第四章『明けぬ夜の煌めき』①
朝比奈・美天はどうしようもなく無礼な女だった。
あれほど神経を逆撫でした女は、今まで他に類を見ないと断言できる。
女としての取り柄は、小さいがそこそこ整った顔立ちと、精々感度と具合の良さだ。
田辺・孝雄は、わりと順風満帆な人生を謳歌しているつもりだった。
父親は某人気食品メーカーの大企業に勤める会社員であり、上層と中層の間くらい裕福だった。
新築の一軒家に良質ブランドの衣服や食べ物で育ち、教育に関しても希望する塾と大学に行かしてもらえた。
最近になって、父親は「仕送り」を渋り始めたが、大学時代から住んでいるマンション家賃と学費も出してくれた。
英語講師のパートと主婦を兼任する母親は、まともな家庭料理を用意し、夜遅くに帰宅する父親を穏やかに迎えていた。
孝雄が中学の頃に薄々と気付いたが、父親は夜の街に愛人を作っており、母親は素知らぬふりを貫いていた。
子どもながらに疑問を抱いたこともあったが、大人になった今ならそれが正解なのだと分かる。
愛人がいて多少帰りが遅くても、父親はわりと息子の孝雄にも母親にも、気前がよかった。
母親も声を荒げて父親と喧嘩したのは、数えるほどしかない。
「何事も適当にやり過ごす。多少のことには目を瞑ること。それが、人生と人間関係を円滑に回す秘訣だ」
おかげで孝雄の周りには、常に人と笑いも絶えず集まった。
幸い、勉強も容姿の出来もノリも良い方だった孝雄は、女にわりとモテた。
好みだったり脈があると感じた女に告れば、断わる者は一人もいなかった・・・・・・ただ一人を除いて。
朝比奈は孝雄と同じ英語の必修講義を受け、同じ英語サークルに所属する同級生だった。
サークルの同級生の中では、地味で大人しい女子と先輩のグループと一緒にいた。
自己紹介では、福祉学部でソーシャルワーカーを目指していると聞いた。
今時珍しく、染めたことのない長い黒髪にあどけなく澄んだ眼差しをした純朴な女、という印象だった。
今までにないタイプだったし、遠くから観察するとわりと均衡の整った小さな顔立ちだった。
講義中は、眠気を感じさせない凛とした姿も悪くなかった。
時折、同じグループの女子に混じってこちらを窺う朝比奈の視線は、感じた。
こちらから声をかければ、朗らかな笑顔で応じた。
時折、資料や筆記用具を忘れた孝雄が頼めば、親切に貸してくれたし、隣に座っても嫌がる素振りは見せなかった。
だから今まで通り、押せばイケる! と読んでいた。
『私には付き合っている人がいるので本当にごめんなさい』
はあ? おい何なんだよそれ。
人に思わせぶりな態度を取っておいて、人の告白を断るのか。
しかも気があると勘違いさせられた男の口付けを、平手打ちで拒否した挙句、顔も見ずに走り去るとか。
しかも、男付きなのかよ。
純朴で大人しそうな雰囲気から、男と女の気配を匂わせなかったクセに。
朝比奈とよく一緒にいた女子グループの内、パンダみたいにゴツくて太った女に訊いてみた。
朝比奈には、高校時代から交際している経済学部の同級生がいると分かった。
後にその女子に告白されたけど、もう論外だったから即振ってやった。
ふざけるなよ。
無性に苛立ちの治らなかった
あの女は、どれだけ思わせぶりのクソ尻軽女なのか。
自分は彼女の態度に弄ばれた挙句、引っ叩かれて恥をかかされたのか。
どうせ、あの女はウィスパーやってないし、自分の好き放題書いた。
すると、ウィスパーの投稿を読んだ不特定多数の閲覧者の他、名前は伏せていたが、その女が朝比奈だと気付いた友達も、孝雄に同調してくれた。
『ほんとサイテーで、うざいビッチですね!』
『世の中、自分がモテると思い込んであざとい手口を使ってくる女、いるww まじうざいwww』
『タイガーフィールドさんが、勘違いするのは当然ですよ。たぶらかされた相手を殴るなんて、あなたは完全に被害者です。あなたは何も悪くない。私が訴えたいくらいです!』
『そんなクソビッチ、天罰くだればいい。ってか、ヤッてしまいましょう!笑』
『どうせ裏で遊んでいるから、ちょっと痛い目みさせたほうが良い薬になるぜ』
『マジでヤッちまおう!!』
『さーせん』
孝雄のウィスパーは、朝比奈の愚痴大会から「処刑話」へと
数多のユーザーとダチの
復讐は孝雄の同じ大学とサークル内で親しい友達や先輩、高校時代から子分をやっている太山・庵土竜の協力の下、実行した。
手始めに、毎年恒例にある夏季試験後のサークルの打ち合げ会の連絡を、サークルメンバー全員に送信した。
しかし最終試験の前日に、先輩が朝比奈のライクにだけ、「嘘の打ち上げ会」の日時と場所の変更を伝えた。
案の定、疑いもせずにノコノコ付いて来た朝比奈を、サークルの準備室へ引き摺り込むことに成功した。
「もしもし。羽野か? 随分早かったな」
夕方にバイトを終えた孝雄は、王百合駅から川沿いの住宅地に佇むマンション・グロリオサにいた。
『ああ・・・・・・うん。楽しみだったからつい・・・・・・田辺君は、仕事帰り?』
「ああ・・・・・・まあな。今日はロッカーに私服入れていたから問題ねーよ」
田辺が友達と会う時は、今もスーツ姿だからだろう。
卒業後は、父親の会社の傘下にある冷凍食品メーカーの会社に就職した。
しかし、結局上司と教育係とは馬が合わず、田辺からすれば口うるさい彼らの態度や残業の多い職場に嫌気が差した。
上司の
退職後は貯蓄や親の仕送り、友達や彼女、先輩のおごりや借りで金を無心にしていた。
今はフリーターをやっているが、会社をやめたことを未だ周りや親にバレたくなかった田辺は、スーツを着て通勤し、バイト先のロッカーに隠す。
そろそろ金がすり減り始めた田辺を周りも疎んじ、先輩からは借金返済の催促も来た。
親からも仕送りを渋られて、ついに困り始めた矢先のことだった。
「ふーん。マジでタイプなのかよ。ま、いいけど・・・・・・金はある?」
あの宴で嬲りものにしてやった朝比奈は、後に大学を中退し、ライクからもアカウントが消え、連絡と接点は途絶えた。
復讐は見事に成功したことで満足して以来、孝雄は朝比奈の存在を暫く忘れていた。
しかし十二月初めに、青百合市の友達から金を借りて帰る電車の中で、朝比奈を見つけた。
同時にあの時に撮影した写真と動画を保存したフォルダは、未だ携帯電話とパソコンに残っていることを思い出した。
案の定、再会した朝比奈は、可笑しいくらい血相を変えて怯えていた。
あの時の映像データをチラつかせて金を要求すると、朝比奈は容易く取引に応じた。
ただ、いかんせん病院勤めのくせに、福祉士は安月給らしい。
大金は期待出来ないため、ダチの羽野に朝比奈の話を持ちかけたのだ。
『も、もちろん。田辺君こそ、本当にヤらせてくれるんだよね?』
「ああ。地味だが、あそこの具合は、俺や先輩の折り紙付きだぜ。安くはしないぜ?」
あの朝比奈とヤレると知った途端、羽野は興奮を隠せない様子で、早速口座から金を下ろし、前金まで払ってくれた。
かなりの気前の良さから、羽野が朝比奈にぞっこんなのは窺えた。
「まあ、とにかく入れよ」
マンションの玄関に設置された安全装置を解除し、羽野を中へ招いた。
とにかく自分に運が戻って来た、と孝雄は上機嫌だった。
退屈な大学に通ってまで就職した会社をやめてフリーターになり、金が無くなって借金が重なって来た矢先。
新たな金づるを、二人も確保できたのだ。
しかも三人の場合、主導権は自分にあるため、返済の必要なしで言いなりに使えるのだ。
ほらな、やっぱり、神様は自分に味方してくれている。
自分は、何をしても許される。
もし、そうでなければ今更自分はここにいないし、窮地を救われることもないはずなのだから。
最近お気に入りの歌手・
*
「久しぶり・・・・・・朝比奈さん。その・・・・・・元気、してた?」
「あなた、まさか・・・・・・」
マンション・グロリオサの五五五号室に鳴らされた呼び鈴に、美天は訝りながらも扉を開けた。
扉の隙間と鎖越しに見えた意外な人物に、美天は驚愕を隠せなかった。
言葉を失う美天に、相手は気まずそうに視線を彷徨わせながらも、弱々しい口調で問う。
「僕のこと、覚えているかな・・・・・・」
「ええ・・・・・・
「うん・・・・・・ありがとう。僕を忘れないでいてくれて。僕も朝比奈さんのこと、心配してた」
「そうなんだ・・・・・・ありがとう・・・・・・それより、何故太山君がここへ?」
太山・庵土竜は、美天の大学時代の同級生の一人だ。
庵土竜という珍しい名前、西洋人めいたふくよかな体型に日本人らしい顔立ちと黒髪という、
太山は気が弱くおどおどしている性格からか、常に田辺の後ろにくっついて頭の上がらない様子だった。
今思えば、太山は田辺に何かしら弱みを握られ、体の良いパシリとして使われていたのかもしれない。
昔を懐かしむこと数秒後、美天は田辺ではなく太山が五五五号室を訪れたことへの素朴な疑問を、困惑と共に投げた。
「あ、その・・・・・・実は朝比奈さんを駅まで送るようにって、田辺君に頼まれたんだ・・・・・・」
「田辺君が? どうして?」
「えっと、ごめん。僕にもよく分からないけど・・・・・・突然の電話で頼まれたことだから。ただ、急用ができたから今夜は逢えないって」
美天を脅してまで金を無心にし、自分のマンションまで誘った田辺が、唐突に約束を取り消した。
しかも、わざわざ太山を迎えに寄越すという、田辺らしからぬ気遣いまで差し向けて。
安堵を通り越して美天は困惑し、肩透かしを食らった気がした。
「そしたら早速、突然でごめんね。遅くなる前に朝比奈さんを駅まで送るから」
未だ状況を上手く呑み込めていない美天。
しかし、田辺の命令とはいえ心配してくれる太山の親切に、甘えることにした。
美天が淡い微笑みで了承すると、不安げな表情の太山は、安堵に唇を緩めた。
*
王百合駅から青百合駅行きの電車に揺らされる中、美天は窓の外を染める紺碧の闇を茫然と眺める。
結局、今夜は出番のなかった二十万円分の札束が入った鞄を持つ手には、常に緊張の力が籠る。
丁度美天が電車に乗った時、携帯端末へ田辺からのライクメッセージは届いた。
内容は、太山がマンションから駅へちゃんと送ったかという確認の他、今夜は急遽やむを得ない用事で約束を反故したという、雑な説明だった。
気乗りはしないが、太山の顔を立てるために、彼がちゃんと駅へ送ってくれた報告を送信した。
すると、即座に返ってきたライクの内容に、美天はまたしても拍子抜けさせられた。
『ドタキャンの件、本当に悪いな! この埋め合わせは、今度必ずするから! ただ、俺は十九日から二十四日までは海外出張があるから、次会えるのはそれ以降になるわ。また連絡するから、金の用意を忘れんなよ〜。笑』
いかにも、親しい女友達に送るような馴れ馴れしく目障りな文字の並ぶトーク画面を、叩き割りたい。
自分でも変なほど物騒な発想は、冷静に浮かんだ。
今夜の取引が中止になったことへ、素直に安堵を覚えた反面、現実思えば気は重たいままだ。
美天を嗤い待つ悪夢が、ほんの少し先延ばされただけに過ぎず、根本的問題は何も解決していないのだ。
次の取引まで幾ばくかの猶予を与えられたが、最善の解決策が見出せるとは思えなかった。
ただでさえ、頭の中はぐちゃぐちゃで混乱しているというのに。
正直、こんな不安だらけの気持ちのまま、晴斗と旅行を心置きなく楽しめるとは到底思えなかった。
三十分かけて青百合駅に到着すると、美天は肩を落としたまま静かに下車した。
時刻は、既に九時を回っていた。
駅から自宅のアパートまで歩いて直ぐだが、最近はこんな遅い時間帯で帰ったことはない。
今の暗鬱な心境で人気のない夜道を一人歩くと、脚がすくみそうだ。
冷や汗と共に湧き上がる恐怖、と夜闇を振り払うように、美天は勢いよく改札を通り抜けていく。
「美天・・・・・・!」
突然、後ろから手を力強く掴まれた。
不意打ちに驚いた美天は均衡を崩し、後方へ転倒していく。
しかし美天の華奢な体は、直ぐ後ろに迫っていた人物に受け止められた。
背中越しに伝わる広いぬくもりのおかげで危機一髪だった美天は、動悸と共に深い息を吐いた。
状況を上手く呑み込めていない中、鼻腔を仄かに掠めた懐かしい香りに、美天は後ろを振り返った。
「晴斗・・・・・・?」
自分と視線を合わせた柔和な瞳に懐かしさと共に、瞳の奥は熱を帯びた。
*
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