『純愛の逃飛行』②
※ここからは、いわゆる「性犯罪/性的暴行を受ける様子とその苦痛」を「匂わせる」描写があります。
直接的表現ではなくとも、苦手な方・嫌悪感のある方は、ずっと下を勢いよくスクロールした先にある「★★★星印の文章」から話の流れは読めます。
お手数をおかけしますが、何卒ご理解をよろしくお願いいたします。
怖い、こわい、コワいコワいコワいコワいコワいコワいコワいコワい――!
最初にブラウスの前をカッターで破かれ、裂けた皮膚から薄らと血は溢れた。
むず痒い痛み、田辺の脅しに、自分は降伏するしかなかった。
もし抵抗を続けていれば、自分はさらに酷薄な暴力を振るわれ、最悪・・・・・・殺されていたのかもしれない。
そう思わせるほどに、舐め回すような男達の眼差しは、
布の裂け目から露わになった女の象徴に、興奮した獣さながら湿った笑い声に、惨めさと恥辱で瞳を閉じた。
男二人が布をまくり、引き摺り下ろしていく間に、田辺は他の男達に指示を仰ぐ。
男達の間で順番と役割が決まると、抑えていた邪欲を一気に爆火させた手は一斉に群がって来た。
「あの人達にたくさん触られたの・・・・・・彼氏にしか、触れられたことのない、場所も・・・・・・」
気持ち悪い、きもちわるい、キモチワルイ、キモチワルいキモチワルいキモチワルいキモチワルい――!!
控えめな女の弾力と柔らかさを弄ぶ、不快な手と舌。
秘園を弄る無遠慮な指。
女としての柔らかさを堪能する無遠慮な感触、下卑た嗤い声は、自分を女という名の獣へ貶めていた。
「だから・・・・・・最初はすごく嫌で、気持ち悪くて、痛くて、仕方なかったの・・・・・・心の底から・・・・・・」
イヤ・・・・・・イヤだ、イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ――!!!
女の入り口から内奥を乱暴に行き来する、邪欲の化身を、代わる代わる挿入された。
自分を囲って観賞していた男達も、おもむろに醜悪な欲望を剥き出しにしてきた。
順番を待ちきれずに手持ち無沙汰になった者、女の弾力を弄ぶのに飽きた者は、己の欲望を女の肉や太腿に擦り付け始めた。
一人は口を塞いでいた布を外すと、欲望を口元へ押し付けて来た。
見るのも穢らわしい塊に顔を背けようとすると、男は髪を掴んで無理やり引き寄せた。
口腔へ突っ込まれた欲望は容赦なく往復し、段々と熱く膨張していった。
耐えがたい苦味と生臭さに満たされ、吐き気と嫌悪感、顎の痛みに涙が溢れた。
喉の入り口付近まで犯す塊を吐くことすらできず、呼吸困難と顎部裂傷で命が危ないのでは、と肝を冷やした。
「本当に嫌でたまらなかった・・・・・・きっと、他の女の子もそう感じるよね。私も最初はそうだった・・・・・・でも・・・・・・私は違ったみたいなの」
最初は暴虐的な動きで蹂躙される苦痛に悶えていた女の内奥は、徐々に熱で疼き始めた。
花束内奥から泉のように湧き溢れた粘液によって、滑りが良くなった内奥に、肉塊は動きを早めていった。
最奥まで押し潰しかねない乱暴な突き方に女の唇からは、既に苦痛の音色は途絶えていた。
むしろ痛快な熱感を求めるように、内奥は激しく
動きに比例して高まる収縮と粘着質な音色に、男達の高揚と嘲笑は白熱化していく。
*
「途中から私の中は・・・・・・ううん、私は無意識の内に欲しがるようになっていたの・・・・・・もっと気持ちいい・・・・・・心は嫌でやめて欲しくてたまらないのに、体はもっと欲しい、やめないでほしいって思っていた」
激しい拒否感を表すために振っていた首と腰は、無意識に快感に耐える動きへ変わっていた。
肉塊を食えさせられたままの口の隙間から、漏れていた苦悶の呻きにも、恍惚とした色が混ざっていた。
「気持ち悪いはずなのに気持ちよくて、苦しいのに熱くて・・・・・・感じたくないのに感じていて・・・・・・自分の体じゃないみたいだった・・・・・・ただ遊ばれる玩具人形の中に入っているように、嘘みたいな感覚だった」
耐えがい肉体的・精神的苦痛から、脳はそう錯覚させたのか。
もしくは、あらゆる生命に宿った繁殖本能、それを呼び覚ます快楽物質が脳に放出されたのか。
快を求め、不快を避けたがる脳の原初的機能へ堕ちていくにつれて、人は自分たらしめる理性と人間性を剥がされていくのは、何故だろうか。
「一人目がそろそろ満足する頃には・・・・・・否が応でも私も絶頂に達してしまったの・・・・・・。正直に打ち明けるとね・・・・・・今まで一番、彼氏に抱かれる時よりも凄まじかった・・・・・・あんなの初めてで、愕然とした」
自分の意思に反して快楽を引き摺り出された女の内奥は、今までにない収縮を繰り返しながら果てた。
恋人との優しい交わりでは体験したことのなかったオルガズムへと、初めて至ったのだ。
暴力は、理性と道徳という名の無意識の扉を叩き割ってしまった。
★★★
「本当に何なのかしらね。高校時代から大学で学部が別れても好きだった彼氏よりも・・・・・・花を扱うように優しく抱きしめてくれた恋人よりも・・・・・・あんな、卑劣で薄汚くて、好きでもない男達からあんな乱暴にモノのように犯された時のほうが、喜んでいたなんてね・・・・・・ふっ、ふふふ・・・・・・あはははは・・・・・・っ・・・・・・つまり本当に穢らわしいのは、私の方だったわけ・・・・・・っ」
美天は、心底可笑しそうに笑みをクスクスと零す。
自嘲に満ちた声は、どこか泣いているようにも聞こえた。
終始沈黙を守っていた晴斗の瞳に、初めて波紋が浮かんだ。
何が言いたげな晴斗だったが、美天の気の済むまで待ち続けた。
「あの出来事の後・・・・・・朝方に一人で帰った私は、そのまま二度と大学には戻らなかった」
一刻も早く忘れてしまいたかった。
とにかく、消えてしまいたかった。
自分を知る人間のいない遠くへ、逃げ出したかった。
携帯端末は、叩き割ってから川へ投げ捨てた。
あらゆる繋がりを全て、断ち切りたくて。
携帯端末やネット、テレビを開けば、誰かが自分を嗤い貶めようと襲ってくるのではないか、と怖くて。
突然実家に帰ってきた娘は、口を閉ざしたまま自室へ引きこもった。
外界の干渉を一切拒否する異様な状態に、両親も閉口するしかなかった。
とりあえず、両親は休学で済ませようとしたが、間もなく中退を選ばざるを得なくなった。
美天の恋人が実家を訪ねてきたのを、きっかけに。
「彼氏はね、家に来る前から全て知ってしまったみたいなの・・・・・・律儀で優しい人だったから、きっとある意味私よりもショックだったのかも」
一応美天は、夏季試験最終日の夜にあった忌まわしき出来事を、恋人へ一通り説明した。
喉から声を絞り出すように、心臓を鉄線で締め付けられるような思いで打ち明けた美天に、最初は恋人も同情を示した。しかし。
「話した後に訊かれたの。最初は嫌がる素振りを見せていたけど最後は楽しんでいたのは、ただの噂だよね? 嘘なら正直に話して欲しいって・・・・・・でも、馬鹿正直だよね私ってば・・・・・・そうだよ、そんなの嘘だよ、私は最後まで抵抗して嫌がったし、本当に嫌だったって・・・・・・嘘でも言い切れなかった・・・・・・後ろめたくて・・・・・・本当の私を見た田辺達が怖くて・・・・・・っ」
互いの気持ちを思えば、許される嘘だったかもしれない。
しかし、いやらしく穢らわしい己を暴いた田辺達に弱みを握られ、そんな自分に恥と罪悪の後ろめたさを覚えていた。
美天は恋人を騙すような真似は、出来なかった。
罰が悪そうに俯いた美天に「マジかよ」、と軽蔑と失望を隠せない恋人の呟きを聞き逃さなかった。
「帰り際に言われた・・・・・・自分にはもう手に負えない。正直、信じられない・・・・・・悪いけど、別れて欲しいって・・・・・・汚らわしいって・・・・・・黙って頷くしかなかったよ・・・・・・私には引き止める権利はなかった。はっきり言われなくても分かった。私だって思ったもん。好きでもない男達に犯されても感じた女なんて、抱きしめたくないって、穢らわしいって・・・・・・」
恋人にとっては自分の彼女が他の男、それも複数人に強制性交されたと聞くだけでも、辛く重い事実だ。
そのうえ彼女が無理矢理犯されながらも、初めてのオルガズムに達してしまったことを聞かされた。
事実に対するショックや否認、非力だった美天への不合理な怒りや失望、軽蔑、憐憫などの感情は絡み合い、混乱と動揺を招いた。
さすがに、恋人は美天を受けとめることに耐えられず、別れを切り出した。
「あれから、私は独りになった・・・・・・お母さんとお父さんは優しいから、私を責めたりしなかった。だから、尚更言えなかった・・・・・・っ」
後に引き篭もるようになった娘が大学で何があったのか、薄々気付いた両親は、大学と心療内科、必要ならば警察に行くことも勧めてくれた。
しかし、美天はいずれも全て拒否した。
田辺達がいる大学には、二度と足を運びたくなかった。
実は大学に在籍する心理カウンセラーに相談をしに行ったことあるが、そこで現実を叩きつけられた。
カウンセラーは、美天の話に最初は憐みの共感を示してくれた。
しかし途中、「でも、嫌だって抵抗したし、痛くて苦しかった。その・・・・・・感じたりはしなかったのでしょう?」、と戸惑いがちに問われた美天は沈黙するしかなかった。
本人が最初から望んでいなかった行為を強制されても、濡れてしまったら――感じてしまったら、それはもう合意なのか――?
『強制性交』という、暴力には該当しないのか。
心理カウンセラーにすら暗に軽蔑されてしまうのだから、心療内科に行った所で解決できるとは思えなかった。
警察では尚更、あの出来事の詳細を鮮明に、容赦なく抉っては狂言や逆恨みの線はないかと掘り下げ、心ない言葉を浴びせられると思った。
それにあの出来事のことも、自分の穢らわしい一面も、時間逃避によって忘れ去りたかった。
あれから数年間、安全な殻の中へ籠もっていた自分は、通信教育で勉強し直した。
実習と国家試験に合格した自分は、精神保健福祉士として病院に就職し、一年後に晴斗と出逢った――。
「これが朝比奈美天の全て・・・・・・本当の姿なの・・・・・・失望、したでしょ?」
薄氷さながら、冷たく落ち着いた眼差しで微笑む美天。
全ての告白が終わったと察した晴斗は、ようやく口を開いた。
「どうして、僕に打ち明けようと思ったの?」
晴斗の瞳も、透明に静まり返っていた。
予想していたはずの戸惑いや憐憫、失望すら読めない。
ただ優しい色に揺らめく眼差しに、美天は不安とも安心ともつかない感情に襲われた。
「何も訊かないでいてくれたのは、晴斗だけだったから」
「僕はただ、美天の過去を知っても知らないままでも、どっちでも構わなかった。美天は美天だし。美天も僕を好きでいてくれる限り、一緒にいたいよ」
昔の恋人や両親が見せた悲壮な表情すらない晴斗だが、無理解や無関心によるものではないと感じた。
それとも、晴斗は美天の予想を超えて、余程天然な心の持ち主だったのか。
晴斗の真意に内心首を傾げながらも、美天は質問に答えることにした。
「全てを受け入れてくれた晴斗の言葉は嬉しくて・・・・・・生きていてよかった・・・・・・そんな気持ち、あの出来事の後、二度と来ないと思っていたから。そんな気持ちを教えてくれた晴斗だからこそ、私は打ち明けたかったの。ごめんね・・・・・・聞きたくもないことまで話して」
「僕は気にしていないよ。あ、どうでもいいって意味とは違うけど」
申し訳なさそうな美天の答えと謝罪に、晴斗は柔和に返した。
本当に晴斗は、純粋に美天そのものを受け入れているようだ。
晴斗の寛容さは、親の慈愛と子どもの自由なおおらかさをかけ合わせたように、不思議な安らぎをくれるのだ。
「今だってそんな風に・・・・・・晴斗は気にしないって言ってくれたけど、私がそうしたかったの」
身勝手な自己満足に過ぎないかもしれない。
昔の恋人との二の舞いになる愚行だったかもしれない。
それでも、美天は過去と決着を着けたかった。
相手に捨てられる前に自分から嫌われることで、恐怖と辛さを緩和するための自虐的な自己防衛のためでもない。
「晴斗に何も明かさないままの罪悪感も後ろめたさも、全部捨て去って・・・・・・それで初めて晴斗と向き合いたかったの。私も・・・・・・晴斗を好きだから・・・・・・もう、自分の気持ちに嘘を吐きたくない・・・・・・っ」
先程から凍り閉ざしていた声に、初めて亀裂が走る。
以前、晴斗が告白した際に言っていたのと同じ台詞で、美天は想いを吐露した。
間も無く、直ぐ隣の寝台から美天を見つめていた晴斗から、溜息が漏れた。
「馬鹿だなあ、美天は・・・・・・」
晴斗らしからぬ辛辣な言葉が柔らかく零れたと同時に、美天は力強いぬくもりに包まれた。
「僕が美天を好きであることに変わりないのに」
気付けば、晴斗は同じ布団に入って、美天を抱きしめていた。
久しく間近で感じていなかった晴斗の優しい匂いと温かさに、美天の体が強張ったのは、一瞬の束の間。
美天は顔を晴斗の広い胸に埋めて、そのまま身を委ねた。
晴斗の行為から、彼の気持ちに美天は既に薄々と気付いていた。
それでも、確認するように問いかける。
言葉で聞きたいとばかりに。
「こんな、私でいいの・・・・・・? 本当に」
「美天が明かした過去も、美天のほんの一面に過ぎない。僕にだって美天にしか言えないこと、美天に嫌われたくないから言い辛いことはある」
「そうなの・・・・・・?」
「だから、僕こそ美天に愛想尽かされないか心配なくらい。例えば・・・・・・昔、中学の時に電車で痴漢された。それも大人の男に」
「え・・・・・・」
「他には・・・・・・小学校の同級生の告白を断ったら、翌日から暫くクラスの女の子全員に無視されたこともあった。後はその・・・・・・部屋で一人していた時、母が入って来て・・・・・・布団は被っていたから誤魔化せたけど・・・・・・」
「は、晴斗! 無理して言わなくてもいいよっ」
唐突な告白を始めた晴斗に、美天が絶句したのも束の間。
晴斗が、自分のために過去の言いづらい体験を暴露したと思った美天は、いたたまれなくなった。
晴斗は、悪戯っぽい苦笑を零していたが。
「あはは、ごめんね突然。さすがに引いたよね。軽蔑、した?」
「そんなこと絶対ない! 私が晴斗を軽蔑することなんてっ」
不安気な子どもみたいな表情で苦笑する晴斗の言葉を、慌てて否定する美天。
口を突いて零れた本心、自分らしからぬ強い口調に、我に返った美天は頬を赤らめた。
「ありがとう、美天」
どこか無邪気な声で、晴斗は嬉しそうに笑みを零す。
頭上から舞い降りた晴斗の柔らかな声に、耳朶はくすぐったくなった。
今まで抱いたことのない気持ちの強さを、美天は改めて自覚した。
自分は湧き上がる甘い恥じらい、微笑ましそうな視線に耐えかねた美天は、おずおずと言い訳しだす。
既に手遅れだったかもしれない。
ここまで自分は、晴斗のことを――。
「は、晴斗は・・・・・・今まで会った他の男性とは違うから。いつも私の気持ちを尊重してくれる・・・・・・あなたみたいに真っ直ぐで優しい人は初めて・・・・・・私を知っても変わらなかったのも、あなただけだった・・・・・・っ」
晴斗という人間に、すっかり依存してしまっている。
晴斗の優しさに甘えてばかりではいけない、と分かっているのに。
晴斗が初めてだったから、晴斗だけだったから。
もう一度、誰かに恋をする心を思い出せたのも。
否・・・・・・きっと今、初めて人を――。
「僕だって・・・・・・君のように無欲で純朴で・・・・・・臆病なくらい優しくて・・・・・・こんな変わり者の僕自身を好きになってくれた女性は、初めてだよ」
「そう、なの・・・・・・?」
「ああ。少なくとも、僕を好きだと言ってきた女性は大抵、僕の見た目や肩書き、優しさという愛情と愛される自分という自尊心を求めてきた。誰もが、己の罪と穢れを棚上げにして、相手の罪と穢ればかりを罵る人達しか知らなかった」
晴斗がここまで自身の心情を言葉にしたのも、生きてきた中で辿ったと思しき「痛み」の片鱗を明かしてくれたのも、初めだった気がする。
特に最後の台詞は、美天の罪の意識と葛藤と重なるような響きがあった。
昔、晴斗も何かしら自分を責め、他者に責められるような過去と苦しみに遭ったのだろうか。
「けれど、君は違う・・・・・・。君は己の罪と穢れの部分と向き合い、故に苦悩している。そんな君だからこそ、相手の痛みや苦悩に目を向けられる。決して相手を軽蔑し忌むことはしない優しさがある。そんな君に僕は人として、異性としても強く惹かれたんだよ」
今まで美天は密かに不安でたまらなかった。
過去の秘密と傷、罪悪感のことを差し引いても、自分のように大した取り柄のない人間を、何故晴斗は好きになってくれたのか。
晴斗に大事にされる価値は、果たして自分にあるのか。
それに見合う愛情と優しさを、どれほど晴斗に返せているのか。
けれど、やっと救われた気がした。
「小さなものだけど、僕の体験と秘密からも分かる通り・・・・・・人間は綺麗なばかりだけじゃない。むしろ、醜い部分のほうが多い。美天が恥じているものだって、実は誰にだってあることなんだよ」
「そうなの、かな・・・・・・私だけがおかしいわけじゃないの・・・・・・?」
「おかしくなんかないさ。美天は穢れてなんかいない。そうだったとしても・・・・・・僕は君を愛している――」
心が晴れていくようだった。
晴斗の澄んだ瞳、柔らかな微笑み、抱きしめる腕の力、頭を撫でる手の優しさ、甘い声。
全ては、春日向のように温かな愛情に満ちていた。
「だから・・・・・・美天一人が罪に責められる必要はない。ただ、僕の隣で笑っていてくれたらいい」
「っ・・・・・・晴、斗・・・・・・っ!」
耳朶を慈しむ声で囁かれた美天は、晴斗を抱きしめ返す両手に力を籠めて――泣いた。
「っ――ぁ――あぁ――っ、ぅ――ああああああぁぁ――!! 晴斗――晴斗――っ!」
あの時から凍り閉ざしたままだった美天の心と時間は、ようやく動き出した。
小さな子どものように声をあげて泣く美天を、晴斗は抱きしめて離さなかった。
寒くて孤独な冬の心を閉ざしていた薄氷は溶け、晴れやかな春日向へ、生まれ変わっていくようだった――。
*
「ねぇ、晴斗・・・・・・」
「何? 美天・・・・・・」
美天が晴斗の名前を呼べば、晴斗も美天の名前を呼んで応える。
美天に囁く声、美天を抱擁する腕は愛しさに震えていた。
ドイツ時間:十二月二十三日・午前十一時――。
ミュンヘンのクリスマスマーケットを巡りに来た二人は、ドイツの世界遺産である、ケルン大聖堂を訪れていた。
天高くそびえる大聖堂は、
壮麗な柱と木製椅子に挟まれた細い道を歩いた二人は、祭壇の前で向き合う。
聖堂内には、他の観光客もまばらにいたが、厳かな静寂と聖なる眼差しだけが、二人を見守ってくれた。
「晴斗・・・・・・私と一緒に逃げてくれる? どこまでも」
美天は、晴斗を真っ直ぐ見上げた。
「ああ、約束しただろう。君と一緒なら何処だって幸せさ」
変わらない微笑みを咲かせる晴斗に、美天も微笑み返した。
「ありがとう、晴斗」
最近、「ありがとう」ばかり言っている気がする。
晴斗の口癖が自分にも伝染ったのかもしれないと思うと、なんだかおかしかった。
美天は鞄から、一枚の紙を取り出した。
晴斗が贈ってくれた旅行券の書類に混じっていた、「もう一枚の紙」だ。
晴斗の瞳は軽く目を見開いてから、嬉しそうに煌めいていた。
「ありがとう、美天」
晴斗は美天が差し出した一枚の紙――「婚姻届」を受け取った。
小鳥遊・晴斗の隣に朝比奈・美天、互いの名前は並び記されていた。
「僕と結婚してくれますか――」
婚姻届を持つ晴斗の両手に美天は自分の両手を重ねた。
「はい。喜んで――」
大聖堂のグラスから、神聖な光の雪は舞い降る。
神聖な眼差しは、互いに微笑む二人を慈悲深く見つめていた。
***続く***
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