@17 猫(マオ)
家に戻った僕は冷えた飲み物目当てに客間に向かった。グラスを手に冷蔵庫を物色する。僕がオレンジジュースを取ろうとした瞬間、足元をマオが駆けていった。僕は目線を戻してオレンジジュースをグラスに注いだ。しかしそれを持って席に着くことはできなかった。急に走ってきたユヅハが僕にぶつかり、手元のグラスは床に落ちて砕けた。
「あぁっ! そんな急に出てきたら───」
制服を着たユヅハは僕を無視してキッチンに走り込み、調理器具の入った棚を漁って何かを取り出した。よく見るとユヅハが取り出したのは包丁だった。
「ユヅハ?」
ユヅハは走って今度は食卓の上に飛び込んだ。食卓の上にあった花瓶や置物が軒並みに落ち、耳を塞ぎたくなるような不快な騒音を立てた。ユヅハは左手で何かを握っていた。よく見るとそれはマオだった。マオの痛々しい鳴き声が響き渡る。
ユヅハはもう片方の手を振り上げる。その手には包丁が握られていた。
「ユヅハ!」
包丁はまっすぐマオの腹に吸い寄せられ、ユヅハの顔に血が飛び散った。マオの叫び声が耳をつんざく。彼女は包丁を引き抜き、もう一回刺すために腕を振り上げた。血飛沫が包丁に続き、放物線を描く。
僕は急いで食卓に飛び乗り、振り下ろしかかったユヅハの腕を摑んだ。
「やめるんだ!」
腕に冷たい感触が走った。包丁の先端が僕の腕に食い込んでいた。ユヅハはそれを見るや否や正気を取り戻したように包丁を手放した。
「あ、あ、違う…コズを傷つけるつもりは…」
僕はユヅハの腕から手を放し、マオの傷口を見た。傷口の奥にあったのは青いプラスチック製の臓器で、血は体内に通ったチューブから流れ出ていた。僕は直感的に止血をしようとしていたが、マオの体内を見てようやく思い出した。
「そうだ…ロボットなんだった…」
マオは急に鳴くのを止め、代わりに小さくビープ音が鳴り出した。
「体液循環機構に異常を検知したため、ペットの活動を停止します。ロボペッツ社のサポートに問い合わせてください。アドレスは───」
丁寧な女性の声がマオから響く。
「見られていた」
ユヅハが僕の傷口を押さえながら言う。
「マオは父さんのコンピュータに接続されてた」
「…それがどうしたんだ」
「マオを通して私達は監視されていた」
僕はユヅハの両親から送られてきた動画を思い出した。そして今までのマオからの視線を思い出した。ユヅハの両親はそんなものを誕生日にプレゼントしたのだ。
「だからマオを殺そうと…」
「そう、壊そうとした。でも君に怪我をさせてしまった…」
僕は腕の傷を見た。痛むが深くはなさそうだ。
「…自分を責めないでほしい。これは事故だ」
彼女は重く頷いて救急箱を取りに行った。電源の切られたマオを見る。何も知らなければ可愛い寝顔に見えただろう。しかし中身は監視機械、雪の言った通り偽物だった。
戻ってきたユヅハに僕は動画のことを話した。彼女は防水のシールを僕の傷に貼りながら答える。
「なんとなくわかってた。通話でも君のことを悪く言っていたから、どこかで監視されているだろうとは思ってた」
消毒液がひどく染みたが僕は平静を装った。
食卓のマオは彼女によってそのままゴミ箱に投げ入れられた。僕は自分に言い聞かせる。あれはただの機械なんだと。彼女の親の悪意なんだと。
昼食の肉料理は喉を通らなかった。僕は九割がた残った器を前にただ座っていた。
「私は優等生だった」
既に食い終えたユヅハがオレンジジュースを飲みながら話す。
「そう、君と同じ」
彼女は続ける。僕も一ヶ月前までは充分に模範的な方だったと自負している。
「私達は似ている。本当に望んで優等生になったわけじゃない。だからボロが出る。私はそれが早かっただけ」
「違う、僕は自分で努力したんだ」
「何のために努力した?」
この感情、あのときと一緒だ。学園のカフェで僕は同じ感情を抱いた。今度こそはしっかり答えなくてはならない。
「将来のため…? いや違う、僕はむしろ未来を軽視していた」
紅い眼がユヅハの隣で光る。雪だ。僕は今、ユヅハからも雪からも問いかけられている。
“何のために?”
「いつからだろう、自分から教科書を開くようになったのは」
小学生ぐらいだろうか、四年生ぐらい、父親がいなくなってからだ。母さんは冷たかった。
「認めてもらいたかった? そう、母さんにも、周りから認められたかった。勉強さえすれば認めてもらえる…そう信じていた」
僕は寂しかったんだ。誰にも認められなかったから。僕は十年近く経ってからようやく自分がなぜあそこまで必死だったのかを知った。いいや、本当は知っていたが自分を騙していた。知らないふりをしていた。
「君もなのか? ユヅハ」
「すこし違う。私は親に言われてやっていた」
天井にあるファンの立てる風音が鮮明に聞こえるほどにこの広い客間は静かだった。
「疑問すら抱かなかった。そうゆうものなんだと、ずっと思っていた」
「でもある日友達に言われた。親から関わるのをやめるようにと言われていた友達だった。彼女はこう言った。それじゃまるで親の奴隷じゃないかって」
ユヅハは自分の左手を見つめる。
「今までそんなことを考えもしなかった。そして私はようやく自分の心の中にあった違和感が何かを知った。やりたくないことをやらされているという違和感。その日から段々と違和感は強まっていった。ようやく自分に意思が芽生えたような気分だった」
何を思ったのかユヅハは制服のシャツを脱ぎ始めた。
「親と通話するときはきっちりと制服を着ていないと怒られる。でもそれも今日で終わり」
シャツのボタンは全て外され、彼女はスカートに手を伸ばす。僕はユヅハのしようとしている事を察し、目を逸した。
「自由って何だと思う?」
布の落ちる音。
「私にとっては勝手に監視されず、評価されないこと」
彼女はなぜ容赦なくマオを殺したのか。
「こっちを見て」
逸らしていた目をユヅハに戻すと彼女は質素な下着姿になっていた。ユヅハは椅子から降り、巨大な卓に沿って僕に歩み寄る。
「この話はもうやめよう。君も話したくないだろう」
僕の声は震えていた。僕は俯いて自分の膝を見つめる。
そしてついに彼女は僕の目の前に立った。肌色の塊が視界の隅に写る。
「頭を上げて」
彼女は両手で僕の顔を摑み、半ば強引に彼女自身の顔と向き合わせた。赤みがかった茶色い瞳が銃口のように僕に向けられる。ユヅハの瞳孔がゆっくりと開くのが観察できるほど僕たちは近かった。鏡が欲しい。僕はきっとひどい顔をしている。
彼女は僕の顔から手を放し、自分の身体を見せびらかすように立った。そして僕は見てしまった。彼女の白い肌に刻まれた無数の傷跡を。
「ぁ…」
彼女は僕に背を向けて下着を下ろす。肩から尻までびっしりと線状の傷跡があった。
「鞭でやられた」
僕が誰に、と尋ねる前に彼女は強調して答えた。
「親に」
「あぁ、そんな…」
「…ほとんど覚えてる。これは数学のテストの点数が悪かったとき、これはドイツ語の…」
彼女はひとつひとつ指で指して示した。
「ひどすぎるよ…」
体罰という概念があるのは知っていた。でもそんな非人道的な行為をする人間がいるだなんて信じられなかった。こうやって目の前に証拠が立っていなければ僕は一生その存在を信じなかっただろう。
「どこか…適切なところに相談するべきだよ」
僕には無難な助言しかできなかった。
「その勇気があれば良かった」
幼少期からの虐待だ。彼女は精神的に去勢されたのだ。子供の頃に覚えた掛け算を忘れられないように、彼女は親に逆らえないよう教育されたのだ。
「僕が手伝うよ。君が恐れていることは僕がやる」
「…その言葉だけでも、」
「だめだ、行動に移さなきゃ何も変わらないよ」
僕は叱るような口調にならないように気をつけながらも強く言った。
「…すこし考えさせて」
「手伝うのは僕じゃなくてもいい。でもこのまま放置するのだけはいけない」
ユヅハは裸のまま食卓の上に登り、膝を抱えて座った。
十分か、それとも一時間が経っただろうか。僕もユヅハも微動だにしなかった。
「…親に会いに行く」
彼女はそうひとこと呟いた。
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