第六話 手を繋ぐぬくもり

 食事を終え、卓朗はお手洗いへと一度席を立った。それから店を出ることになり、柊子がお財布を出そうとしたところで会計がすでに済んでいることを知らされた。

 店の外で半額を出すと金額を聞いたが、教えてもらえなかった。

「しきたりなんですよ」

「あれから調べましたけど、お見合いの制度は確かに鎌倉時代からってあったんですけど、お食事代のことはどこにも記載がなかったですよ」

「本当に鎌倉時代だったんですか?」

 卓朗は驚いた声で聞いてきた。柊子はぎゅっと眉根を寄せた。

「あれは嘘だったんですか?」

「え、でも鎌倉時代は本当なんですよね?」

 柊子はあれっと首を傾げた。

「……調べ方が足りなかったんでしょうか」

「ですかね」

 柊子は腑に落ちないままで、卓朗に頭を下げた。

「ご馳走様でした。美味しかったです」

 卓朗は礼儀的な笑みを返し、柊子を促した。柊子は先に階段を上り、後方に卓朗が続く。

「隠れ家みたいなお店ですよね。どのようにして調べられたんです?」

「職場の先輩からも友人からも、別々のルートで食事が美味しい店があると教えてもらいました。先輩の方は女子社員の噂を仕入れてきてくれたそうで」

 卓朗が話をしている最中に、柊子はかくんと階段を踏み外した。

 卓朗に抱き留められ、柊子は階段から落ちずに済んだが、柊子のローファーの片方が音を立てて階段から落ちた。

「大丈夫ですか?」

 柊子は言葉が返せない。柊子は卓朗の肩に顔をうずめる体勢になって硬直していた。

「立てますか?」

 卓朗に冷静な声で尋ねられたが、まだ柊子は立ち直れていない。

「く、くつ、が」

「……ああ」

 卓朗は柊子を腕に抱いたままで下方に視線をやった。

「今から離れますから、手すりに手を置いて」

「はい」

 柊子は支えられたままで手を取られ、それが手すりに置かれた。柊子は体勢を立て直し、靴が脱げた片足の先をちょんと上げて一人で立った。目下で卓朗が柊子の靴を取り、その場に屈んで柊子の足先に靴を置いてくれた。

「ありがとうございます」

「寒いですか?」

 足を踏み外したのは別のことが原因なのだが、ただ卓朗が言うことも確かかもしれない。彼と会っているあいだ、ずっと気持ちが安定せず緊張して震えている。

 落ち着いてなどいられない。

「少し」

 彼は柊子の前に左手を差し出した。

「手をおつなぎしましょうか?」

「はい」

 卓朗から出された手を、柊子は何の躊躇ためらいもなしに握った。卓朗の方がびくりと身を固める。柊子は重なった手の温もりに浸っていた。命綱というより、この衝動は飢えに似ている。手を繋ぎたい、彼の体温が欲しい、いやあたたかさでなく触れあいが恋しいのだ。

 食事であたたかくなった体でも、まだ彼の方があたたかい。

「相変わらず手が冷たいですね」

 彼も体温のことを考えていてくれたのが嬉しかった。

 手を引かれ、柊子は階段を上がっていった。二人とも昇りきったところで、卓朗の手の、握る力が弱くなっていく。その温もりに去られるのが切なく、柊子は逃げられないようにと卓朗の手をきゅっと握った。

 卓朗は無言のままで、再度しっかりと、だがきつすぎない程度に柊子の手を握り返してくれた。

 駅に着き、いよいよ別れるときとなり、お互いどちらともなく手の力を抜いた。柊子はまだ卓朗の温もりが残ったままの右手と左手で、持っていた紙の手提げ袋を卓朗に差し出した。

「これ、一昨日にお茶をごちそうになったお礼です」

 有名なお菓子のブランドの手提げ袋ごと卓朗は受け取り、驚きの顔のままで柊子を見た。

「てっきりご自身のものかと。どうして最初に渡してくれなかったんです」

 恨みがましく言われてしまい、柊子は戸惑った。

「それは、卓朗さんのお荷物が増えるから、最後がいいと思いました」

「いや、荷物って……最初に渡してくれていたら、俺は二時間多く嬉しさを味わえていたはずなのに。勿体ない」

 言質の通り、やや悔しそうな顔が、まるで楽しいことを待たされて不貞腐れている子供のようだった。

 卓朗の方も、はっとしてばつが悪そうな顔をした。それも余計に世慣れないひとのように柊子には映った。

 そんな表情が意外だった。

「次は最初にお渡しします」

 自分の贈り物を、しかも他愛ないそれをそんなにも惜しんでくれるのかと思うと、ついそう口に出てしまった。

「お願いします」

 卓朗もほろりと口を滑らせたかのように返事した。

「じゃあ、次は絵を観にいきませんか?」

 勢いと、願いのまま口に出した誘いを、卓朗もさらりと受け入れた。

「是非。行きましょう」

 柊子はしばし呆け卓朗を見ていたのだが、ややあってはにかみ、やがて照れて顔を伏せた。ぺこりと頭を下げて改札をくぐり抜け、ホームへ降りる階段の手前で振り返ると、卓朗はまだ改札の向こうで柊子を見ていた。柊子が振り返ったので、手を振ってくる。

 柊子も手を振り替えし、名残を惜しみながら階段を降りた。

 もうすでに手が寂しい。

 他人との触れ合いにここまで飢えていたのか。柊子は胸の上で両手を重ね、卓朗の体温を思い出しながら電車を待った。


 翌日、柊子は美晴の家で製図を行っていた。美晴は柊子の作業部屋を用意していて、彼女自身は別室で仕事をする。叔母は仕事中に人が近くにいるのを嫌うからだ。

 朝一番に美晴から一通りの指示を受けて作業し続け、正午十分前に中断した。自分と美晴の分のお蕎麦を作っていると正午になり、美晴が作業部屋から出てきた。

「ありがと」

 柊子がこうして食事の用意をすると、美晴は律儀に毎回礼を言う。だからといって美晴が作ってくれることなどまずない。彼女からすれば姪が作るのが当たり前だとは思っているのだろうが、それでも礼儀は欠かしたくないのか。

 美晴は十五歳の柊子を預かったときからそうだった。

 二人でテーブルに向かい会い、あたたかい蕎麦をすする。

「松井君とはどう、また会うことになったの?」

 柊子は箸を止めた。叔母は蕎麦に視線を置いたまま、食べる手も止めなかった。

「詮索するつもりはないのよ。ただ紹介した手前、どうなったのかなって」

「昨日、一緒に夜ご飯を食べたの」

「あ、そうなんだ」

 美晴は少し声のトーンを上げた。意外そうな言葉の中に嬉しそうな響きもあった。そんな反応をした叔母のことが柊子には意外である。

「先に言っとくけど、もし嫌なら無理することはないのよ。私の顔を立てるとか気にしないで。たまたま受賞式で顔を合わせただけで、もう私と松井君は仕事で二度と会うことなんてないし」

「うん」

 そろそろ蕎麦も終えるころ、柊子は顔を上げた。

「叔母さんはどうして結婚しないの?」

 美晴は咀嚼を止めず、ちらと視線だけを柊子によこした。

「この年になったら、もう生活も確立されちゃって。もうわざわざ他人と四六時中一緒に暮らすなんて考えられないわねえ」

「昔は?」

「それこそ仕事が楽しかったから、誰かと結婚するために人を探すなんてことも時間を取る気がなかった」

「私がいたから、恋人を呼べなかったんじゃないの?」

 美晴は箸を止め、顔を上げた。

「あなたを引き取ったとき、私はすでに四十を過ぎてた。その時に誰もいなかったんだからお察しでしょ」

 美晴はふふっと笑って、おつゆを飲んでいる。

「正直に言うとね、柊子を引き取るって決めたとき、後悔はしてなかったけど、やっぱり多少面倒くさいなって思ってた」

「それは当たり前じゃない?」

「ずっと一人で暮らしていたし。仲のいい兄さんの、そこそこ可愛い姪っ子だとはいっても、上手くいくのかなって不安もあった。でも柊子は遠慮してたでしょ。三年間一緒に暮らしたけど、楽なもんだったわ」

「そんなことはないわ」

 美晴は苦笑した。

「大学に受かって下宿を決めて、柊子がここから出たときは、さすがに寂しくてね。ちょっと結婚も考えたのよ」

 柊子は美晴を見た。

「そうだったの?」

「でもそんな感傷に浸ったのは一週間くらいだったわ。すぐにまた一人に慣れた」

「そんな感じなんだ」

「私はね。柊子が私と一緒かどうかは分からないわよ」

 美晴は、柊子の食べ終えたお椀も取って流しに持っていった。食事を作るのは柊子ばかりだが、美晴は食べた後の食器を必ず洗う。

 柊子が高校の三年間、叔母と過ごした慣わしがまだ続いている。

 柊子の携帯が鳴った。メールの知らせだ。柊子が家具修理の場所を借りている知人、三柴久司からだった。三柴は美晴が懇意にしていた家具修理の職人で柊子の師匠でもある。

「三柴さんからだ。卓朗さんの椅子の件で」

「なんだもう下の名前で呼ぶ間柄なんだ。で、三柴さん、なんて?」

 柊子は美晴の最初の感想を無視したが、顔は赤くなってしまった。

「椅子の修理、一緒に見てくれるって。叔母さん、今の製図は今日三時くらいに一旦完成するから、終わったら向こうに行ってもいい?」

「いいわよ。ありがとう。チェックして明日返すから」

 お願いします、そう言いながら、柊子は三柴に返事を打った。


 その夜、柊子は卓朗に電話をかけた。彼はワンコールで電話に出た。

「こんばんは」

『こんばんは。椅子の件ですか?』

 あっさりと要件を切り出され、その通りではあったのだが柊子は少し残念に思ってしまった。すぐに気を取り直し、実際に椅子の確認作業の日程を決めたい話を進める。同意がついて要件は済んだのだが、柊子は会話の切り上げをためらった。

「あの、昨日もご馳走様でした」

『こちらこそ。チョコレート、美味しかったです』

 食べてくれたのかと嬉しくなり、柊子はほわんと微笑んだ。

「公私混同でごめんなさい」

『え?』

「お仕事のお話だったので」

 電話の向こう側で笑ったような息遣いが聞こえた。

『では一旦電話を切ります。すぐに俺からかけ直しますね』

「え、どうして」

『仕事でない話がしたいので。では』

 柊子が止める間もなく卓朗は電話を切ってしまった。柊子も通話を終了させると五秒後に呼び出し音が鳴った。画面の「松井卓朗先生」の文字を見てすぐスライドする。

『こんばんは』

「こんばんは」

 面はゆさが声に出た。卓朗もしばらく黙っていたのだが、ええと、と取り繕うような前置きが発せられた。

『絵を観に行く件ですが』

「はい。候補を考えてきました」

 そうなんですねと、意外そうでもあり面白そうでもある返事があった。

『椅子の見積もりは今週土曜ですけど、次の日の日曜はどうでしょう』

 間髪入れずに会ってくれようとしている。柊子は口元を緩ませた。

「空いています。お会いしたいです」

『ありがとうございます』

 それから間を持たすことができず、柊子がではと切り上げると、卓朗も止めたりせず通話が終えた。

 椅子の修理は約二週間かかる。

 それまでは確実に縁が繋がっている。

 柊子はそう思い込んでいた。

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