第二話 ずっと振り回される男

 柊子はとにかく「予測できない女性」だ。疑り深いと自負している自分の、いろんな方向を予測する、さらに斜め上を彼女はいく。会って三分もしないうちに帰りたいなど正直に言う女など知らない。

 にも関わらず、柊子は卓朗を崇めるように見つめてくる。確かに卓朗はクリエイターの端くれではあるが、建築という分野で、初対面の人間に先生と言われたのは初めてだった。

 ただ、柊子の叔母、桐島美晴も家具のデザイナーである。美晴は身体障害者に向けたそれの設計をしている。その功績が認められ、美晴も大野賞を取った。建築分野とはいえ、デザイナーを先生と括るのは柊子にとっては自然なことなのだろう。卓朗自身も諸先輩方を先生と呼びたくなるときもある。

 それはさておき、まるでアイドルか俳優にでも会ったかのように見つめられるのはこそばゆかった。居心地もよくない。

 エレガントで、少し遠慮がちで、なのに、こちらを──男を称えるように見つめてくる、美しい女性。

 そしてあのときと同じ、彼女は歌でも歌っているかのように優雅に言葉を綴る。

 計算なのかもしれない。彼女の叔母の美晴も初対面の卓朗を試した。桐島美晴に悪い感情はないが、そういう気質を持った親族という気構えのようなものはあった。

 不慣れなフリをしているのであれば、それはそれでなるほどと思える。彼女もまた値踏みしているのだ。それは当然だ。

 その方がやりやすい。

 仕事の話になると頼もしい顔になった。自分の仕事にプライドも持っていて安売りはしない。やはりいい仕事をしている彼女の叔母から、その辺りの気質は継いでいるようだ。

 だが柊子は時々、未知なる世界に唐突に連れてこられたように、身の置き所に困っているかのようにふるまう。それも演技なのかと勘ぐるも、目が離せなかった。

 胸に湧く猛烈な庇護欲が、自分でも息苦しいと思えるほどだった。


 卓朗は、柊子が話題を出してくれたのもあり、しばらく絵の話をしていた。柊子も絵が好きだというのは嘘ではなかったようで、絶妙のタイミングで相づちや質問を投げてくる。最初より彼女もリラックスしてきたように見え、それに後押しされ卓朗はずっと喋っていた。一息入れるために持ったカップが空で、卓朗は我に返った。

 喋りすぎた。

 柊子は視線を、彼女の空のカップに置いている。ポットは大きく、中身はまだ残っているはずだ──と、そこまで考え合点がいった。なんということはない。彼女が身の置き所に困っているのは、もう帰りたいからだ。だからお替わりを注がないのだ。

 恥ずかしい。いいように持ち上げられ調子に乗ってしまった。値踏みされ、転がされ、自爆してしまった。

 お詫びにこちらから引導を渡すべきだと判断した。

「今日は、このくらいで失礼します」

「はい」

 卓朗の思った通り、柊子は早々に同意した。取り繕う気さえ起こしてもらえないらしい。こういうものは縁だからと、先日会った友人は繰り返していたが、なるほどああして何度も言った意味が分かった。

 分かっていても断られるのは傷付くもんだ。

 卓朗が伝票に手を伸ばすと、柊子もそれを取ろうとしていた。彼女は驚いて手を引いた。

 こういう場は男が払って、折半をするつもりなら店外で交渉というのが形式ではないのか。折半の交渉をするにも、いきなり伝票を取るのはどうなのだろう。それとも自分のこの考えがもう古いのか。

「済みません」

「こちらこそ、失礼しました」

 再度、卓朗が伝票に手を伸ばしたとき、柊子もまた同じ行動をして、今度は彼女の手が卓朗の手を覆った。

 柊子の手は、卓朗が身構えてしまうほどに冷たかった。まるで水から出たばかりのような。

 柊子はひゃっと、妙に可愛らしい声を上げた。

「済みません! わざとじゃないんです!」

 言いようが妙で、卓朗は笑いそうになった。

 焦っている様子が面白い。しかも、断られるのだろうというやけくそな気分もあり、つい卓朗は意地悪な気分になっていた。

「……わざとじゃないんですか?」

「違います深層心理はあるかも知れませんが!」

 最初のちょいワル親父の件といい、どうも彼女の中のジェンダーの概念は薄いらしい。男女が逆であれば納得できようものの、彼女が「加害者側」思考を持っているのが面白かった。

 卓朗はようやく伝票を取った。

「わ、私の分を」

 柊子は言いながら財布を出し、それを転がして落とした。彼女の財布を拾いながら、卓朗は柊子の顔を覗き込んでみた。

 もしかして彼女は本当に、緊張してパニックになっているのだろうか。

 まさか。こんなに美しく、男に奉仕され慣れているような洗練された女性が?

 それこそ食事など、奢られ慣れているように思えるのだが。

 会計を済ませ、卓朗と柊子は共にホテルのフロアの隅で足を止めた。

「今日はありがとうございます」

 卓朗が改まって礼を言うと、柊子も深々とお辞儀した。

「こちらこそ。貴重なお時間を割いて下さってありがとうございます。卓朗さんとお話ができて楽しかったです」

 笑いそうになった。実際笑ってしまったかもしれない。彼女から「楽しそう」という雰囲気などほとんど受け取らなかったのに。

 しかも腹立たしいことに、お世辞でもそう、一言貰えたことが嬉しかった。

「楽しかったですか?」

「はい、とても」

 きらりと目を輝かせ、こちらを見上げる笑顔が美しい。

 その礼儀的な仮面を剥いでやりたい。もう一度会ってくれと言ったらどれだけ動揺するのだろう。

「ならもう一度、会って下さいますか?」

 エレガントなスタイルで、どうスマートに断ってくるか。卓朗は挑戦的な気分になっていたが、すぐに我に返った。

 何を、馬鹿なことを。

「失礼しました。逸り過ぎました」

 卓朗のわずかな後悔など全く気にかけず、柊子はにこりと笑った。

「会うって、椅子の修理の件ですよね。ご連絡お待ちしております」

 卓朗は意表を突かれた。それから肩の力を抜いた。

 なるほど、これがスマートな断り方というものか。

 卓朗は頭を下げた。

「すぐ連絡します」

 柊子は快活に返事をして、さらりと踵を返し卓朗の元から去った。

 自分はこのあと、彼女の態度だけでなく、桐島先生からも断りの文句を聞かなければならない。

 気が重いが仕方がない。卓朗はホテルの天井を仰いだ。


 帰宅後すぐ卓朗は桐島美晴に電話をしたが、話し中だった。おそらく柊子と話をしているのだ。しばらくしてからかけ直すかと思っていたとき、桐島美晴から電話があった。

「本日は柊子さんとお引き合わせ下さり、ありがとうございます」

『いいえ。こちらこそ、あの子と会ってくれてありがとう。申し訳なかったわね。変な子だったでしょう』

 卓朗は回答をためらった。これは「あの人(=卓朗)は私には勿体なく」という断りの前フリか。

『本当にごめんなさいね。身内ひいきだと思わないでほしいの。私も、あの子をアシスタントにしているけど、こどもの時から比べたら見違えるほどしっかりしてきた感じがしてたのよ。家具修理の方もね、あの子が師事している先生も、私の知り合いなんだけど、いい仕事しているって言ってね』

 話の筋が読みづらくなってきたでの、卓朗ははあと相づちを打ちながら聞いた。

『まさかあんなに……』

「柊子さんは、私のことで何か不愉快なことがあったと仰ってましたか。なら」

 美晴はすぐに『違うのよ』と言った。

『松井君、あの子にフィン・ユールの椅子の修理の話をしたんですってね』

「はい」

『よほど、それが嬉しかったようで。……あの、この件についても、あの子の腕を見込んで下さったのかしら。お礼を言うわ』

「はあ」

『それで、……その件であの子も、さっき電話をかけてきたんだけど……』

 何度目か、卓朗が「はあ」と相づちを打ったあとで、美晴も何度目かの『ごめんなさいね』を前置いた。

『今回のお見合いを続けたいのか断る気なのか、一切私に言わなかったのよ。椅子の話しかしないの。楽しそうに』

「……は?」

『ずっと椅子の話ばかりで。あなたのことも、聞いてみようとはしたのよ。ごめんなさいね。私も、こういうことは初めてで慣れてなくて』

 だから、と美晴は続ける。

『柊子に直接、聞いてほしいというか……。あ、もし、松井君が断りたいなら、私に言ってくれいいのよ。連絡はその件だったのかしら。ごめんなさい私ったら』

「あ、いえ……」

 卓朗もまだ唖然として、美晴の言うことを完全に飲み込めていなかった。我に返り、こちらから柊子さんに連絡しますと彼女に伝えると、美晴は再度ごめんなさいと謝ってきた。なんとなく卓朗の方が申し訳ない気分になってきた。

『あの子に忖度とか気遣いとか、……いやあの子なりの優しさはあるんだけど、平均とはかなりずれてると思うから、言いたいことはしっかり言ってやって頂戴。構わないから』

 電話が切れた。卓朗は、しばらく呆然と携帯の画面を見ていた。

 夕方になり、卓朗にも柊子に連絡を入れる決心がついた。

 登録した番号にかけると、すぐに繋がった。柊子は相変わらずの、歌うような声にわずか楽しささえうかがわせ、早速椅子の話をした。

 打ち合わせをしながら、卓朗はだんだん暗い気持ちになってきた。

 本当に椅子の話しかしない。電話の相手が、本日見合いをした男だということを忘れているわけではないと信じたい。

「あの、柊子さん。先ほど桐島先生にご連絡しまして」

『叔母もそう言っておりました。お仕事ですか?』

 優先順位が明らかに見合い(小なり)椅子になっている事実に、卓朗の我慢の限界がきた。

 フィン・ユールのNo. 45がプレミアの逸品であることが余計に卓朗の癇に障った。

「あのですね。桐島先生がはっきりと言わないと柊子さんは何も汲まないと仰ったのですが、どうもそのようなので不躾を承知でお伺いします」

 え、はい、という気のない返事があった。卓朗はムキになっていた。

「来週までにもう一度、私と会って頂けませんか?」

 さあスマートに断ってみせろと意気込んでいる。

『椅子の件でしたら、一旦』

 その逃げが何度も通用すると思うな。

「椅子の話ではなく、お見合いの件です」

『えっお見合い?』

 馬鹿にするのもいい加減にしろと、怒鳴りたくなった。呼吸を何度か繰り返して堪え、相手は取引先の相手と思えと自分に言い聞かせ、卓朗はなるべく冷静を心がけ返事をした。

「私と結婚できないと判断したなら断りを桐島先生に伝えて下さい。それが礼儀でしょう?」

 柊子は電話の向こうで、えとかあとか言っている。

『あの、お見合いのお話ってまだ生きているんですか?』

 こちらがそれを聞いているのだが。

「質問に質問を返してしまうのですが、いつ死を確信されたんです?」

『叔母が先に帰ってしまったときに』

「早すぎる……挨拶さえする前ですか」

 ということは、気に入らなかったのは顔、外見だったということか。やはり釣書に写真は必要だったと後悔した。

『その前に私、すでに卓朗さんに失礼な真似を』

 卓朗は瞬いた。それから記憶を引き出した。冷静になって、卓朗は柊子に念押しの質問をした。

「川口巌夫記念館での、ちょいワルおやじがですか?」

『それです』

「そう言いますけれど、ナンパしてくれずにさっさと帰ってしまったじゃないですか」

 こちらの声をかけようとする隙すら与えず、逃げていった。あの白いワンピースの姿を思い出す。あの格好も、もう一度見たいと今更思ってしまった。

 未練がましい。

 そんな記憶に浸っていたからか、卓朗は柊子の言葉をまた聞き逃しそうになった。

『釈迦に説法を』

 ちょいワルおやじの時と同じく、またラテン語でもしゃべり始めたかと思ってしまった。ラテン語が公用語なのはバチカンなので、仏教用語とはまんざら遠くはない(かもしれない)(そして「釈迦に説法」は仏教用語ではない)。

 柊子はしどろもどろと話をしてくれた。

『……川口先生の『山へ』の構図に似てるって、それを作成されたご本人を前に解説しちゃったじゃないですか』

 卓朗はまたも記憶を過去に戻された。

 あのときの、柊子の歌のような感想こそが、あなたに惹かれた理由なのに。

 それを恥じてほしくなどない。

「あれは……」

『あっ!』

 柊子が大きな声を上げ、卓朗は緊張し声を止めた。

『今の忘れて下さい!』

「無理です」

 前頭葉を割られてもできそうにない。

『そこをなんとか!』

 なりふり構わず食い下がってくるのが面白く、吹き出して笑ってしまった。

 同時に美晴の言葉も思い出した。

 一般とは外れている。

 卓朗は肩の力を抜いた。自分は洞察力があると思い込んでいたが、まだまだらしい。

 このエレガントだと思っていた、どうも天然くさい女性のことが読めなくて振り回されている。

「どうして忘れてほしいんです?」

 忖度も気遣いも必要ないという言質に基づき、卓朗は情報を集めることにした。

『だって見当違いなこと言ってるかもしれないって思って。間違ってたらなおさら恥ずかしいじゃないですか』

 柊子は思いのほか、拙い言葉で思いを語ってくれた。

 どうしてなのか、表情を見ていないときより、彼女の感情が伝わってくる気がしてきた。彼女は確かに恥じている。

 顔を赤くしていたらいいと、卓朗は思う。

 そんな姿も見たい。

『忘れてほしいです』

 懇願が本当に哀れっぽい。困っているのだとはっきり知れた。そんな顔も見たい。

 もう一度、会いたい。

「それはおそらく無理なんですが、知りたくないですか?」

『なにをです?』

「柊子さんの考察が合っているのかどうか、知りたくないですか?」

 軽い挑発に、乗ってくれるといいなと思った。自分のことを、クリエイターとして尊敬しているのが本当なら、正解を知りたいと思ってほしい。

 思いを共有してほしい。

『知りたいです』

 俺はバカだ。ほんの一言、それだけで先ほどまでの怒りが解けただけでなく、嬉しくて顔が緩んでしまう。

「なら私と会って下さい。直接お話します」

 柊子はしばらく黙っていた。断られるのかと、卓朗が視線を下ろしたとき、掠れた声がした。

『嬉しいです』

 彼女は喜びを、一節、歌ったようだった。

『お伺いしたいです。もう一度、お会いしたいです』

「……あなたは、本当に」

 俺の予想の全てを越える。

 そして電話を切ったとき、卓朗は口に手を当てた。見ている者など誰もいないのに、その顔を表に出すのが恥ずかしかった。

 もう一度会える喜びに叫び出したかった。


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