? その意味がわかっていなかった。
結婚相談所の事務所が入っている雑居ビルの一階にある花屋で、たまたま出会ったユイさんに拾われたようなものだ。ユイさんの気紛れだった、と考えた方が、筋が通っているようにルカには思えた。
事務所に必要な物を、その
ユイさんから、あなたの淹れてくれる紅茶は最高! ルカスペシャルティーよね、などとおだてられることはあるにはあったが、それ以外で、自分がこの結婚相談所に、何か貢献しているとは、とてもじゃないが思えない。
だから、結婚相談所にとっての自分の価値なんてものは、極力考えないようにしていた。落ち込むだけに決まっている。
あくまでも、自分にとって、この事務所にいることの意味に目を向けるようにしていた。実にバラエティーに富んだ男女の組み合わせ(ハイソな会員さんが多かっただけに、自分のような養護施設で育った者にとっては、もの珍しかった)、全員が全員、共通する目標、結婚というゴールを目指しているのに、どうしてこうもみんなバラバラなのか? 不思議でならなかった。
結婚という一つの物差しで計るから、会員一人一人の個性(性癖といい換えても、イイように思える)というか、ものの考え方、感じ方、生き方の違いが、はっきり見えてくる。面白い。飽きることがなかった。
この七ヶ月間、結婚にこぎつけようとする人たちのドタバタ劇を通して、ただひたすらに、人間について、人生について、考えてきたように思う。でも、つくづく自分って、頭が悪いなあ~、と恥ずかしくなってくる。考えてはみるものの、人それぞれだよね、というだけで、それ以上のことは、何にも見えてこない。情けないなあ~、とガッカリしてしまう。
それでも、ひとりぼっちの自分のことばっかり見つめてきた、これまでの27年間の人生よりも、遥かに楽しい日々だったことだけは、確かに言えた。所長のユイさんの役には立てなくて、ホントに申しわけないが、彼女の傍にくっついて、何組ものカップルと関わることで、泣いたり、怒ったり、笑ったり・・・それだけでもう充分に充実した時間を送れている。
これからも、ずっと、ユイさんの傍に置いてほしい、と願っている。
「役立たずのあんたなんか、もういらない。クビ! 」
そう言われたら、恐らく私は返す言葉もなく、黙って、「ユイ・マリアージュ・オフィス」を去っていくだけだ。ユイさんの気紛れで拾われた身だ。気紛れで捨てられたとしても、文句を言えた筋合いではない・・・。
事務所の外には、すっかり夜のとばりが下りていた。室内にユイの姿はなく、ルカだけが、ポツンと椅子に座っていた。
ユイは相変わらず忙しい。つい最近、一組のカップルを成婚にまで導いたばかりだというのに、息つく暇なく、今夜も、会員の女性から依頼されて、夕食を共にしながら、相談を受けている。
「遅くなるかもしれないから、片付けが終わったら、帰ってもいいわよ」
と、出しなにユイから言われたのだが、ルカはなんとなく帰りそびれて、ボンヤリと事務所にとどまっていた。
街の灯りに照らされて、夜空には星は見えない。窓枠に切り取られた、何も見えない暗がりを、何を見るともなく眺めていた。ルカは、この結婚相談所で過ごしてきた日々を振り返っていた。
普段は、あまり選ばない紅茶、アールグレイを淹れてみた。茶葉のベースは中国茶だが、そこに、ベルガモットを香りづけしてある。どこか、エキゾチックな香りと味わいで、いつもとは違う気分にひたることが出来た。
事務所は雑居ビルの三階にあり、街路樹のソメイヨシノは見えないが、きっと、街灯の灯りを受けて、光り輝く桜吹雪の舞を見せていることだろう。サクラが咲くのを目にすると、心は浮きたってくるが、桜吹雪を目にするのは、ルカには心寂しく、物悲しかった。
アールグレイのエキゾチックな風味と、心を乱す桜吹雪の想像とで、ルカの気持ちは、妖しげに揺れていた。ほんの一瞬だったが、意識が、フーッと遠のいたように感じられた。街を吹き抜ける春の風が強まったのか、事務所の窓ガラスが、カタカタと音を立てた。ルカは音に敏感だった。特に、大きな音は苦手だった。大きな音を耳にすると、仕事が手につかなくなるほどだった。誰にも相談出来なかったが、そのせいで、幾つかのバイトをクビになっていた。
そのとき、ヒューッ、ヒューッ、という、はっきりと耳に届く風の音、ビル風だろうか、その風音と共に、高く舞い上げられた桜吹雪が、窓の外に見えたと思った途端、無数の花弁が、窓内へと吹き込んできた。
窓は閉まっているのに・・・そんな!?
ルカは不思議に思い、確かめるために、椅子から立ち上がろうとして、体が動かないことに気が付いた。首がわずかに動くばかりで、首から下は、まるで意のままにならなかった。
金縛り・・・!?
幼い頃から、金縛りにあうことは、ときどきあった。けれども夜眠っているときだけだった。今夜のように、椅子に座った姿勢で、金縛りにあったことなどなかった。
舞い狂う花弁は、窓ガラスをすり抜けて、次々と部屋の中へと侵入してくる。室内に風は吹いていないのに、渦を巻きながら、一つの意思を持った生き物のように、次第に一か所にまとまっていった。数多の花弁は寄り集まると、動きを止め、淡く白く輝く人影らしきものを形作っていった。
その人影は、棚の前に置かれた、あの西洋人形の前に立っていた。
室内への花弁の流入が終わったころに、人影は明らかな一人の人間の姿になっていた。顔がよく見えない。髪は真っ白で、長く伸ばした髪を頭頂部からやや後ろの位置で、お団子状に束ねていた。お団子には、サクラの花弁からなる可愛らしいシュシュが巻かれていた。小柄なおばあさんであることは間違いない。
着衣は、ウエストの高い位置で切り替えが入った、ゆったりとしたワンピースタイプのドレス。ハワイの人たちが、よく着ているムームーというドレスだ。
だが、通常のムームーと決定的に違うのは、その柄だった。ドレス全体を、サクラの花弁がおおい尽くしていた。
ルカは、その美しい柄に、さらに目をこらした。すると、花弁の埋め尽くした海の中に、白い肌をしたイルカが泳いでいるのを発見した。
サクラとイルカ―奇妙な組み合わせだ、とルカは思った。
おばあさんは、腰をかがめ、腕を伸ばした。棚にはガラスがはめ込まれていた。おばあさんの手は、ガラスをすり抜け、西洋人形の両脇に差し込まれた。愛おしげに人形を抱きかかえ、その顔に頬ずりした。人形が、まばたきした。それから、うっとりとした表情を浮かべ(ルカには、そう見えた)、安心したように目を閉じた。
おばあさんは、人形を抱きかかえたまま、ルカに向き直った。丸メガネをかけた、優しげな顔立ちだった。口もとには、微笑がこぼれていた。
唇は閉じていたのだが、おばあさんの柔らかな声が、直接、ルカの心に届いてきた。
「パパは、優しい人だった。誰にも優しい人だった。特に、女性にはね・・・。だから、時に不安になったの。そして、その不安は的中してしまって・・・」
直感的に、ルカは理解していた。おばあさんは、ユイの祖母。ずいぶん前に亡くなった、と聞いていた。そして、パパ、とは彼女の夫。妻とまだ幼かった娘を捨てて、外国の女性と駆け落ちしてしまった祖父のことだ。
ルカは聞いてみたかった。でも、金縛りで声を出せない。必死になって、心を集中させ、言葉を思い浮かべた。
自分と幼い子供を捨てた夫を、恨んでいないのか? と。
おばあさんの微笑は変わらない。ルカの心に、音楽の静かな調べのように、返事が響いてきた。
「不安になるぐらい優しかったパパのことを、結局、恨みも憎みもしなかった。誰にも優しくて、優しすぎて、優しさの海の中で溺れて、流されてしまった・・・。思わず伸ばした手の先には、私の手はなく、どこかよその国の女性の手があった。それだけのことだったのよ」
ひとり取り残されて、おばあさんは、不幸な人生を送ったのではないですか? とルカは心の中で念じるように聞いてみた。
すると、すぐにおばあさんの声が返ってきた。
「ひとりじゃないわよ。娘がいたもの。優しかったパパの思い出が、抱きかかえられないくらい、いっぱい残っていたし・・・。あんな優しかった人と恋に落ちたことを、後悔なんてしていない。幸せな人生だった。パパが優しさの海のかなたへと流されていってしまってからも、ずっと幸せだったわ。今だって・・・」
私は、今だって、幸せ―その声に反応したかのようにムームーの柄にあった白いイルカがはねた。
おばあさんの閉じらていた唇が、ほんの束の間、まあ! という形に開いた。
「パパが、ハネムーンの代わりに連れていってくれたハワイで、お揃いのアロハを買い、一緒にムームーをプレゼントしてくれたの。ムームーを選びながら、パパが、イルカの柄の入ったものを手に取って、こう教えてくれたの。
『ドルフィンはね、恋愛運の向上を意味するんだよ』
って。そう言ってから、イルカの柄が入ったムームーを、私に買ってくれたの。パパへの愛が募るとき、今もイルカは嬉しそうにはねるのよ」
おばあさんは、右腕で人形を抱き、残る左手をそっと棚の上に添えた。
ルカの目に、次々と灯りが飛び込んできた。全然まぶしくはない。ホッとするような光だった。
例のキノコ型のランプシェードはもちろんのこと、棚に並べられた、数多くのガラス容器が光を放ち始めたのだ。どこか、にじんだような淡いピンク、イエロー、オレンジの光が、連鎖反応を起こしたように点っていった。
光の数が増えていくに連れて、ルカの意識は、その光の中に飲み込まれていくように、薄れていった。もう目の焦点が合わなくなりかけたとき、おばあさんの輪郭がおぼろになり、再び輪舞するサクラの花弁と化し、幻のように消えていった。そして、ルカの意識も失われた―。
「ルカ、風邪ひくよ! 」
頭の上から降ってきた声と、肩を揺さぶられた刺激で、ルカは目を覚ました。目を覚ました途端、怒ったような顔をしたユイと目が合った。
「・・・お、おかえりなさい」
声には出してみたものの、ルカの意識は、まだ戻りきってはいなかった。
ユイは、事務所机の上に放り出すようにして、カバンを置いた。ルカから目をそらし、カバンの中から資料を取り出した。その資料に視線を走らせながら、ユイは喋り出した。
「ビルに戻ってきたら、事務所に明かりが点ってるじゃない。えっ、まだ残ってるの? と思って、急いで駆け上がってきて、中をのぞいたら、椅子にあおむけになってるあなたがいるじゃないの。座っている、というよりも、ずり落ちて、かろうじて引っかかってる、って感じでさ。一瞬、生きてるの!? って疑っちゃたわ」
その音声は、心底呆れたという感じだった。
「まさか、と思ったけど、若くても突然死というのがあるから。声をかけるのが、怖かったのよ」
と言ったときには、声は半笑いになっていた。
「
相変わらず、資料に目をやったまま、ユイは聞いた。
自分の見たこと、聞いたことを正直に言うべきか、どうか、ルカはためらったのだが、このまま黙っている気にはなれなかった。
「えーと・・・、ユイさんのおばあさん、ムームー着てませんでしたか? 」
ルカの突飛すぎる質問に、ユイはさすがに資料から目を離し、ルカの方に向き直った。ハトが豆鉄砲を食らった、とは、まさにこのときのユイの表情を指すのだろう。ユイは昔の記憶を引きずり出そうと、暫くの間、考えていた。そして、ボソッと答えた。
「おばあさんのアルバムの中に、若い頃の写真に、確かそんなのがあったように思うけど・・・」
その答えにかぶせるようにして、ルカは聞いた。
「そのムームーの柄、イルカじゃありませんでしたか? 」
「古いモノクロ写真だから、柄までは、はっきり写ってなかったけど・・・。そう言われれば、そうだったかもしれない・・・」
ユイは自信なさそうだった。
「おばあさんは白髪で、頭の上でお団子にしてませんでしたか? 丸いメガネをかけて」
ルカは、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「・・・うん。・・・そうね。亡くなる少し前の記憶なんだけど、実家で会ったときのおばあさんはそんな感じだったと思う。
・・・まさか、あなた、私のおばあさんと会ったとか・・・ここで? 」
目を丸くして、ユイが聞き返すと、ルカは一つ、こくんとうなずいた。それから、おばあさんから聞かされた、おじいさんへの思いについて、ルカはユイに丁寧に語って聞かせた。ユイは神妙な顔つきで、うなずきもせず、黙って聞き続けた。語り終えた後、ルカは責任を果たせたような安堵感と、何とも言えない疲労感を覚えた。ユイはうつむき気味の姿勢をずっと変えず、一点を見つめ続けていた。
ふと顔を上げ、ルカの顔を正面から見たユイの目には、光るものがあった。ルカは、ハッとした。緩やかなせせらぎのような声で、ユイは語り始めた。
「おばあさんから、そんなことを聞かされたことは一度もなかったわ。母が、あまりおばあさんのところへ、私を連れていきたがらなかったし、まだ私も子供だったから、仕方がないんだけどね。祖父母のことは、たいていが母から聞かされることばかりだった。
おじいちゃんの記憶は、母にもなかった。母の口から出るのは、ただおばあさんと自分を捨てたサイテーの男、というイメージだけね。おばあさんには、母の胸の中で、複雑な思いがあったようで、そのせいもあって、おばあさんは捨てられた女、という
今、あなたが語ってくれたことは、私には驚きの連続だった。
パパのことを愛していた。私の人生は幸せだった―そんな言葉をおばあさんが語っただなんて、今も信じられないくらいよ。・・・ちょっと混乱しちゃってて、気持ちを整理できないの。冷静に受け止めるには、もう少し時間がかかりそう・・・。
漠然とした予感だけど、これから結婚相談所の仕事を続けていく上で、何か重大な影響を受けそうな気もしてるの」
ここまで語って、ユイは一つ、息を吐いた。
反射的に、ルカの緊張は高まった。
「あなたと出会ったのには、何か特別な力が働いて、意味を与えられているのかもしれないね。まだ私にはよく分からないんだけど、とりあえず、お礼を言っておくわ。・・・ルカ、私と出会ってくれてアリガトウ」
ユイの目には光るものがあった。
ルカは、幼い子供がイヤイヤをするように頭を振り、顔を上げることが出来なかった。
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