二重人格


「あの日、保健室にわたしを連れていってくれた人と本当に同じ人?」


その言葉が彼の地雷を踏んでしまったのか、彼の右の眉がピクリと吊り上がった。


「オレの・・・・・・何を知ってる?」


かすれて喘ぐような声。彼の瞳に、初めて怒り以外の他の感情が見えた気がした。

怒り・・・・・・というより苦悩、迷い、痛みのような何か。


「確かにあなたのことは何も知らない。でもわたしが一体、何をしたって言うの?」


「気に障る。君の何もかもが」

彼の言葉が暗闇に響いた。


性格や態度が気に入らないというならともかくも、何もかもって全否定じゃない。それにそんなことを言われても、わたしにはどうすることもできない。


「ならほっとけばいいだけの話じゃない」

負けじと切り返した。


もっともなことを言われて悔しかったのか、彼はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。


・・・・・・もしかして、このままわたし殴られる?


野球場で首を締め上げられた男の姿が頭に浮かんだ。あんな大男が宙に浮くくらいだから、わたしなんて数メートルは軽く吹っ飛ばされそう。


「・・・・・・殴るつもり?」


彼は眼を見開き、わたしを睨んだまま押し黙った。

──図星だ。

覚悟を決めた次の瞬間、にわかには信じがたいことが起こった。

非の打ちどころのない顔を、僅かに傾けながらゆっくりと近づけてくる。


──え?

──嘘でしょ?


何、この展開。

顔を傾けて油断したところをそのまま頭突きするとか、

何か新手の技じゃないとすれば、

これは──、間違いなく──、あきらかに──、キスしようとしてる!!



心臓が暴走し始めて、パニックになる。 

深紅の薔薇のような高下蓮の上品な唇がゆっくりと開きかけ、ほとんど触れそうになるくらいになって、寸前のところでギュッと眼をつぶり、顔をそむけた。


暫くそうしているとスッと離れる気配がして、わたしはゆっくり眼を開けた。

彼は壁から手を離して、何歩か後ろに下がった。


「ああ、そうだな。君の言う通りだ」


うつむいた彼の表情はさっきまでの怒りは消え去り、意志の持たない人形の仮面を貼り付けたように無表情になっていた。


「放っておけばいいんだ」


わたしに言ったというより、自分に向けて言った言葉のように呟く。

彼はもうこっちを見ることなく、グラウンドとは違う方向へそのまま足早に立ち去った。


軽いめまいを感じながら、息を長く吐いた。


「一体何なの。助けてくれたと思ったら怒りだすし、そうかと思ったら、今度はせまってくるわけ? 意味分かんない。ほんと最低。このサイコパスの二重人格男!」



面と向かって言えればいいのだけれど、言えないから暗闇に向かってひとりで悪態をついた。彼の背中が闇に紛れて見えなくなったのをちゃんと確かめてから。

右の手のひらを見つめる。



 高下蓮の頬を打った感触がまだ手のひらに残ってる。

人を叩いたのは生まれて初めてのことだった。

それも相手は高下蓮。学校一モテる男で、先生も認める優等生。

一体なんでこんなことになっちゃったんだろう。ずっと楽しみにしていた三湖夜祭なのに。


暗闇でスマホが光った。美咲からだ。


お客が途切れなくて、今、やっと休憩に入るところだよ。

疲れたし、お腹すいた~。今、どこにいるの?


美咲のメールを見たら、ほっとしたのか体中の力が抜けてへなへなとその場に座り込んだ。


『気に障る。君の何もかもが』


彼の低く冷たい声が頭の中に響いた。

信じられないような事が立て続けに起こり、さっきからずっと我慢していた涙が溢れてきた。


ミックスジュースみたいにいろんな感情が混ざり合い、もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。その場からもう動けず、ヒックヒックとしゃくりあげ、暫く泣き続けていた。



 三湖夜祭は大成功のうちに終わった。クラスとしては焼きそばは大盛況で完売。そして、直井くんの貢献度が大きいのは否めないけど、Bクラスが見事金賞を勝ち取った。いつかこの森徳を卒業してからも、今日のことは忘れられない強烈な思い出になることは間違いない。


いろいろな意味で。

彼を叩いた右手が、まだじんじんと痛かった。

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