えな ─愛しい君へ─

香(コウ)

序 章 『末路』

第一話

 2014年10月某日、関東地方の某県某所。


 微睡まどろみの中にけたたましい音が飛び込んできて、けいは目を覚ました。

 カーテンの隙間から差す日差しが、薄暗いリビングの天井に光の線を描いている。

 ソファの上で体を起こし、床から携帯を拾ってアラームを止めた。

 画面に表示されている時刻は午前11時。

 長く寝たはずだが、心身はひどく疲れきったままだった。

 洗面所に行こうとしてソファから立ち上がると、寝室に繋がるドアが目に入る。

 馨はそこをじっと見つめた。

 ドアの前にはプラスチックの衣装ケースが二つ、バリケードのように置いてある。

 

 今、ここは開けられない。

 この向こうにはがいるのだ。


 端的に言えばそれは異形だった。

 もつれた長い髪、血の気の失われた白い顔。

 光のない目を剥き、ゆっくり首をかしげながら、鋭い爪のある手を伸ばして四つん這いで迫ってくる。


 先日、夜道で遭遇したのが最初。

 追われて家の中まで侵入されたが、その一瞬の隙を突いて寝室に閉じ込め、現在に至る。

 しばらくは時折ドアを叩く音や小さな声が聞こえていたが、今は不気味なくらい静かだ。


 現実の存在か、それとも頭の中の幻覚か。

 腕を掴まれる感触は確かなものだったが、あの様相はとても生きた人間には見えない。


 幻覚であってほしいと馨は思っていた。

 勿論幻覚だとしても由々しきことだが、だとしたら見えるようになった原因には心当たりがあった。


 ──約1週間前。

 共に暮らしていた恋人がいなくなった。

 彼女とは、苦労しながらも楽しく幸せに過ごしていた。

 たったの1年と少しだったが、彼女の無償の愛は深く、馨がどれだけ彼女を愛しても到底敵うものではなかった。

 そんな彼女がどうして去ってしまったのか。

 その理由を、馨は信じたくなかった。


『好きな人ができた。もういっしょにいられない』


 質素な便箋には、そうとだけ書かれていた。

 馨は悲しみと虚無感で押し潰された。

 

 幻覚の心当たりとは、このことだ。

 馨は彼女が離れていったことを受け入れられず、おかしくなって幻覚を見てしまったのではないだろうか。


 寝室のドアから視線を逸らし、今度こそ洗面所に向かう。

 そして洗面台に立ち、鏡越しに顔を見た。

 長いまつげが暗い瞳に影を落とし、その下には隈が居座っている。

 元々猫目ぎみの目つきは余計に悪くなっていた。


 しかし、どれだけ見つめても、自分が正気なのかそうでないのかすら分からない。

 馨にはもう何も分からなかった。

 彼女が自分以外の人間を好きになった理由も。

 

 無感情に呆然と己を見つめたあと、馨は蛇口を捻った。

 


 洗面所を出たとき、ちょうど携帯のバイブレーションが聞こえた。

 テーブルの上に置いた携帯を手に取って液晶画面を見る。

 着信として表示されている名前は、「与那城よなしろ 悠大ゆうだい」。


 彼は中学の頃からの馴染みだった。

 馨と共に地元の北海道を離れ、同じ大学に通っている。

 喧しいお調子者だがお人好しで憎めない男だ。

 馨の恋人がいなくなったと分かったときも、ずっと彼なりに励まそうとしていた。

 

「はい」


 着信に応答すると、明るい声が耳に入ってきた。


『もしもし! お前起きてるか!?』

「……うん」

『俺、今お前んちの近くのグリーンマートにいる! 来い!』

「……え?」


 馨は突然のことに少し困惑した。

 勿論、会う約束をしていたわけではない。

 そもそも今の馨にそんな気力がないことを悠大は知っているはずである。


「……なんで」

『いーから! ダッシュ! 5分で来い! 遅れたら罰ゲーム!』

「いや……、うん……分かった」


 馨がぼんやりと返事をすると、ぶつりと通話が切れた。

 彼の目的は謎だが、とりあえず行くだけ行こうと思った。

 周りを見回し、ソファにかかっていたカーディガンを見つけて羽織る。


 足を動かす前にもう一度、寝室のドアを見やった。

 何の音も声も聞こえない。


 幻覚は馨の頭から消え失せてくれたのか。

 それとも一時いっとき症状が落ち着いているだけなのか。

 どちらにせよ、おかしくなった当人がいくら考えても答えが出るものではない。

 馨はなぜか後ろ髪を引かれつつ思考を振り切り、玄関に向かった。


 ◇


「やっと来た! おっせーなぁ!」


 家から徒歩5分ほどにあるコンビニ。

 着くや否や、悠大がわざと不機嫌そうに言った。


「……ごめん」


 馨は何も言い返さず謝る。

 すると悠大は金茶色に染まった頭を掻いて、やりづらそうに目を逸らした。


「や、まあ反省してんならいいんだけど。じゃ、さっさと買い物しようぜ!」

「……買い物? ……何買うの」

「そんなの決まってんだろ。お菓子と酒とツマミよ!」

「さ、酒? なんで?」


 今は昼時である。

 二十歳になってから悠大は何かにつけて「酒、酒」と言うことが多くなったが、それにしてもあまりに時間が早すぎる。

 その上、どこで飲むというのだろうか。

 馨は嫌な予感がした。

 それを知ってか知らずか、悠大は不敵に微笑む。


「へへ! 今日はお前んちに泊まる。そんで酒盛りしながら、徹夜で新作ゲームをやる!」

「なっ……いや、ちょっと待って」


 馨は焦った。真っ先に頭に思い浮かんだのは、衣装ケースバリケードの置かれた寝室のドアだ。

 悠大を家に泊めるなら、あそこを開けなければならない。

 もしもまた幻覚が見えてしまったら。


「もう決めたもんね。ほらさっさと買い物すっぞ」

「悠大、ちょっと待てって……!」


 コンビニに入って行こうとする悠大を引き止める。

 彼はぎょっとしたような顔をしていたが、馨は気にしなかった。


「俺の家は、やめた方がいい。何か、変なのがいるから」

「は?」

「閉じ込めてるけど、お前に万が一のことがあったら危な……」


 そこまで口走ってから、馨は自分がおかしなことを言っているのに気がついた。

 あれはただの幻覚で、実際は何もいないはずだ。

 なのになぜ、実在しているかのように話しているのだろう。


「あれ……? なんで、俺……」

「おい、馨」


 混乱の渦に飲まれる直前で、悠大に肩を掴まれた。

 我に返って顔を上げると、彼は不思議そうな表情で馨を見ていた。

 

「お前寝ぼけてんのか?」

「い、いや……」

「変なのって何だよ。ゴキブリか? んなもん俺はもう慣れたぜ。代わりに退治してやんぞ?」

「……違う、そうじゃなくて、……いや、もしかしたら何もいないかもしれないんだけど……」


 そう言いかけたところで眩暈がし始める。

 思わず口を閉ざすと、悠大に腕を掴まれてコンビニの中に連れて行かれた。

 

「あーあ。お前のこと、もっと気にかけてやりゃよかったな」

「え……」

「お前そんな落ち込むタイプじゃないからさぁ、大丈夫かなって勝手に思ってた。長い付き合いなのに、気づけなくて済まんかったわ」

「……」

「ほら! お前も好きなもん買え、なっ!」


 酒のコーナーの前まで行き、背中を叩いてせっつかれた。


 頭の中では様々な思考や感情がコードのようにぐちゃぐちゃに絡まっている。

 何もかもに疲れ果てていた。

 酒は得意ではないが、飲んで友人と話していれば気が紛れるのだろうか。

 疲労と憂鬱を頭の隅に追いやり、馨はショーケースに向かい合った。


 ◇


 コンビニで大量に買い物をし、悠大とともにアパートの自室に辿り着いた馨は、鍵をポケットから取り出した。

 家の中で見たものが幻覚であるとは分かっていても、ドアを開けるのが少し怖い。

 もたついた手つきで解錠してドアを開けたとき、


「あ、ちょっと! 一花いちはなさん!」


 突然、男性の声が聞こえた。

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