第三話 うわさ

「は」

 柊子の葛藤を嘲るかのように、卓朗は短く嗤った。

 歪んだ笑みだった。

「俺はこどもは好きだよ。他人であれば全く呵責なく愛せる。だけどな、自分のこどもとなると別だ」

 卓朗は視点の焦点を空に置いた。口に出すことすら忌まわしいものを腹に抱え、血ごと吐きたいとばかりに呪詛を綴った。

「俺を通して、父や母、姉の血がこれ以上、この世に残るのかと思ったら虫唾が走る。甥と姪でさえ、俺を助けてくれた義兄の血が半分あるって思わないと無理なくらいだ。自分のこどもだけは絶対にいやだ。どうしてもこどもが欲しかったら血の繋がっていない養子にする。絶対に……でもな、柊子」

 卓朗は、つと柊子の顎を指で辿った。

「君が、俺の遺伝子を受け入れて、俺とのこどもを残してもいいなら別だ。俺は、たとえ俺の遺伝子が入っていたとしても、君の遺伝子を持ったこどもなら愛せる」

 柊子は離れようとした。しかし、卓朗に顎を掴まれた。

「君が、俺のこどもが欲しいのなら、君も協力してくれ」

「無理よ、私は、だって」

「体外受精と、代理出産という手がある」

 柊子は息を飲んだ。

「君が、俺の子を残したくて、そのために柊子の卵子を提供してくれるなら、俺は喜んで子孫を残す。君が望むなら、俺はいくらでも金を積む。柊子」

 口づけをするのかと思うほどに、二人の顔が近づいた。

「それが君の望みか?」

 柊子の手を、卓朗は取った。卓朗の手はあたたかだった。

「違うんだろう。君は本当に嘘が下手だ」

 柊子、と囁く息が、柊子の頬にかかった。

「君は何を隠している」

 卓朗は顔を歪める。笑みでなく、痛みを堪えるように。その表情によって柊子の中に生まれたのは、罪悪感と、何故か既視感だった。

「何が怖いんだ」

「こわい」

 恐怖はあった。ずっと恐ろしかった。

「あなたは、わたしの……」

 卓朗は目を眇めた。柊子が何を言い出すのか、息を潜め待っていた。

「うわさを、きいた……?」

 ぎり、と手が握られた。痛みに肩を奮わせる。柊子の目の前で、卓朗は怒りも露わに柊子を睨んだ。

「ふざけるなよ。君は!」

 卓朗は息を飲み、大きく息を吸って吐いた。

「結婚する前、君は男を知らないと言った。実際、柊子を抱いたとき、全く経験がないんだってすぐに分かった。柊子が無垢だったことを、俺が一番よく知ってる。……そんな俺が、あの女の言う、君が誰とも知らない男のこどもを堕胎して、それで子宮を傷付けてこどもを産めないからだになったとかいう戯言を、信じると思っていたのか?」


 ──誰とも知らない男のこどもを堕胎して、それで子宮を傷付けてこどもを産めないからだになった──


 吐き気がする。

「いまは……そんなことに」


 ヒュと喉が鳴った。

 消したい。


 消えてしまいたい。


 血の気をなくしていく柊子を目の当たりにし、卓朗は怒気を消し去った。

「柊子?」

「……そんなことになっているの?」

 言うなり、柊子は口を押さえた。立ち上がろうとして、足がもつれて床に手をついた。体に力が入らない。

「柊子!」

 胃からせり上がってくるものがある。えずき、口を押さえた柊子の背を卓朗が抱いた。

「我慢しないでいい。柊子」

 全身にじっとりと汗が湧き出てくる。息をするのも辛かった。

「横になれ」

 柊子は床の上に伏した。卓朗は自分の部屋からタオルケットを持ってきて、柊子をそれでくるんだ。

「無理するな。このまま横になっていたらいい。動かしても大丈夫そうなら、俺がベッドに連れていく」

 柊子は、青い顔をしている卓朗を見上げた。心配そうな顔を見たくない。自分のなかの嫌悪感を持て余すようになった。

 涙が伝って、卓朗のタオルケットを濡らす。それさえも辛い。

「ごめんなさい」

 柊子が謝るのを聞き、卓朗は顔を寄せてきた。

「謝らないでくれ」

「……わたし」

 あなたに、迷惑ばかりかけている。

 卓朗は顔を歪ませた。

「柊子」

「帰りたい」

「……どこに?」

「もういや、帰りたいの」

「柊子」

 どこに帰りたいかなど分からない。ただ卓朗の傍にいたくなかった。

 卓朗をこれ以上、汚したくなかった。

 柊子が愛して止まない創造主を、自分について回る穢れで、彼までも道連れにしたくなかった。

 それだけは。


 それからしばらくして、柊子の体調は落ち着いた。しかし卓朗は柊子の傍から離れようとしなかった。夜も、柊子の部屋で寝ると言って聞かない。卓朗は自分の部屋から寝具を一式持ってやってきた。

 布団を二つ並べて、二人は一室で眠った。薄暗い部屋の中で、お互いのひそめた呼吸音がある。卓朗も眠っていないと柊子にも知れた。

 こんなふうに枕を並べることは稀だ。片手で数えるほどしかない。

 新婚なのに。

 彼は柊子を一度しか抱いていない。何か失望させて、自分はもう女として必要とされていない、下手をしたら家政婦としても要らないのではと、柊子はそう思っている。

 優しさを与えられるのが辛かった。憧れの、好きな人と結婚ができて有頂天になっていた無知な時間は過ぎた。今は後悔している。

 愛している人を失望させてしまう。それだけではない。自分のせいで、大切な人の名誉まで傷付いてしまう。

 帰りたい。

 帰る場所などもうないというのに、ただ帰りたかった。

「帰るか?」

 背中から問われ、柊子は驚いて体を起こした。振り返ると、卓朗はいつの間にか音も立てずに上体を起こしていた。

「柊子が帰りたいなら、実家に」

 柊子は卓朗に対し体を正面に向け、それからゆっくりと、首を否定の形に振った。

「あそこは私の帰る場所じゃないの」

 暗い部屋で、卓朗がどういう表情を取ったのか柊子には分かりにくかった。

「どうして。実家だろう?」

「それはそうなんだけど、私のものはなにもないの。十五歳までは育った家だけど、全部捨てたから」

 相変わらずの暗い部屋であるのに、次は卓朗がどんな顔をしているのか柊子に分かった。彼は顔を大いにしかめていた。

「捨てた……君が?」

 何故だろう。彼は、ほんの少ししか一緒に暮らしていないのに、柊子の本質を理解しているようだ。信じられないと言いたげな問いを聞き、柊子は項垂れた。

「卓朗さんの方が私のことを分かってる」

「柊子」

「そうなの。今も後悔してるの。ずっと後悔してる。全部捨てたことを」


 最初の大きな離別は母だった。

 次のそれは自分の臓器。

 次は家。

「自分の家が大好きだったから、捨てた」

 卓朗は黙っていた。だが、柊子がそれ以上何も言わないでいると、彼も柊子に対し体を正面に向け、布団の上であぐらをかいた。

「柊子には辛かっただろう。どうして」

 嘘でなく、愛想でもなく、本当に知りたいと思ってくれている。それが分かるのも、そう思ってくれることも嬉しく、安堵もした。

 理解してくれることも。

 卓朗になら話すことができる。彼は辛抱強く待ってくれる。彼のうちにある博愛の精神で以て、途中で柊子が辛くなったとしても、今は見捨てないでくれる。それが分かり、心強い。

 だが、記憶が反芻されたとき、やはり柊子の声はひび割れていた。

「こどものとき、お父さんが机とベッドを作ってくれた。姉とおそろいだった。学習机の上にベッドがあって。あのときは小さくて、一人部屋はまだ心細かったから姉と同じ部屋で、だからコンパクトにって。私たちが大きくなったら部屋をリフォームするから、そのときにはベッドが下になるって。私はそのときをずっと待っていたのに、その夢は叶わなかった」

 父が見せてくれた設計図は、まだ脳裏に描けるのに。

「何があったんだ」

「病気になったの。同じ時に、母が子宮頸がんで入院してて、もう長くないって、言われなかったけどなんとなく分かって……同じ場所が痛くて、言えなかった。怖くて、自分も母のようになってしまうのかって……それに、兄が受験で、姉が家のことを大半してくれてて、迷惑をかけられないって思ってた。最後には、私は学校で倒れたの」

 腹痛が耐えられず、脂汗を流して蹲った。座っていることさえ辛く、場所を顧みず横になった。その後、目覚めたときには病院のベッドの上だった。

「入院して、そのあいだに母は亡くなって、お葬式にさえ出られなかった。退院してから学校に通って。……三年生になって、修学旅行で、ホテルの大浴場に入ったの。服を脱いでいたとき、皆が私のからだを見ているような気がして」

 ぞくりとした。いつになっても悪寒がする。

 忌まわしい思い出。

「三年生になってから、転校してきた女の子が一人クラスにいた。彼女が、私のからだを……お腹の手術跡を見て言った。桐島さんて、こどもを産んだって本当だったんだって」

「……ああ?」

 卓朗は、柊子が何を言ったのか意味が汲めなかったのか、やけに険しい相づちを打った。

「そのクラスメイトがお風呂場で私にそう聞いてきたとき、クラスの皆が一斉に笑って……一番、仲良しだって思ってた子が、一番、笑って。……どうして本人に聞いちゃうかなって笑って……それで、クラスの皆も、そう思ってたんだって知って」

 喉が引きつった。

 彼女の笑顔を今でも思い出せる。楽しそうな中に、ざまあみろとでも言いたげな憎しみがあった。彼女は、柊子がアナウンスの発表会で賞を取り、全校生徒の前で表彰されたあの日から、柊子の粗を探してはそんな目で見ていた。校長先生が、賞状を読み上げる前に、柊子の名を確認したのだ。「これはとうと読むのかな」と。その後で彼女は言った。

 ──ひいらぎでとうって読まないのに、名前を付けたひと、辞書も引かなかったの?


「柊子」

 労りを含めた呼び声にはっとした。現実に戻ることができた。柊子は大仰に息を吸った。

「それから、私はもう学校に行けなくなってしまった。しばらくは家にいて、たまたま、回覧を持ってきてくれた近所のおばさんが、私が家にいるのを見て、言ったの。柊子ちゃんが流産したのは、母親が病気で目を離したすきに遊んだんだろうって言う人がいたって。嘘言うんじゃないって怒っておいたからって……。そんな噂になってたの、全く知らなかったのに」

 卓朗はまず悪態をいた。

「……それは、嫌がらせじゃないのか?」

 柊子も同じ事を思った。善意なのかもしれないが、あまりにも配慮に欠けている。いっそ悪意かと勘ぐりたくなるほどに。やってやったわよという晴れがましい笑顔が柊子を奈落に落とした。

 柊子の当時のクラスメイトも。周囲の他人も。

 そうして柊子は居場所を無くされた。元々広くなかった領域を、端から蚤で少しずつ削り落とされて、細くなった線の上に立たされて。最後に、周りは笑いながらそれを折った。

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