異世界帝国編

第22話 新種のトカゲ

 目が覚めた時に水に浸かってた、なんて経験はあるだろうか? ないだろう。俺もなかった。思えば経験してなかった時の俺は幸せだった。それはそれはものすごい焦るので、そんな経験はしない方が良い。


 俺が意識を回復した時、まさにその状況だった。顔半分が水に浸かっていたのである。何かものすごい悪い夢を見ていたはずだが、すっかり忘れた。


 どういうわけだか(どうもこうも水に浸かっているのだが、その時はわからない)大量に水が口の中に入ってくるので、もうこれ以上飲めなくなって目を覚ましたら(そう、俺は寝ながら水を飲んでいたのだ。しかも、川の水を……。フナじゃねぇんだからよ!)、自分が水を飲んでいるのじゃなく、俺が水に飲み込まれそうになっていたのだ。主客が逆である。


 しかも俺は泳げないので(俺が泳げないことは内緒にしていただきたい)、それはそれはもう慌てふためいた。天変地異である。泳げない人間が「目を覚ましたら水の中にいた」時の恐怖を想像していただきたい。いかな俺だって慌てようというものだ。


「ひー、ゴポッ、ひー、ゴポッ、」


 と我ながら情けなくも可愛らしい(そう、どうしたわけか、えらく可愛らしかったのだ)悲鳴を上げながら、必死でもがいたところ、俺の肘が、膝が、あまつさえ腹が、地面を捕えたのである。つまり、その水は浅かったのだ。俺は即座に冷静さを取り戻した。


 どうやら、川に流されていて、岸辺に打ち上げられたらしい。最初はどういう状況かわからなかったが、段々思い出してきた。例えば、旅行先のホテルで朝、目が覚めた時、見知らぬ天井を見上げて一瞬自分がどこにいるのかわからないのに似てる。


 いや、俺が目覚めたのはなわけだから、そんな生っちょろいものではないのだが、まぁ理屈は同じだ。


 立ち上がると膝にすら届いていない浅瀬であった。真っ暗である。夜である。


 なぜ自分が川に流されていたか。優紀のせいである。


 あいつが血迷ったせいで、俺たちは川流れの刑に処されたのだ。川に流されるのは極めて危険である。たとえ膝にすら届かない水深でも十分に溺れてしまう危険がある。それが川だ。


 それなのにあいつは水門を開けやがった。言語道断である。帰ったら叱り飛ばしてやらなくてはいかん。


 しかし、帰るにしてもここはどこだ? 人家の明かりが全く見えん。夜だからだろうか。しかしいくら何でも人の生活の臭いくらいは普通するだろう。それが何にもない。


 にわかに不安になってきた。とんでもないところまで流されてしまったようだ。ただまぁ、明るくなればどこだかわかるだろうし、帰り方もわかるだろう。そして幸いなことに東の方の空が明るくなってきたような気がする。


 しかし如何せん、何も持ち合わせがないので、遠いところまで流されていたら電車で帰ることはできない。そして、どう考えてもここはその「遠いところ」だ。


 歩いて帰るしかないが、そう考えただけでうんざりした。もう優紀は「優紀のおばさんに言いつけるの刑」に処されることは決定的だ。こんこんと説教を喰らうがよい。


 そういえば、葉月さんと原先生は大丈夫だろうか? そして、俺がこんな目に遭ってるという、その事の発端は原先生であることに思い至った。


 あのやろう。何がコリジョンだ。そんなもんねぇじゃねぇか。毒ガス怪獣の話を真に受けた俺がバカだった。もうケムラーの話は二度と聞かん。あいつはマッドサイエンティストなんかじゃない。だ。


 とりあへず陸に上がろう。夏とはいえ、ずっと水に浸かっていたので体が冷え切っている。


 ほうほうの体で岸に上がると、幸いにも目の前に一本の道があった。広くはない道で、なんとなく獣道めいているが、道は道だ。とりあへずこの道を行けばどこかへ通じてるだろう。犬も歩けば棒に当たる作戦だ。


 服が水を吸っているからだろうが、やけに重く、そしてまとわりつく。こんなにも服は濡れると煩わしいものだったろうか。しかし、よくよく考えてみれば服のまま水の中に入ったことはないので(そもそも泳げないからな)、まあこんなもんなのだろう。


 歩いてると、なんだか一気に疲れが襲ってきた。今日、これから学校か。行きたくねぇなー。母ちゃんが起きる前に何とか家に帰りたいけど、ちょっと無理だろうなぁ……。怒られるかなぁ……。


 道を行くと、左右の森から徐々に鳥たちの声が聞こえ始めてきた。いよいよ夜明けが近づいているようだ。そして丁度方角が東なのだろう、道の行く先がだんだんと明るくなっていく。


 視界が良くなるにつれて、あることに気付いた。どうも俺が行くこの道の先がようなのだ。地面が途中で途切れている、つまり崖っぽいのだ。


 歩くにつれ、不安が大きくなっていった。だんだんと焦り、だんだんと歩みが速くなる。しまいには小走りになっていった。そして、もうちょっとで道が途切れている、その先が見えそうなところまで来た時、繁みの中から急に何かが飛び出してきた。


 囀りながら出てきたので、一瞬鳥かとも思ったが、鳥にしてはやけにデカい。小型の犬くらいはある。そして、そいつも小走りに走って来た俺に一瞬驚いたようで、立ち止まってこちらを見た。


 恐竜だった。


 いや、実物を見たことはもちろんないので、恐竜だ。復元図によくあるやつ。二本足で、爬虫類のような肌を持ち、尻尾をピンと立てている。


 俺はその場に立ち止まった。何が起こっているのかわからなかったし、怖くて体が硬直してしまったからだ。一瞬、俺とそいつは睨み合ったが、すぐにそいつは囀りながら道を渡って反対側の森の中へと消えていった。


 何だあれは?


 なんだか狐につままれたような気分だ(見た目は恐竜なのに、狐とはこれいかに)。間違いなく二本足で立っていた。二本足で立つトカゲなんて、エリマキトカゲかバシリスクくらいしか俺は知らない。しかし、明らかにそれらとは形態が違っていた。


 新種のトカゲなのか……?


 いや、そんなバカな。そうそうあんな大きな新種の動物など見つかるもんじゃない。実はあいつは狐で、やっぱり狐に化かされていたのかもしれない。そうだそうだ、そうに違……いや!


 いや! いや! いや!


 目の前の東の空はどんどん明るくなっていく。周りの植物もよく見えるようになってきた。


 こんな形の木や葉っぱなど、見たことない。


 あんなトカゲ、見たことない。


 俺はもはや駆け足となり、崖の端へと向かっていく。全力ダッシュで崖の先端まで来たその時、向こうの山脈から太陽が顔を出した。


 崖の下には四方を山に囲まれた平野が広がっていた。日が昇ると同時に、さえずりりが一層高くなった。森の中から一斉に見たこともない動物が飛び立つ。


 見たこともない建物、見たこともない草木。新しい日に照らされたそこは、見たこともない世界だった。


 俺は、異世界に来ていた。

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