『純美な友』②

 「が漫画を好きなんて、ちょっと意外かも」

 「そうなのかい?」

 「まあ、精神医学と福祉、心理学書関連は予想イメージ通りだけど・・・・・・『色えんピツちゃん』とか『にゃん右衛門うえもん』とか読んで笑っている晴斗がおもしろ・・・・・・想像できなくて」

 「ははっ。の僕への認識イメージは、どうなっているのか気になるなぁ」


 三月後の初夏、いつの間にか美天と晴斗は、互いを呼び捨てにするまで関係を深めた。

 今は、二人がそれぞれ暮らすアパートの近所にある喫茶・薔薇園ローズガーデンで、一緒にお茶していた。

 薔薇園は、中世欧州風の内装に格調高い百年ものアンティーク家具や置物で飾られた、もの静かな喫茶店だ。

 欧州の古典文学書やお洒落なポケット図鑑と一緒に、和国の国民的人気漫画の雑誌や単行本が並ぶ本棚という、ミスマッチ感が絶妙だ。

 彩りの薔薇の花が咲く壁に挟まれた石畳を、少し歩いた先でひっそりと建つ、隠れ家みたいな店だ。

 あまり、人に知られていない穴場で客もまばらなので、静かで落ち着ける。

 休日は一人で家にひきこもるのも、さりとて街中で人の喧騒に呑まれるのも億劫になりがちな美天のお気に入りの隠れ家だった。

 就職と引っ越し当初から常連として通う喫茶店で、新人の同僚と偶然鉢合わせるとは、誰が想像できたのか。


 「ごめん、気・・・・・・悪くした?」

 「ううん。美天が興味を抱いてくれるのは嬉しい」

 「そうなの?」

 「美天とは、一緒にいるだけで楽しいけど・・・・・・僕が美天を知りたいと思うのと同じくらい、美天が僕を知ってくれたら嬉しいんだ」

 「・・・・・・そ、うなんだ」


 混じり気のない眼差しで、気持ちを真っ直ぐ伝えられると、今度こそ美天は息を呑んだ。

 返事に窮した美天は、大して興味なさげに頷くのが精一杯だった。

 一方晴斗に至っては、変わらず無邪気な眼差しで微笑んでいた。

 美天の素っ気ない反応も、彼女の照れ隠しの表れだと見透かしているようで。

 晴斗の透き通るような瞳に見つめられていると、何だか恥ずかしくてくすぐったいはずなのに、不思議と安心もした。

 

 いつも、晴斗は優しく微笑んでくれた。

 嘘や悪意の芽生えていない赤子らしい純粋さに、人と世の無情を悟る菩薩然とした寛容さが融合しているような、何とも不思議な雰囲気を醸して。

 晴斗は自分のことを知ってもらえると嬉しいと言ったが、交流を深める度に、晴斗の意外な一面は次々と発見できた。

 一つ目は先述した漫画を、しかも紙媒体で読むのが好きなこと。二つ目は。


 「晴斗・・・・・・まさか、それ全部食べるの?」

 「うん」


 唖然と目を丸くして問う美天に、晴斗は屈託なく肯いた。

 質問した時点で、晴斗は既に頬張っていた。

 イタリア製百年もの卓上テーブルに、夏色の薔薇が咲き描かれた布地クロスの上は、彩りのケーキや焼き菓子が埋め尽くすように並んでいる。

 美天は、苺タルトとキャラメルティーのセット。

 一方晴斗の前には、艶やかなベリーに生クリームをふんだんに飾ったショートケーキ、爽やかな酸味のレモンベイクドチーズケーキ、芳醇なキルシュチェリーを挟んだチョコレートケーキ、虹色のフルーツを贅沢に盛ったタルトが、光り輝くように並ぶ。


 さらに、四人がけの席のテーブルを埋め尽くすケーキ達の中央には、一口サイズのサンドイッチにこんがり焼き立てのスコーンやクッキー。

 天辺には、限定メニューの小さなすみれケーキが咲いたアフタヌーンティー一式。


 「薔薇園のケーキは、どれも美味しいね・・・・・・あ、よかったら美天も一緒に食べるかい?」

 「えっと、じゃあ一口だけ味見でいいよ」


 二、三度目とは言え、未だ見慣れない光景に度肝を抜かれる。

 すっきりした体格に反し、晴斗は少し、否かなりの大食漢だ。

 しかも、雑食型の甘党と来た。


 「この一週間に一度の楽しみのために、生きている気がするよ・・・・・・美天のタルトはどうだい?」

 「ん! こっちも美味しい・・・・・・苺がいっぱいでタルトもサクサク・・・・・・食べてみる?」

 「いいのかい?」


 物欲しげな子どものように目を輝かせている晴斗を見れば、与えずにはいられなかった。

 眺めているだけで夢心地のあまりお腹が膨れそうなのに、全種類の洋菓子を一周試食するだけで、終わりそうだ。

 美天の注文したタルトですら、七粒もの苺をラズベリーコンフィで塗り飾り、下にはバニラ豊かなカスタードとアーモンドクリームに香ばしいクッキータルトを合わせて、数センチもの厚さを誇る。

 先ずは、自分のケーキを食べ終えることが出来るのか、心配になった。

 まあ、万一食べきれなかったら、晴斗は喜んで食べてくれるに違いない。


 「この辺り、もらってもいいかな?」、と訊いた晴斗に、美天は快く肯いた。

 最初は、遠慮がちに小さめの一口サイズをフォークで切り取った晴斗に、「もう少し食べていいよ」、と述べる。

 すると、晴斗はパァッと花の笑顔を咲かせた。

 普段病院で一緒に勤務する時の晴斗は、落ち着きのある優しいお兄さんという雰囲気がある。

 なのに、こうして好物の洋菓子を食べている時は、無邪気な幼子みたいな表情で喜ぶ所が意外で、可愛いとすら思った。


 「ありがとう、美天」

 「どうしたの? 急にお礼なんて」

 「変、かな? でも、美天がこうして僕と一緒にお茶してくれるのは、やっぱり嬉しくて」


 三つ目に分かったのは、晴斗は「ありがとう」が口癖になっていること。

 ただ一緒に昼食やお茶をすることや、病院での軽いやり取りや些事の手伝いまで、どんな小さなことにも、晴斗は相手への感謝を欠かさない。

 多忙で言葉を交わす余裕すらない場合でも、後々感謝や励ましを一言述べてくれる。

 人間関係というものは慣れて時間が経ち、当たり前になると、感謝の気持ちすら煩わしくなるものだが、晴斗には当てはまらないらしい。

 相手への感謝と敬意を常に忘れないのは、晴斗の美徳であり、美天も好ましく思う。

 ここまで素直に感謝されることに、戸惑ってしまう美天は、むず痒い一方嬉しくもあった。

 こんな小さなことでも、自分のような人間は必要とされていると、実感できる。


 「それを言うなら、私の方が晴斗に感謝だよ。私は・・・・・・晴斗と一緒にいると、新しい発見がたくさんあって・・・・・・肩の力が抜けると言うか」


 美しい紋様の編み物さながら、想いを器用に言葉へと紡ぐ晴斗のようにはいかない。

 美天の言葉は、縺れた糸のように詰まってしまう。


 「それって、僕と一緒にいてってこと・・・・・・?」


 楽しい・・・・・・?

 美天にとって暫し無縁だった、些細でかけがえのない感覚を悟った瞬間だった。

 そうか・・・・・・これが、ということ。

 言葉に迷っていた美天の気持ちを、絶妙に代弁してくれた晴斗に肯いた。


 「そっか・・・・・・うん、私・・・・・・晴斗と一緒にいて、楽しいんだね・・・・・・晴斗だから、私は今ものね・・・・・・」

 「美天・・・・・・」


 遠い眼差しで感慨深そうに呟く美天へ、晴斗の手は伸びる。

 不意に名前を呼んだ声は、どこまでも透明に澄み渡っていた。

 自分よりも一回り大きく引き締まった白い手は、テーブルに置かれた美天の指先に触れる寸での所で止まる。

 美天が瞳だけで見上げると、晴斗の透明な眼差しと視線が溶け合う。


 「晴斗・・・・・・私」


 美天自身、何を伝えたかったのか無自覚のまま、沈黙へ耽る。

 今晴斗は何を考えているのか、分からない。

 ただ、こちらを真っ直ぐ窺う瞳は「何も言わなくても大丈夫」、と優しく諭しているようにも、拒絶されなかった安堵を覚えているようにも見えた。

 何かを感じ取りながらも、その違和感の正体・・・・・・美天の深淵をいたずらに暴こうとはしない態度は嬉しかった。


 「晴斗・・・・・・手、繋いでも・・・・・・いい?」


 手前に置かれた晴斗の手を、自分の指先で軽く突いてみた。

 美天からの意外な申し出に、晴斗はキョトンと双眸を丸くする。

 相手の手に触れてお願いする。

 ただそれだけのことは、崖を飛び移るような緊張と勇気を強いた。

 晴斗の滑らかな手は、美天の手に重ねられた。

 思わず美天は息を呑み、指先から爪先を強張らせる。

 甘い芳香を焦がしたキャラメルティーの湯気は、沈黙を温めてくれる。


 「美天の手は、小さいのに・・・・・・あったかいね・・・・・・」


 晴斗の両手が黙って美天の片手を包み込むと、やがて震えは治った。

 本当はこの時も未だ怖かった。

 こんな風に、誰かに優しく手を触れられてもいいのか、と。

 こんな自分が触れてしまえば、相手まで、と。

 自分の汚穢おわいを知られてしまうのではないか、と。


 「晴斗の手は、すごく大きくて、あったかいね・・・・・・」


 目に見えない汚穢を秘めた自分に触れられても、綺麗なままの白い両手、すっぽり収まる手を慈しむように無言で撫でる晴斗の静けさに、心洗われていく気がした。


 *


 「私、遊園地に来たのって十年ぶりかも」

 「僕は、に一度行ったきりだよ」

 「そうなの・・・・・・!?」


 四つ目の意外な所は、晴斗が「絶叫系アトラクション」と生き物好きであることだ。

 勤務外でも付き合いのある友達関係を始めて、四ヶ月目。

 残暑に照りつく真昼の遊園地に、二人で訪れていた。

 二人の住む青百合市から、電車で三十分。

 姫百合市の丘にある「姫百合ドリームワールド」。

 子どもから大人まで楽しめる乗り物アトラクションエリアと、ふれあい系から珍獣系まで揃えたアニマルエリアの併設された、夢のテーマパークだ。


 「誰かと一緒に来たのはね。最近までは、一人で遊びに来ていたかな。引っ越して来たばかりだから、この遊園地があるって知ったのは、つい最近だけど」

 「そうなんだ・・・・・・一人で行くのって勇気いらない?」

 「案外楽しいものだよ。一人ならシングルライダーで直ぐに順番回ってくるし、自分の好きなアトラクションに好きなだけ再戦できるし。最近は、一人でアトラクション制覇しにくる客も増えているみたいだよ?」


 家族・友人・恋人と一緒に楽しむレジャー代名詞の遊園地へ、晴斗のように人望厚く、友達が多そうな人が”ぼっち”で来るのも、想像つかなかった。

 晴斗の口から教えられたの魅力には、納得できるが。


 「となれば、美天も遊園地は子どもの頃以来になるのかな」

 「うん。それからは・・・・・・一緒に行くほど仲良い友達もいなかったし」


 就職と同時に、青百合市へ引っ越してから一年経つ。

 遊園地へ一緒に行く親しい友人も、一人遊園地を満喫しに行く気概もなかった美天にとって、の来園だ。

 遊園地なんて、子どもの頃に家族で一年に一度行っていた頃きりだ。

 中学からは、勉学と部活動への没頭で、家族付き合いや遊びとも疎遠になった。

 受験と競争を意識する高校生にもなれば、「遊園地は小さな子どもの場所」、という認識だった。

 姫百合ドリームパークのように、大人向けアトラクションも揃えた遊園地の充実した都会であれば、大学生付き合いで訪れる機会もあったかもしれない。

 しかし、結局美天の場合は、それに当てはまらなかった。


 「晴斗は、一緒に行く友達とかはいなかったの?」

 「いなかったよ」

 「そうなの?」

 「から。学校以外で一緒に遊ぶほど仲の良い友達は、特にいなかったなあ。それに皆、絶叫マシン苦手だったし」


 五つ目の意外な点を発見。

 晴斗には、親しい友達が少ないのかもしれない。

 晴斗の言う通り、たまたま、絶叫マシン好きの甘党友達に恵まれなかっただけなのか。

 もしくは、晴斗のように周囲の機微に聡く優しい人だからこそ、案外気遣いの多い人付き合いを好んでいないのかもしれない。

 あくまで、想像でしかない。

 理由を訊いてみれば、晴斗は大抵素直に答えてくれると思うが、美天は躊躇を覚えた。


 「じゃあ、今回はどうして私を誘ってくれたの?」


 何気なく質問した直後、美天は軽く後悔した。

 外出に誘う明確な理由を訊かれても、困るだろう。

 詰まる所、自分と多少気の合う人物で余程嫌っていなければ、相手は誰だって構わないのが友人なのだから。


 「新しい思い出と体験を作りたかったんだ・・・・・・美天とで」

 「え・・・・・・?」

 「さて! せっかく無事着いたから、早速何か乗ろう」

 「! は、晴斗・・・・・・!?」


 晴斗の返事と声が、いつになく真剣な響きを放っていたのは、気になった。

 しかし首を傾げる美天を他所に、晴斗は気を取り直してアトラクションの入り口を潜る。

 いつになくはしゃいでいる晴斗に手を引かれて驚くが、振り解く気もなれず。

 美天は戸惑いながらも、晴斗によって夢の楽しい世界へと誘われた。


 「きぃやあぁぁああぁぁぁーー!!」

 「あぁぁあぁああぁぁぁーー!!」


 一番人気絶叫アトラクション・|不死鳥・|飛翔――。

 雄々しく翼を広げた巨鳥を模った光沢を放つ橙色の機体は、尾羽から炎を放つ。

 瞬間、空中に張り巡らされた線路を、風のように素早く翔る。

 不死鳥の背中に乗っていた客の痛快な悲鳴は、空気を裂いた。

 晴斗は、満面の笑顔を咲かせながら腹の底から爽快に叫ぶ。

 隣の美天は、半ベソをかいて悲鳴を零していた。


 「はぁ・・・・・・信じられない、あんな・・・・・・高くて、速くて・・・・・・」

 「結局、美天も最後はすっごくスッキリした表情で笑っていたね! ほら」

 「あああ! 晴斗っ。変な顔してるから、わざわざ買わなくてもよかったのに」

 「何で? 僕は気に入ったよ」


 休憩ベンチで暫し放心気味だった美天は、照れくさそうに苦言を零す。

 隣で上機嫌に微笑む晴斗は、自分の携帯端末スマホへ送信された記念写真を見せてくる。

 写真は、不死鳥飛翔の終盤で洞窟を潜り抜けた際に、撮影されたものだ。

 写真の中では、二人とも双眸と口を大きく開けて屈託なく笑っている。

 しかし、間抜け面で鼻の穴は拡大し、開いた口からは歯と歯茎がみっともなく覗いている。

 叶うことなら、時間を巻き戻して撮り直したいほど、気恥ずかしい。


 「僕は、この写真が一番好きだけどなあ。まあ、美天がどうしてもって言うなら直す方法はあるよ」

 「ほんと?」


 美天の気持ちを察したらしい晴斗の提案を訊くべく、美天は食いつく。


 「もう一度乗ればいいさ」

 「やっぱりそのままでいいよ」


 そう?っと首を傾げる晴斗に、冷や汗を流す美天。

 爽やかな笑みと共に出た恐ろしい提案を、間髪入れずに苦笑で断った。

 いずれにしろ、晴斗は後に再挑戦するつもりなのが窺えた。


 「よかった。僕はすごく気に入ったよ。だって、美天がこんなにも楽しそうに笑っている顔は、初めてみたから」

 「晴斗も、普段以上に楽しそうだけどね!」


 爽やかな口調で語る晴斗からは、嫌味や揶揄からかいの色は含まれない。

 妹が無邪気に笑う姿を微笑ましそうに眺める兄らしい眼差しが、くすぐったい。

 しかし晴斗の言う通り、途中から楽しんでいる自分がいることは、確かだった。

 最初こそ、絶叫マシンを本気で怖がっていた。

 しかし、天高い坂を登っていく際のじわじわ迫る寒気と緊張、坂を勢いよく滑り落ちる際のぶわっと肝を冷やす浮上感の与える緊張は、やがてスリル興奮に変わっていった。

 視界全体に広がる晴れやかな空色、自分が風になったような速度と浮遊感に、爽快感すら目覚めた。

 晴斗が絶叫マシンにハマったのは、分かった気がする。


 子どもの頃は、何故大人達が怖いものにあえて触れ、あまつさえ没頭するのか不可解な気持ちで眺めるしかなかったが、今なら理解できる。


 子どもとは違い、大人は「未来に対する知識と信頼」を持っているのだ。


  事故や人災の異例を除けば、ジェットコースターは未来と理由を知っている。


 ジェットコースターの具体的な構造、と仕組みを教えられていないにも関わらず。

 

 無意識で漠然としたその感覚は、「社会への無条件の信頼」。


 さらに、大人という生き物は不測の事態にも適切に対処する知識と、「自己への信頼」も抱いている。


 だからこそ、前提の信頼を裏切られた瞬間、人は打ちひしがれ――「絶望」する。


 かつての、自分のように――。


 「いこっか、美天」


 美天の中で既に失ったはずの「基本的信頼」は今、この大きくて温かい手に握られている気がした。

 ベンチで軽く休憩を取った後も、蝙蝠こうもりフリーフォールやくじらバイキング、空中白鳥ブランコ、海豚いるかスライダー等、乗り応え満載のアトラクションに、二人で挑戦した。


 「美天は、動物に好かれる素質があるね」

 「そうなのかな。よく分からないけど・・・・・・」


 アトラクションエリアを一通り満喫した後は、アニマルエリアのふれあい喫茶で動物と戯れる。

 ふんわりした芝生色の絨毯に、切り株を模した背の低い椅子と卓上、壁際から天井辺りまで飾られた人工の広葉樹は、メルヘンな森の世界を再現している。

 ふれあいカフェには、猫ゾーンから犬ゾーン、他にはうさぎやフェレット、はりねずみ、鳥などの動物ごとに場所は、ガラスで隔てられている。

 先ず二人は、猫ゾーンの芝生絨毯に腰掛けてアイスティーを飲みながら、猫に癒されていた。

 珍しい種類の猫を眺めたり、人懐っこく膝へ寄ってきた猫と玩具で遊んであげたりもした。


 「晴斗も、すっごく懐かれているよ」

 「似たもの同士だと思われているのかも、ふふっ」


 不思議なことに、餌もマタタビも匂わせていないはずの二人の膝へ、数匹もの猫は場所取り争いをしてじゃれついてくる。

 晴斗の耳心地の優しい声や、猫の良い所を絶妙な力加減で撫でる指遣いに、猫達は骨抜きにされている。

 

 「美天は猫好きかい? 飼ったことはある?」

 「動物は飼ったことないの。猫は見るのは好きだと思う・・・・・・ただ、こうしてまともに触ったのは初めてだから、ちょっと緊張する」


 幸い猫アレルギーも猫関連の否定的な体験もないため、好きか嫌いかの二択であれば、好きな方だ。

 こうして、じっくり近くで触れてみるのは、初めてだが。

 きょるんと愛らしく澄んだビー玉みたいな瞳も、ふかふかの柔らかい毛に包まれたしなやかな体付きは、愛護欲を掻き立てる。

 とはいえ、動物慣れしていない美天は、擦り寄ってきた懐っこい猫達を、恐々と迎えるのみだ。

 意外にも、猫達が自分の膝上で寝転がりながら目を細めてくつろいでいるのは、不思議だ。


 「ここの猫達は人懐こいね」

 「というよりも・・・・・・美天は猫と似ているから寄ってくると思う」

 「晴斗から見て、私は猫っぽいの? どんな所が?」


 ふれあい喫茶の猫達は、単に人慣れしているから寄ってくると思った。

 しかし周りを確認してみると、他の客に触れられた猫の大半は、背中を軽く反らせて避けていく。

 意外な光景にますます解さなかった美天は、素朴な疑問を投げた。

 すると、晴斗は柔和な微笑みで膝や肩に乗っかる猫達を撫でながら答えた。


 「猫は自儘じままで束縛を好まない慎重な子が多いけれど・・・・・・反面、信頼した相手の関心とぬくもりを求めずにはいられない、寂しがり屋で甘えん坊な一面もあるかな」


 小さきものを慈しむ眼差しで猫を語る晴斗に、美天は虚を突かれた。

 きっと、それほど深い意味はないだろう。

 しかし、晴斗の何気ない言葉は、まさに今の美天を表していた。

 臆病な所は、似ているかもしれない。

 動物達は、自分の怯えを肌で見透かしているのかもしれない。

 だからこそ美天は、安全だと。


 傷つけられることにも、傷つけるかもしれないことにも、怯えている相手が、自分達を攻撃してくるとは思っていないのだろう。


 「晴斗も猫っぽいと思うよ・・・・・・」


 つい返事に窮した美天は、晴斗と同じ言葉を紡いだ。

 晴斗は、キョトンとした眼差しで凝視しながら口を開いた。


 「猫のどんな所が?」


 今度は、晴斗が美天と同じ台詞を呟いた。

 奇妙な共鳴に胸がくすぐったくなった美天だが、本心を素直に零した。


 「何も言わないし、何も訊いてこないけれど、こうしてさりげなくそばにいてくれる感じ・・・・・・あ、猫がねっ」


 最後は何となく恥じらいを覚えた美天は、あくまで猫のことだと強調するように言い切った。

 自分でも褒めているのか分かり難い心境で、晴斗の反応を窺う。

 それでもいたたまれず、膝上でじゃれつく猫を撫でてやり過ごす。


 「そっか」


 存外、簡潔な返事を呟いた晴斗。

 しかし、晴斗の声色は、弾む川の音さながら穏やかで揚々と響いた。

 さりげなく、視線を膝の猫から対面の晴斗へ移してみる。

 晴斗の柔和な微笑みには、美天の答えにご満悦な色を窺わせていた。

 安楽座あぐらの晴斗は、膝や周りに寄り添っている猫達を両手で愛撫してあげながら、猫と美天を交互に見つめる。

 晴斗も、自分とは違う意味で猫に似ていると感じたのは、確かだ。

 しかし、晴斗の静謐な瞳と優しい微笑みは、観音菩薩かんのんぼさつを彷彿させた。

 さておき、猫という生き物に、美天は今までにない親近感が芽生えたのであった。


 *


 茜の姫百合空が咲いた夕刻、美天と晴斗は帰路の電車に揺らされる。


 「本当に広い遊園地だったね。乗り物も動物も、一日じゃ周りきらないくらい!」


 今回は初来園だったため、とりあえず気になるおすすめに目標を絞って、園内を巡った。

 しかし、園内全てのアトラクションを周り切る前に、夢の時間はあっという間に刻限を迎えた。

 名残惜しそうに呟く美天に、晴斗は明るい微笑みで答える。


 「また一緒に行こう。そしたら、未だ見ていない場所も見れる」

 「そうだね」


 未だ楽しみ足りないと感じたのは同じらしく、晴斗の口からを望む言葉が零れたのは嬉しかった。


 「でも、私も一緒だから、晴斗は未だ乗っていない絶叫マシンもあるんじゃないかな。大丈夫?」


 何気ない笑みを浮かべながらつい零した問いかけは、不安の裏返しだった。

 今日一日、晴斗は隣で笑っていてくれた。

 しかし本音は、優しい晴斗が自分に気遣って、絶叫マシンを心ゆくまで楽しめなかったのではないか。

 絶叫マシンに付き合った美天のために休憩を幾つか挟み、全てのマシン制覇と気に入った乗り物を、リピートする時間は取れなかった。

 そんな、後ろ向きの可能性を頭に浮かべるのは、我ながら卑屈だと思った。


 「それなら、お互い様だよ。美天は僕と一緒に乗ってくれた。僕ほど、絶叫マシンは得意じゃないのに」

 「それは、私もマシンには少し興味あったし・・・・・・晴斗と一緒だったから、思ったより平気だったかも」


 美天の些細な不安を察してか否か。

 晴斗は杞憂だとばかりに、穏やかな苦笑と共に唇をほころばせた。


 「それを聞いて安心したよ。優しい君に無理をさせていないかなって」

 「ううん、私も楽しかった。初めてのことがいっぱいで新鮮だった」

 「そっか。美天は一緒に楽しく笑ってくれた。僕にはそれが嬉しかったんだよ。誰かと一緒に乗ったのは初めてだったけど・・・・・・美天と一緒の方が、一人で乗るのとは違うワクワクした気持ちを体験できた」


 安堵した様子で微笑む晴斗に、美天は虚を突かれた眼差しで瞠目した。

 いつも寛容で物腰柔らかな晴斗も、本当は同じように自分を想ってくれたのだろうか。

 不安を抱えていたのは自分だけではないと知ると、何とも言えない安堵に胸の底が満たされていく。


 「お疲れ様。ありがとう美天。今日も楽しかった」

 「うん。私こそありがとう晴斗。私も楽しかった」

 「暗くなる前に気をつけて帰ってね」


 青百合駅に到着した二人は、互いに手を振って微笑んだ。

 二人は近所のアパートで一人暮らしをしているが、違うアパートの二人の帰る方向は正反対。

 駅の改札を抜けた所で、美天は右手の山側へ、晴斗は左手の商店街側へと別れた。

 たいてい晴斗は午後六時前か、空が夕闇に沈む前に必ず美天を帰してくれる。

 美天とはいつも駅で別れ、決して自宅まで送ることはない。

 きっと、晴斗なりの気遣いかもしれない。

 帰りが遅くなれば、夜道の危険を心配する晴斗は、美天の自宅まで送ることになる。

 そのまま晴斗を帰すのは忍びないと気を遣った美天は、お礼に彼を自宅へ招いて、お茶か夕食をもてなすかもしれないからだ。

 美天は『藍百合アパート』の部屋の鍵を開けている最中、左隣の扉から現れた『佐々木さん』と顔を合わせた。


 「こんばんは」

 「・・・・・・こんばんは」


 佐々木さんは、美天と同じ一人暮らしの女性だ。

 背の高くすらっとした目鼻の高い美女で、夕方になると露出の高い私服で出かける。

 華やかな美貌に施された派手な化粧から、恐らくデートか、もしくは夜のお店へ出勤しているのかもしれない。

 互いにあいさつと名字を知っているだけの間柄だが、隣に同じ女性が住んでいるだけで心強かった。

 右隣に住んでいるのは、美天が苦手意識を抱く若い男性だから、尚更だ。


 右隣の男性は、昼間にゴミ捨てへ向かう時に一度だけ鉢合わせただけで、名字すら知らない。

 あいさつをしたが、まるっきり舌打ちと共に無視された。

 埃をかぶった眼鏡、何日も洗濯していない薄汚れた寝巻きに、外套で厚着している。

 いかにも、ひきこもりの出で立ちから、深く関わらないのが賢明と判断した。


 隣にどんな人が住んでいるのかは、意外にも重要だったりする。

 それは誰と同級生になるのか、誰と付き合うかと同じくらい。

 もしかしたら、晴斗はそこを考慮しているのかもしれない。


 友達としての境界を超えてしまいかねない状況を、晴斗は意図的に避けている気がした。


 まさに、美天自身はを望んでいないことに、勘付いているようで。


 晴斗は相手の心域へ、土足で踏み込む真似はしない。

 ここ数年間は、友達と呼べる存在も人付き合いも一切断っていた美天もまた、晴斗のことを詮索したことはない。


 だからこそ、晴斗とは「親しい友」という関係を続けていられるのかもしれない。


 それは周りが考える親近関係と、一線を画しているのかもしれない。


 *


 「晴斗君もAemirエーミルが好きみたい! 嬉しい」


 在りし日の白百合病院、晴斗が患者との面談で席を外している時。

 同い年の看護師である竹宮・百華ももかは、意気揚々と話を始めた。


 「そうなんですか」

 「あれ? てっきり、朝比奈さんは知っているものだとばかり。よく、二人で昼食取っているのに」

 「まあ・・・・・・たまたま時間が合ったし、同じ事例ケースと患者も幾つか抱えているから話すだけですよ」

 「本当にそれだけなんだ?」


 淡い微笑みで答えた美天の反応に、百華は心底首を傾げた。

 一緒に昼食を取ることの多い晴斗と美天の仲を、百華は目敏く怪しんでいた。

 しかし、美天の淡白な反応に、百華は失望とも安堵とも取れる微妙な態度を見せた。

 (百華曰く)爽やかな誠実系の美男子・晴斗を中心に色めき立つ女性陣の内、最も歳の近い看護師・百華は、ここ最近晴斗への関心と接近アプローチが熱烈だ。

 同じ事務所内では、百華が晴斗の基本情報プロフィールを一番熟知しているのかもしれない。


 「今度ね、サプライズで、晴斗君に手作りのお菓子を差し入れてみようと思うの! 皆さんと一緒にどうぞーって配れば、家庭的な女子力も周りへの気配りもアピールできて、一石二鳥じゃない? ただ、ラムレーズンとかアルコールの入ったお菓子は、あまり得意じゃないみたいだから気をつけなきゃっ」


 百華の口から語られる内容は、美天が初めて知る晴斗の事ばかりだった。

 好きな音楽歌手も、苦手な食べ物のことも知らなかった。

 百華はどの程度、晴斗に対して本気なのか定かではないが、恐らく美天の知らないことは、他にもたくさん訊いているに違いない。


 そう考えれば、美天は晴斗と「友達」でありながら、晴斗のことをよく知っているわけではない。


 晴斗はどこでどんな風に生活し、学び、人と繋がり、どういった経緯でPSWとして病院へ就職する道を選択したのか。

 ましてや、自分以外にも友達はいるのか、家族とはどこまで仲良いのか、そして交際相手もしくは気になっている人はいるのかも知らない。

 

 これで何故、美天は無意識の内に晴斗を友達と認識し、晴斗も同じだと錯覚してしまったのか。


 美天自分は、晴斗という人間を未だ知らない。


 晴斗もまた、美天という人間を未だ知らない。


 それでも、不思議と晴斗が唯一最も気付いてくれた。


 美天という人間に秘めたを。


 美天だけは、後に思い知る。


 晴斗の――を。




 ***続く***

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