第五話 水の女
柊子はそのミニチュアの家を、一心に見ていた。
卓朗と柊子は、ある観光施設に来ていた。山の一角にいろいろな施設が建ち並び、好きな場所に入ることができる。午前の一番に卓朗と柊子は、二人が最も見たいと思っていたミニチュア工芸館にきていた。
精巧な細工がいくつも並ぶなか、とりわけ柊子は家と家具を念入りに見ている。しかもほおっと感心したようなため息をつき、全ての角度を堪能し、最後に遠目で見る。絵画もこのような閲覧をする。
物作りに関わっている仕事をしているのは、そういう一面もあるのだろう。彼女は人の手で作られたものをとても愛する。
なかでも、彼女が愛しているのは家だ。ニュアンスとしては、「a house」ではなく「the home」。ミニチュアに動物なり人なり、そこに暮らすものが付随していると顔を綻ばせる。絵画も静物画より、何かしら人物が含まれたもののほうを好む。
ただ、彼女の視線の中には単なる愛情だけが含まれているのではない。哀惜のようなものがある。それが人に対してなのか、もの、もしくは家に対してなのかが分からない。柊子は、かつて手にしていた大切なものを失い、それが二度と手には入らないことを惜しみ悲しみ、しかし慈しんでいる、そんな顔をする。
彼女は十四のときに母親を病気で亡くしている。そこも関係するのかもしれないと、卓朗は勝手に想像している。
おそらく柊子自身も、自分がどんな顔をしてそれらを見ているのか知らないだろう。
卓朗はその柊子の横顔が好きだった。
同時に、彼女が身の置き所をなくしているような佇まいを見せるのが哀れで──知らない場所に連れてこられた異質ないきもの、セイレーンが居場所を探し嘆いているようで──彼女を安心させたいと願う。
君が望むなら、どうか俺のそばにいてほしい。君が安心できる家を俺が造る。
卓朗はいつしか、そんなことを考えるようになっていた。
その願いと、柊子自身への情愛を、それを持って卓朗は柊子に求婚した。
柊子はそれを受け入れた。
婚姻届の提出も終え、柊子が卓朗の住むマンションへ越してくることになった。
柊子は妙に引っ越し慣れていた。何より驚いたのは、彼女がほとんど家具を持っていなかったことだ。
正直、まさかと思った。だが、本当に柊子の荷物の中に、大きな家具がほとんどなかった。家具はレンタルしていたと聞き、何かの冗談かと思っていた。
あの、家具を、家を、人が造ったものを愛する彼女が。
所持品も少なかった。必要最低限のものしかない。日々の暮らしを彩るインテリアなどの類いが一切なかった。
卓朗でさえ、好きな絵を飾っているのに。
新しい部屋は、柊子を構成している核が全く覗えない。
近くなったのに、彼女の異質さと、彼女が持つ心細さがさらに増した。
そんな気がした。
一緒に生活するなかで、さらに不可解な部分が増えた。
愛おしそうにものを見つめるのに、それをすでに諦めているかのような顔もする。欲しいのであれば買うなり、欲しいと言ってくれればと思うのに。彼女はまるで手の届かないところにある美しいものを、指をくわえて羨望しているだけの挙動を取る。
ならばとそれを卓朗が買うと、動揺し、辛そうな顔をする。
意味が分からない。
だが、一旦身近に置くと、やはり柊子は自分のものをとても愛する。卓朗が贈ったブレスレットを身につけたとき、時々それを眺めてはうっとりと微笑んでいる。
卓朗が贈ったオオサンショウウオのぬいぐるみは、柊子の部屋の中で生息しているかのように、日々至るところに移動していた。窓の手前でひなたぼっこをしていたり、畳まれた洗濯物の上で遊んでいたり、布団の中で休んでいたり。柊子は部屋の中にいるときは、あれを連れて歩いているようだ。それほど気に入ったのかと思ったのと同時に、ならば何故、あのときには必要ないなど言ったのか。
そして、彼女が切望していると思っていた家に、彼女は怯えた。
どうして、そこまで一途に見つめながら、必要ないと言い張るのか。
川口巌夫記念館を歌うように称え、至上の楽園のように見ていた同じ目で、あまたの家や家具を見つめるのに、そばにあることを嫌がる。怯えて隠れ、逃げようとする。
卓朗は少し意地になっていた。
それは決して安い買い物ではなかった。だが柊子に喜んでほしかった。
彼女は崇高さを称える眼差しで見ていた。巨匠のデザインした椅子を。
柊子は、土曜の午前に仕事で外出し、終えたあとに、柊子の師匠である三柴の家族と昼食も食べてくると、前もって卓朗に伝えていた。卓朗はそれを利用し、その日の午前に椅子を届けてもらった。
大きな窓の手前、リビングにNo. 45の椅子が二脚ある。見た目は壮観だが、卓朗は不安だった。
これで嫌な顔をされたら、立ち直れない。落ち着くことができずそわそわと自室とリビングを往復していた。
午後三時くらいになり、柊子が戻ってきた。玄関で鍵が開けられる音が聞こえ、卓朗はいそいそと玄関まで彼女を迎えに行った。
「卓朗さん?」
「おかえり」
「ただいま」
柊子はびっくりした顔をしていた。それはそうだろう。自分はこれまで、こんなふうに彼女を出迎えたことがない。しかし逸る気持ちを抑えられず、卓朗は彼女の荷物を取り、手を洗ってきた柊子をリビングまで先導した。
柊子は入るなり、目を見開いた。
「柊子さんの椅子」
新しくやってきたフィン・ユールの椅子の背に立ち、背もたれに手を置き、卓朗は恐る恐る柊子の顔を覗った。
彼女は今にも倒れそうな顔をしていた。
「俺からの結婚祝い。これなら、喜んでくれるかと思って」
我ながら弱い、阿るような聞き方だ。必死だった。全く表情を変えない妻に、卓朗はますます焦っていく。
柊子の血の気が引いた顔は、ゆっくりと表情を作っていった。
それは嬉しそうではなかった。卓朗の心臓がどくりと、鼓動を早くしたとき、柊子は涙を流した。
ほんの少しだけ、小さな笑顔を見せたが、それをはっきりと認識する前に柊子は顔を伏せた。
涙が彼女の頬を伝って顎から落ちた。
何が、君をそうさせているのか。
何故、それを俺に話してくれないのか。
様々な思いを抱えながら、卓朗は柊子の前に立った。
「どうして、分かるの?」
何も、俺には何も分からない。どうして君が泣いているのかさえ。
そんな複雑な顔をして。
柊子は手で顔を覆った。その手を握り、顔を見て、何故かと問いただしたかった。
「卓朗さんが、あなたの先生のものだった、修理前の椅子を私に見せてくれたときから、ずっと、想像してた。No. 45の椅子に、それぞれ座って、一緒に……わたしの、夢だったのよ」
じゃあ何故、そんなふうに泣くんだ。
その言葉が声に出ていたのか分からない。柊子は顔を上げた。
「嬉しい」
その感情が本心なのか分からない。ただ、泣く彼女の姿を見るのが辛く、衝動的に手を出した。それでもまだ、卓朗は遠慮がちに抱きしめる。その弱さに抗議したいのか、柊子が卓朗にしがみついてきた。
ふつりと、部屋が暗くなったような気がした。水中に引き込まれたかの如く。
水の精は、水の香りがする。
卓朗はそれを知った。
卓朗はベッドの上で肘をついた。しわくちゃになっているシーツの上、ごく間近で柊子が横になっている。起こそうかどうか迷っていたとき、自発的に柊子が目を開けた。
すぐ隣で横になっている卓朗と目が合ったあと、柊子はシーツに顔を埋めた。
「ごめんなさい。恥ずかしい」
分からなくはない。卓朗も照れてはいるのだが、柊子の行動が可愛いと思ってしまい、自分の羞恥はどこかへいった。
しかも。
「柊子」
彼女は懇願した。こともあろうに、受けれたあのときに、さんはいらない、柊子と呼んでほしいと。
愛おしさだけを捧げたいのに、暴力的な劣情を、押さえることにも必死になった。
「夜、どこか食べに行くか」
柊子は薄目を開け、ちらと卓朗を見上げてきた。赤くなっているまぶたに触れたくなった。さっきまで、散々唇で触れたそこに。また。
「いや」
柊子は手を、卓朗の脇から背に回してきた。優しい肢体に絡みつかれ、卓朗は掠れた息を吐いた。
「外にいきたくない。なんだか、恥ずかしくて。……それに、あの椅子に座ってあなたと呑みたい」
それはそれで難しいと卓朗は思ってしまった。
小一時間後、二人は念願の、フィン・ユールNo. 45で向かい合って腰掛け、美晴がくれたオリーブをおつまみにお酒を呑んだ。
サイドテーブルが欲しいと、卓朗は思った。この椅子に合うものが。
しかし口に出すことができなかった。
柊子も、ソファとセットで使っているローテーブルに置いてあるオリーブをじっと見つめている。
少し距離があるそれを、どんな感情で見ているのか。卓朗はそれを確認することもできなかった。
スーツを着ていく職場ではない。それが、今の職を選んだ理由ではもちろんないが、時々スーツを着なければならないときはある。それが卓朗はいつも面倒だと思っていた。
今朝、ジャケットとネクタイを持って自室から出た卓朗を見て、柊子は目を見開いていた。
「珍しい」
食事のあいだ、柊子は箸をときどき休めては卓朗を眺めていた。しかもなんとなく嬉しそうだ。女性は男のスーツの格好に弱いと聞いたことがあるが、卓朗からすれば妻の意外な一面を見た気がした。そんな普通の女性のような感覚があるのかと。悪い気はしていないがこそばゆい。
「それ、川口巌夫記念館で初めて会ったときに着ていたスーツよね」
そうだっただろうか。思い出せない。柊子は始終ニコニコとしていた。
出掛ける前に、柊子は卓朗のジャケットを取り、袖を通して下さいというような動作をした。卓朗は照れつつも促されるままに袖を通す。
「昔、お母さんが、お父さんにこうしてたのを思い出した。お父さんも、たまにしかスーツを着なかったの」
喜ぶ柊子の口を卓朗は凝視した。塞いでみたいと思ったとき、柊子が視線を上げ、卓朗の顔を覗き込んできた。
二人とも、そのまま固まってしまった。柊子が何か言おうとしたのか、口を動かしたときに卓朗も踵を返した。
「行ってきます」
「あ、い。いってらっしゃい」
口づけをしたら枷が弾けるに違いない。その確信があった。
卓朗は出勤し、それからチームの皆とクライアントとの打ち合わせに向かった。
今回の依頼では、卓朗は設計のサブとして入る。メインで関わるのは、川口巌夫記念館のデザインに携わったとき、卓朗にベンチを置いてはどうかと助言をくれた先輩、福海だ。
上司が一通り説明したあとで質疑応答に入った。クライアントは卓朗に目を向けた。
「設計士さんは、松井さんにお願いすることはできますか」
「福海では何か問題がありますか」
「そういうわけではないんです。ただ、松井さんは先日、大野賞を取られたでしょう。ですので」
ネームバリューなど、しかも一般人にさほど知名度のないものを、そんなに気にするものなのか。卓朗は口を出そうとしたが、福海が卓朗に目配せをした。
上司が要望として社に持ち帰る旨を伝え、それから次回打ち合わせの日にちを決め、一行は帰社した。定時前、社内で他のチームも参加した話し合いの場が設けられた。
「私は今、他の現場にも関わっています。メインは難しい」
卓朗の言い分に、他の皆はうなずいたのだが、福海は手を挙げた。
「松井の今の仕事は私もフォローします。彼にもデザインを出させて下さい。その上で判断をお願いします」
まだ時間があるならと福海は付け加えた。
「福海君、君の負担も増えるぞ」
「私は問題ありません」
福海はどうだとばかりに、卓朗に視線をよこした。
「私は……」
「待ちなさい。君たちだけで決めていい話ではない」
言いかけた卓朗の言を上司が止めた。メンバーの仕事の進行具合を確認し、移動可能のタスクを照らし合わせ、話し合いは一旦休憩となった。
卓朗は福海と共に、休憩スペースにきた。カップの珈琲を手に取ってから、福海はやはり挑戦的な顔を卓朗に向けてきた。
「デザイン、できるしやりたいんだろ?」
「やりたくないことはないですけど」
「遅かれ早かれ、こうなるだろうなとは思ってたんだよ」
福海は珈琲をすすった。
「川口巌夫記念館を建てたような人間には、もう安い依頼は回ってこないぞ」
「ですけど、場数では全く俺は」
「そういうことじゃないんだよ。うちも、O社が取ると思ってた仕事がお前のおかげで取れた上に、大野賞までついてきたからな。まだ旬なうちにお前を使っておきたいってのもあるだろう」
黙っている卓朗に、福海は笑った。
「いっそ駆け上がってくれた方が嬉しいね」
「はい?」
「俺も人間ができてないんで、お前が俺と同じ立場で俺の近くでウロウロしてると腹が立つんだよ。だからさっさと、名前を上げてフリーになって退社してくれたほうがありがたい」
卓朗は顔をしかめた。
「そんな簡単にいくわけないでしょう」
「分かってるよ」
分かってるんだよと、福海は複雑な顔でまだ笑っていた。
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