@15 通話
五日後の夜十一時、何の気なしに僕は二階に降りた。ユヅハの部屋がある階だ。
眠れないときはこうやって家中を歩くと多少は頭が整理できるような気がしたのだ。今まで何回かユヅハの部屋の前を通ったときに話し声が聞こえた。きっと誰かと通話しているのだろうと気に留めないでいた。しかし今日はすこし様子が違う。聞こえたのは異音だった。何かがぶつかるり、割れる音。
「…るさい!…まれ!」
叫び声、ユヅハの声だ。かなり昂ぶっているようだった。僕は迷いながらもドアをノックする。
「ユヅハ、何かあったのか?」
僕がそう言った途端、音は止んだ。介入するべきか迷ったが僕は尋ねる。
「その、入っても?」
「…うん」
返答は遅かった。
入ってすぐ、僕はスリッパ越しに何かの破片を踏んだ。形状を見るに、食器皿のようなものだったらしかった。そして不思議なことにユヅハは制服を着ていた。床にある透明なタブレット端末は執拗に破壊されていた。食器皿を何回もぶつけて壊したのだろう。
「怪我はしていないか?」
床に座ったままのユヅハは首を横に振る。
「お気に入りの灰皿だったのに」
彼女は破片を見て言った。灰皿、煙草を入れる喫煙具だ。
「箒を持ってくるよ」
「いや、いい」
彼女は義手の方だけを使って破片を拾ってゴミ箱に入れた。
「壊しても無駄だってわかっているのに」
コンピュータがタブレット端末の電源は切られたものだと判断したのか、端末に表示されていたであろう画面がそのまま壁のスクリーンに映し出された。
[通話終了:42分56秒]
僕はその通話相手に注目した。二人のユーザ名と共に表示されているアイコン写真、それは確かに写真で見たユヅハの両親だった。
「親と通話していたのか?」
僕は振り返ってユヅハを見る。ユヅハは諦めたように頷く。親と通話した直後に端末を壊す、考えられる理由はそう多くない。
「親と喧嘩でも?」
「喧嘩って程度なら良かった」
僕は察した。彼女は両親と相当仲が悪い。彼女は机の上から小さい紙箱を取って中身を一本取り出した。煙草だ。しかしその手付きはおぼつかなかった。手が震えているのだ。そして彼女はついに煙草を床に落とした。僕はそれを拾い上げて彼女に渡そうとしたが、彼女はまたそれを取りこぼした。
彼女の顔にあった感情は恐怖と怒りだった。隠していたのだろうが、一旦震え始めた手は止まらず、義手はギシギシと音を立てた。
「だ、抱きしめて」
彼女の言う通りに僕は彼女を抱き締めた。震えは段々と収まり、呼吸も正常に戻った。ハグには精神を落ち着かせる効果があるという記事を見たことはあったが、僕は今の今まで半信半疑だった。
「まさか親が…怖いのかい?」
ユヅハは頷く。僕はどう言葉をかければいいのか全くわからなかった。そしてそんな自分が嫌になる。
「…気の利いたことを言えなくてごめん」
僕は謝る。
「大丈夫、傍にいてくれるだけで嬉しい」
しばらくして彼女は落ち着きを取り戻した。ハグを終えてからもユヅハは代わりのように古びた大きなぬいぐるみを抱いていた。
「自分が情けなくなる」
ユヅハが言う。震えのなくなった手で彼女は煙草を吸っていた。
「嫌なことがあると煙草を吸うんだな」
「…そう、最初は好きで吸ってたけれど、今は吸わないと落ち着かない」
なぜ煙草が日本で違法になったのか。理由はその依存性だ。ニコチンは脳に強烈な影響を及ぼし、その摂取者を依存症にさせる。一時期は大麻草なんかと区別されていたのが不思議なくらいだ。
「いつか吸わなくても落ち着いて生活できるような日が来ると良いな」
彼女は一瞬ハッとしたような顔をしたがまたすぐに暗い顔に戻った。
「きっと無理。いつまでも来ない」
足元を何かが掠める。よく見るとそれはマオだった。マオはひょいひょいと棚の上に登り、床に座る僕らを見下ろした。僕たちはもう一回だけ抱き合ってそれぞれの部屋へ戻った。
夜が更け、日が昇る。
早朝、朝靄のなかを僕は歩く。涼しい空気が僕の頬を撫でる。僕は草原を歩いていた。霧が立ち込めていて見通しが悪い。軽い散歩のつもりだったが僕は思った以上に長時間歩いていた。
「経馬は今の僕のような気持ちだったのかも。心配だったんだ」
「でもお兄ちゃんはそれを拒絶した」
真っ白な雪は霧のなかに今にも消え込んでしまいそうだ。
「もう君のせいだなんて言わない。僕と経馬の間に壁があったのは事実だ」
単に独りにならないために。単に暇にならないように。そう理由をつけて僕は彼に”付き合ってあげて”いた。
「経馬は僕が彼に完全には心を開いていなかったという事にとうに気づいてたんだ」
「でも経馬はそれでも、僕を心配してくれた」
僕はもうすこし言葉を選ぶか、もしくは他の方法で彼を説得するなりの手段があったはずだった。僕はそれを探す努力をしなかったことでいま自分を恨んだ。
そして僕はいまユヅハを心配している。彼女が何に悩んでいるのか知りたい、そして助けになりたいのだ。…自分が当事者にならなければ他者の気持ちが理解できないなんて。
「お兄ちゃんはユヅハお姉ちゃんの良い友達になれるかな」
幽霊が言う。僕は草木の間に張った蜘蛛の巣を眺める。水滴が精巧な硝子細工のように瞬く。
「僕は彼女が許すならばいつまでも友達として傍にいるつもりだ。それが彼女の救いになるならば」
経馬との間に起こったような過ちはもうしない。
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