第4話 神の子



 翌日、ミケーレは昨日と同じ岩の上にいた。

 強い日差しを避けるように日除けの布で頭部までを覆い、影を作って座っている。特に何をするでもなく、ただ座って、遠くを眺めているだけだった。

 そこへ、


「こんにちは。ミケーレ」


と声を掛けてきたのは、マリアだった。ミケーレは布を捲り、顔を出した。


「おや、マリア。こんにちは」

「何をしてるの?」

「何も。ただ、ぼんやりとしていただけさ」

「そ? あ、ちょっと詰めて」

「何だ、座りたいのか?」

「そうよ」


 そう言って、マリアはミケーレが座っている大岩の上に昇ってきた。岩は2人が容易に座れるほどのサイズである。胡坐をかくミケーレの隣に、マリアがちょこんと座った。少女のように可愛らしい雰囲気を持っている女性である。


「何だ?」

「別に。何を見てるのかな――って、気になっただけよ?」

「それこそ、別に――だ。何を見てるでもない」

「そう?」

「うん」


 そうして、2人して大岩の上に座り、何もせず、ただ、ぼうっとあたりを眺めていた。そんな不思議な時間が過ぎていった。

 しばらくして、ミケーレが声を掛けた。


「何か、気になることがあるのか?」

「ん。ちょっと、ね」

「ふうん」

「聞かないの?」

「マリアが言いたくなったら、言えばいい」

「……ありがとう」

「うん」


 マリアがそれきり黙り込んだ。何か思うところがあるのだろう。聞いてほしいような、聞いてほしくないような――本人にも判然としない感情のようだ。だから、ミケーレも無理に聞かなかった。マリアもその配慮が嬉しかった。

 そして、また不思議な時間が流れた。マリアは何も話さなかった。ミケーレも黙って、傍に座ったままだった。


「帰るわ」


 やがて、マリアが口を開き、そう言った。気持ちの整理が付かなかったようだ。


「そうか」

「また来るわ」


 大岩を降りて、そう言った。


「うん。気を付けて帰れよ」

「ありがとう」


 手を振って帰っていくマリアの後姿を、ミケーレはしばし見詰めていた。


 明くる朝――。


「おはよう」


 マリアは朝早くから、ミケーレの座る大岩のところにやって来た。


「おはよう。えらく早いな。マリア」

「うん。何となくね」

「そうか」

「そうなの」


 そう言って、マリアは持ってきたパンと水をミケーレに差し出した。ミケーレは受け取り、礼を言った。


「ありがとう。マリア」

「どういたしまして」


 昨日と同じく、マリアはまた、ミケーレの横に座った。そして、それきり黙り込んだ。そんなマリアを、ミケーレは横目で見ながら、


「何か、言いたいことがあるのか?」

「ん……」

「俺で良ければ、話を聞くぞ?」

「うん……」


 ちょっと逡巡したマリアが、言葉を継いだ。


「あのね……。イエスのことなんだけどね」

「息子さんの?」

「うん。最近、あの子がちょっと……ね」

「うん」


 ミケーレは先を急かすでもなく、マリアの言葉を待った。


「夜になると、弟子の1人と出かけるのよ」

「弟子? 弟子がいるのか?」

「そう。私と同じ、〝マリア〟ってなんだけど……」

「マリア? 女性なのか?」

「うん」

「恋人なんじゃないのか?」

「恋人なんだけどね」

「じゃあ、別に変じゃないだろ」

「そうなんだけどね」

「だけど、気になる――と?」

「うん。ぼ~っとしてることが増えた気もするし」


 『心、ここにあらず』なのは、恋をしているからではないのだろうか――とミケーレには思えた。しかし、親としてはやはり心配なのだろう。マリアの話を聞いていたミケーレは空を仰ぎ、それから、マリアに言った。


「とは言え、見守るしかないんじゃないか? 彼ももう、いい大人なんだから。それなりの付き合いがあるだろ」

「そうよね。やっぱり、それしかないか」

「何かあったら、言ってくれ。出来ることだったら、力になるよ」

「そう? ありがとう。ミケーレ」

「ああ」

「うん。じゃあ、帰るわ」

「帰るのか」

「うん。話して、ちょっとスッキリしたわ」

「そうか。気を付けてな」

「ありがとう。じゃあ」


 そんなことを言い合う日もあれば、何を言うでもない日もあった。それでも、ミケーレに会うと何となく落ち着くのか、マリアは毎朝現れるようになっていったのである。

 もっとも、息子の方では、それを快く思わなかったらしい。度々、母親を迎えに来るのだ。〝どこの馬の骨ともわからぬ者〟に母親が頻繁に会いに行く――というのは承服しかねるのだろう。とはいえ、さすがに母親に、〝会いに行くな〟とは言えなかったようだ。

 よって、彼に出来ることは、ミケーレに会いに来たマリアを早々に迎えに来ることだけだった。


 今朝もいつものようにマリアは来た。そして、ミケーレの隣に座った。


「いいのか? 毎朝、こんな、どこの馬の骨とも分からん男に会いに来て?」

「うん?」

「変な噂になるぞ?」

「そうなの?」


 そんなマリアの行動は、街でちょっとした噂になっていたのだ。


「旦那さんだって、気にするだろう?」

「ああ……。まあ、ウチの亭主は大丈夫よ」

「本当に?」

「うちの亭主、もう歳だし。〝やきもちを焼く〟――って歳じゃないかな」

「そうなのか?」

「もう、老人って歳よ。それよりは、どっちかというとイエスの方かな」

「そうだな。息子さんは、マリアが俺のところに来るのが嫌そうだしな」

「ね。やきもち焼きなのよ、あの子。〝神の子〟なんて言ったって、そんなものよ」

「〝神の子〟?」


 マリアの言った言葉に引っ掛かったミケーレが、オウム返しに言った。


「あれ? 言わなかったっけ? あの子は〝神の子〟だ――って、天使様が教えに来てくれたのよ」

「天使が?」

「そうなの。まだ結婚する前のことなんだけどね。大天使ガブリエッレ様が来て、『貴女――私のことね――は懐妊しています。その子は〝神の子〟です』なんて言うのよ」

「ほう」


 マリアは〝信じられる?〟と言わんばかりの顔で、ミケーレを見てきた。ミケーレも〝面白いな〟という顔で、話の続きを促した。


「私としたら、まだ結婚前の生娘なのに、そんなわけないじゃない――って思ったのよ」

「ほほう」

「そしたら、やっぱり懐妊しててね。そりゃあもう、ビックリよ」

「そうだろうな」

「で、産まれたのがあの子」

「ほう」

「亭主との結婚は家が決めたことなんだけど、お腹の大きくなり出した私を亭主あの人は受け入れてくれてね」

「そうか」

「でも……」


 そこで、マリアは照れた顔をして、


「私としては、〝恋〟をして、好きになった人と結婚したかったかな」


恋愛をした末に、結婚したかったのだ――と言いながら、またミケーレを見た。ミケーレも、どう言ったものかと思っているとそこへ、


「母さん」


と、良くも悪くも微妙なタイミングで、イエスがやって来た。マリアは仏頂面だ。一世一代の告白――とも云える場面だったからである。


「何よ、イエス。いつからいたの?」

「今、来たところですが?」

「そ、そう。ならいいのよ」

「?」


 マリアはバツが悪そうでもあった。イエスの方は不思議そうな顔も一瞬で、改めて真面目な表情で、母に告げた。


「私はこれより瞑想し、〝主〟と対話致しますので、しばらくお会い出来ない――とお伝えに参りました」

「えっ……瞑想?」

「はい」

「どれくらいの間なの?」

「およそ、1週間ほど」

「ふうん……。気を付けてね」

「はい。母さんも」

「ありがとう」


 傍にいるミケーレが存在しないかのように、イエスは母と話した。ミケーレが黙礼すると、これは無視出来ないと思ったのか、


「おはようございます。ミケーレさん」


と言ってきた。ミケーレが、


「おはよう」


と返すと、


「では、私はこれで」


と、話はここまで――とばかりに、そう告げて立ち去った。

 ミケーレから見た別れる際のイエスは、マリアには親愛の情を、ミケーレには嫉妬の情、それから敵対心が籠った眼差しであった。やはり、ミケーレがマリアと一緒にいるのが気に入らないらしい。


 この時は何もなく別れたが、イエスの1週間の瞑想は、その最終日に事件は起こった。イエスが捕らわれたのである。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る