@10 夏休み

 巨大なバスの扉が閉まると、座席の遥か下から重低音の唸りが聞こえた。その音は前後の、そのさらに前後のバスからも鳴り響き、二十台ほどのバスは一斉に動き出した。

 僕はこの光景がなかなか好きだ。全ての車輌は相互に接続しており、自動運転システムは完全に同期されている。緻密なルート計算はピアニストの指のように潤滑に働き、俯瞰して見ると二十台のバスはまるで一つの生物のように動く。千人の生徒を安全に運ぶためには不可欠な仕組みだ。

向かう駅によって乗り込むバスは違う。今は二十台ほどだが、僕たちの降りる駅に着く頃には数台になっているはずだ。そこで解散して各々が我が家に帰るのだ。しかし僕は自宅には帰らない。

 それはユヅハからの提案だった。夏休みの間彼女の家に泊まらせてもらう、僕としては大いに助かるのだが驚くべき提案だった。親が家にいないとはいえ数回会っただけの人間を一ヶ月も家に居候させようなどと思うだろうか。

 理由らしい理由といえばそばにいてくれる人が欲しかったのだろう。実際彼女は寂しさを感じると言っていた。彼女がそれを求めるならできる限り応えようとも思った。彼女にとっても、僕にとっても今やお互いに唯一の友人だからだ。

 バスに乗り込む直前、一瞬だけ経馬を見かけた。彼は全く変わっていなかった。数人の男女ととびっきりの笑顔で談笑していた。ただの微笑みではない笑顔、僕にあんな笑顔を見せたことは何回あっただろう。きっと僕に関する記憶なんてもう彼の頭の片隅にすらありはしないのだ。大きな変化を感じたのはきっと僕だけだ。僕は彼に気づかれまいと歩き去った。

 窓の外を見る。木々が並ぶだけの退屈な光景だったが、今の僕はなぜかそれらから目を離せない。廃教会に行ったときもこんな光景だった。たった二週間前の出来事だ。

「飲む?」

 ユヅハは飲みかけのスポーツドリンクを差し出した。僕は受け取って口内を湿らす程度に口に含んだ。

「一旦家に帰らなくて本当に良かった?」

「ああ、わざわざ取りに帰る荷物もない」

 着替えも日用品も必要なものはすべて鞄に入っている。身軽なものだ。親への最低限の連絡はしている。テキストチャットで数行、夏休みの間は帰らないと。数通のやり取りで母親は了承した。

 バスから降りた僕たちは荷室から重たいボストンバッグを取り出し肩に掛けた。ユヅハは直接駅には向かわなかった。彼女は眼鏡をかけ、道路の方へと歩みだした。

「駅の入り口はこっちだぞ」

 僕の呼びかけを無視してユヅハが道端に立つと一台の車が彼女の前で止まった。それはタクシーだった。あらかじめ呼んでいたのだろう。オンラインでのタクシー予約は数操作で済む。

「ユヅハの家ってそんなに近いのかい?」

 タクシーに乗り込むとドアが勝手に閉まり車は動き出した。運転手がいない代わりに車内は広々としていた。

「電車が面倒なだけ」

 彼女にとっては時刻表を見たり乗り換えをしたりするよりもタクシーを呼んでしまう方が手っ取り早いということなのだろう。

「…時間がかかるなら寝てもいいかな、少し疲れた」

 僕は目頭を揉んだ。重い荷物を運んだことで僕は消耗しているようだった。

「ご自由に」

 寝ようかと座席を倒しながら僕はユヅハがヘッドフォンをつけるのを見た。彼女が多機能端末をいじると、僕にまで聞こえるほどの音量で音楽が流れ始めた。

「耳が悪くなりそう」

 幽霊の声。奴は僕の隣に座っていた。

「幽霊、いたのか。やけに静かだったから忘れていたよ」

 実際彼はバスでの移動の間、ほとんど顔を出さなかった。いつもなら騒がしいのに今日は静かだった。

「せっかくのデートを邪魔したら悪いかなって」

 今日の彼の顔はすこし緩んでるように見えた。ほとんどこいつは笑顔だが、今までのそれは嘲笑に近かった。しかし今日は何というか、本当に楽しそうだった。

「何だか嬉しそうだな」

「そう? えへへ。お兄ちゃんも今日はちょっとだけ嬉しそう」

 僕は自分の口角が無意識に上がっているのに気づいた。

 座り心地の良い座席に僕は眠気を誘われ、宣言通り二時間近く僕は眠ってしまった。ユヅハに起こされた僕が窓の外を見ると現代的な建物が目に入った。赤みがかった三角形のガラスが複雑に絡み合った造形だ。眩しい外壁には透明感があったが、建物の中までは見通せなかった。この立派な建物はちょっとした美術館のようにすら見えた。

「ここは?」

 僕はあくびをかきながらユヅハに尋ねた。彼女はヘッドフォンを外して答えた。

「私の家」

 タクシーはゆっくりと入り口の前に停まり、ドアが自動で開いた。僕は重いボストンバッグを雑に地面に投げ捨てる。逃げるように去りゆく無人タクシーから家に視線を移し、僕は尋ねた。

「これ、全てが?」

「ようこそ我が家へ」

 彼女は小さく腕を広げた。僕は巨大過ぎる邸宅に多少怖気づきながらも、広い庭を通って家の門をくぐった。出迎えてくれたのは灰色の猫だった。猫は僕たち二人をしばらく見つめ、頸をかしげて部屋の奥へと消えていった。

「可愛い猫だ、餌とかはどうしてるんだい?」

「ただのロボット、誕生日プレゼントでもらった」

「広告で見たことがある。エサ代や病気の心配もないから人気なんだってな」

「君は反対?」

 廊下を歩きながらユヅハは尋ねる。客間に着いた僕たちは荷物を下ろす。長い食卓の上に先ほどの猫が座っていた。

「人工ペットについて?」

 彼女は頷く。

「まさか。人の癒やしになるなら反対する理由なんてない」

「非人間的だとは思わない?」

 彼女の目は僕を見極めようとする目に見えた。薄っぺらい答えなんて要らないとでも言いたげな。

「…僕はむしろ人間的だと思う。人間は何だって器械で代替してきた。愛玩動物がその例外になるとは思わない」

「じゃあ人間は?」

 ユヅハはついでに飲み物は何がいいかと聞いた。

「ありがとう、何でもいいよ。人間はとっくのとうにその段階に足を踏み入れているよ。古くからは義肢や義眼。今はそれに加えて次の段階に入っている。機能向上のための医療技術だ」

「脳にチップを埋め込んだり?」

 ユヅハはテーブルに冷えたお茶を置いた。僕は感謝してそれを一口飲んだ。

「それもその一つだろう、目的は認知能力や記憶能力の向上だ。元々は軍用の技術だがようやく民間にも解放されつつある」

 僕は学校の図書館で得た知識を語った。

「人間の遺伝子編集については?」

「植物に対してなら百年も前からやっていることだ。人間にも使おうとなるのは当然だろう、むしろ遅すぎたくらいだ」

 彼女は僕の答えを噛みしめるようにしばらく黙った。僕は彼女が違う思想を持っていることを危惧した。しかし幸い彼女なら議論の余地はあるだろう。僕がはっきりとした自分の立ち位置を表明したのも彼女への信頼からだ。

「ユヅハはどうなんだい」

「ずっと悩んでた」

 倫理的に敏感な技術の是非については現代人には必然の悩みだろう。我々には選択の権利がある、そしてそれは選択の責任があるということでもある。どの技術の産品を選ぶか、どの技術の産品を選ばないか、我々は日々判断しなくてはならない。

「君に私の秘密を教える」

「…僕になんか話しても良いのか?」

「私は、遺伝子編集を受けた」

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