無垢なる獣は孤独な闇に憂う
神崎あきら
第1章
第1話
身体を上下に揺さぶる強い振動に幼子は目を覚ました。泣きはらした瞼には涙が凍り付き、それを指で拭う。
やっと目を開くことができたが、そこはまた闇の中だった。続く大きな揺れに、身体が何かにぶつかった。固い鉄の板だ。床には毛布が乱雑に敷かれていた。
嗚咽が漏れ聞こえた。おそらく自分と同じくらいの小さな子供の声だ。狭く、暗い空間だった。布の向こうでは風が吹きすさんでいる音が聞こえた。それはまるで苦悶の叫び声のようだ。
幼子は恐ろしさに泣き出しそうになった。
「
小さな声で呟く。しかし、兄はもういなかった。目の前で黒服の男に刀で切り裂かれ、冷たい泥と雪の中で血を流して死んだ。もう二度と会えない、暗闇の中で初めてそう実感した。
布の隙間から光が漏れていた。凍える手で布をそっと引いた。外は吹雪舞う真っ白な世界だった。白い闇だ、と感じた。
顔を覗かせると、カーキ色の車体が見えた。これはトラックだ。今、トラックの荷台に載せられているのだ。そして舗装されていない狭い山道を登っている。真下には深い崖が見えた。落ちたら命は無い。
「何してる」
野太い声が聞こえ、幼子は背中を掴まれた。そのまま乱暴に放り投げられる。荷台の鉄板にしたたかに背中を打ちつけ、息が止まりそうになった。男は大きく舌打ちする。
「手間掛けさせやがって、今度余計なことしやがったら外に放り出してやる」
そう言って、また大きく舌打ちをした。暗闇の中で幼子はただ震えていた。もう涙は出なかった。泣いても誰も助けてくれないと知っていたからだ。
トラックが停車した。荒々しいブレーキに、荷台に乗せられた子供たちはゴロゴロと転がった。荷台のロックが外され、幌が開け放たれた。
「降りろ」
恐ろしい声が響く。自力で立ち上がれた子はのろのろと荷台から降りていく。泣きじゃくり、動こうとしない子は大きな腕が伸びて、背中を掴まれ外に放り投げられた。幼子は立ち上がり、自分の足で荷台から飛び降りる。トラックの中でぶつけたのだろう、身体のあちこちが痛んだ。
空は白み始めていた。目の前には切り立つ崖が立ちはだかっている。崖には大きな大仏が彫られているのが見えた。細められたその目はあまりに無慈悲だ。
骨まで凍り付くような寒さに、子供たちは泣きながら震えていた。トラックには3歳から5歳の12人の子供たちが押し込められていた。大柄な強面の男たちが行き来する様が恐ろしくて、子供たちは泣き止まない。
そんな子たちをあやすこと無く、男たちは無理矢理粗末な小屋へ連れていった。言うことを聞かず、動こうとしない子は問答無用で殴られた。
小屋の中の冷たいタイルの上に並ばされ、ぬるま湯を浴びせられた。与えられたボロ布で身体を拭き、床に投げられた不揃いの服を奪い合って着た。
それから、粗末な小屋での生活が始まった。同じ年頃の子が中国各地から集められていた。誰もそれぞれの顔を知らない。親から売られた子、村の畑で遊んでいて誘拐された子、望んでここに来た者は一人もいなかった。
一日三回の質素な食事に、薄い寝具が与えられた。日中は山岳地帯の農園で働かされた。栄養が足りず、厳しい気候の中で命を落とす子供もいた。木で組み上げた荷車に枝のような細い腕が覗いているのを幼子は何度も見た。その後には必ず畑の端で煙が立ち上った。
時々、基本的な読み書きを教わった。皮肉なことに、故郷の貧しい農村では叶わなかったことだ。
「お前らの名前なんぞ知らない。だが、お前らを識別する記号として必要だ」
幼子に与えられた名前は“曹瑛”といった。
命令に従わぬ子供は平然と殴られた。言うことを聞いても、腹いせに殴られることがある。ここにいる男たちは手加減を知らない。殴られたまま動かなくなった子もいた。曹瑛も何度も殴り飛ばされた。
「その目が気に入らない」
そんな理由で殴るものもいた。まっすぐな暗い光の宿る瞳には信念があった。
―殺された兄の仇を討つ。それまでは絶対に生き抜く。
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