第20話 川底
二つの水門が徐々に閉じられていくのが、月明かりの中、ぼんやりと見える。
水の流れ自体は、まだそんなには変わらない。でも、なんとなく水の量が少なくなってきたような気がして、なんとなく気分が高まるような、感慨深いような、そんな気がした。
ゆく河の流れは絶えずしてなんとやら。細かいことは忘れたが、学校で習ったそんな言葉を思い出した。いや、少しの間だけ絶えてもらわねば困るのだが。
「じゃ、水がある程度なくなるまで、待機しよう」
原先生にそう言われても、俺はまだ川を見ていた。
闇の中を流れる川は墨のように黒い。しかし月の明かりに照らされて、そこかしこで銀色に輝いてもいる。メタリックな物体が流れているようだ。光沢のある物体がうねうねと動くように見える様は、どことなくスライムを想起させる。
「そしたら、お茶にしないかい?」
綺羅星がそう言って、バスケットからクレープを取り出した。
「わぁー!」
「おー!」
優紀と葉月さんが同時に声を上げた。仲良くシンクロしている。
「父が持ってけって」
一人にひとつずつ、手渡していく。
「や、これはありがたい」
原先生も顔をほころばせている。思えば、原先生の喜びの表情を見るのは、これが初めてかもしれない。
クレープはチョコとバナナだった。定番ではあるが、なんだかんだで、やはりこれが一番うまいかもしれない。クレープを配り終わった綺羅星は、今度はポットのコーヒーを紙コップに注いでいる。ミルクと砂糖もちゃんと添えてある。実によく出来た奴だと、改めて思う。
これがこっちの世界での最後の晩餐か、と思うと、平凡な綺羅星パパのクレープの味もなんだかやけに味わい深い。
一口一口を噛みしめていると、視界の端に葉月さんと原先生が見えた。あの二人は一体どういう関係なんだろう?
原先生を「マッドサイエンティスト」と紹介してくれたのも葉月さんだったし、その原先生は葉月さんのことを「七瀬」と下の名前で呼ぶ。葉月さんは葉月さんで原先生に対して、とても生徒とは思えないぞんざいな態度をとる。そして今も、二人は何やら小声で話している。
綺羅星はクレープやコーヒーの後片付けをしている。俺は、橋の欄干に肘を乗せて手持ち無沙汰にしている優紀のところに行った。
「何か用?」
ぶっきら棒にそう言われた。なんとなく不機嫌そうだ。
「特に用ってわけじゃないけど」
「あ、そう」
あっち行け、とも言われなかったので、その場に留まって、優紀と同じように欄干に肘をついて川を眺めた。
右と左から流れてくる二つの川が、すぐ目の前で一つになっている。その流れをせき止めんと、二つの水門が仁王立ちしている。暗闇の中では黒い大きな物体にしか見えず、なにやら怪物じみてる。
それからしばらくお互い黙ってしまった。優紀と二人でこんな風に黙り合ったのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。あったかもしれないが、記憶にない。
「あっち行くんだ?」
優紀が沈黙を破った。あっちとは異世界のことであろう。
「あぁ」
「行けやしないけどね」
「なんだよ。感じ悪いな」
「だって、異世界なんて、ないもん」
「あるよ! だからこうして水門閉じてるんじゃないか」
その水門は閉じられたようで、もう動いていない。川の水も随分減ってきたようだ。
「ムキになっちゃって、カッコ悪」
「うるせーよ! お前、なんでここにいんだよ! 異世界ないと思ってンなら来なきゃいいだろ! 俺たちは真剣なんだ。チャカす気なら帰ってくれよ」
「ふん。荻窪田のバーカ」
いつもこれだ。俺が精一杯の抗議をすると、この一言で済ませてしまう。しかも、それでなんとなくチャラになってしまうのだ。何発も技を繰り出したのに、バックドロップ一発で形成を逆転されるようなものだ。
しかし、普段ならそれで終わってしまうところが、この日は違った。
「荻窪田が心配だからよ」
「え……?」
俺は優紀を見たが、優紀は前を見つめたままだった。だから、横顔がきれいに見えた。月の明かりを頬の産毛が細かく反射し、優紀自身が光を帯びているかのようだった。眉毛は相変わらず強くて形が良く、スッと一本筆で引いたようだ。
思えば、俺は随分優紀に心配された。
俺がクラスの奴にいじめられている時も、俺が一人ローエナを続けている時も、そして最近では駅の壁に頭をぶつけた時も……。なんか情けない人生だな、俺。しかし、それも今日で最後だ。
そう、今日で最後だ。
優紀に心配されるのも、今日で最後なのだ。俺が困っている時や淋しい時は、いつも優紀の心配そうな顔があったような気がする。そんな優紀の顔を見るのも、今日で最後となってしまうかもしれない。
なんとなくたまらなくなってしまい、視線を落とした。すると、川底が見えた。
はっと思って川を見ると、そこかしこに地面が露出している。そして見る間に地面の面積と水の面積の差はなくなってきている。
すぐにその比率は逆転するだろう。川の水がなくなるスピードが速くなった気がする。或いはそう見える。徐々に進んでいたことが、ある一点を越えると、一気に進んで見えるのだ。
「荻窪田くん、そろそろ行こう。もう大丈夫だろう」
原先生に声をかけられた。いよいよだ。本当にいよいよだ。
俺は優紀を振り返った。まだ欄干に肘をついて、川を見つめたままだ。その姿勢をとることで、勝手に行けば、と言っているようにも見える。俺は行こうとした。でもやめた。もう一度振り返って、優紀の横顔を見た。
「優紀、」
優紀はめんどくさそうに振り返る。
「好きだ。いや、好きだった」
「え……?」
「今までありがとう」
優紀は怪訝そうに俺を見ている。
「一応な。失敗するかもしれないから」
俺は笑った。優紀の表情は変わらない。
「荻窪田くん、早くぅ」
葉月さんが呼んでる。
「じゃ、ちょっと行って来る」
俺は優紀に背を向け、原先生と葉月さんの元へ行こうとした。
「行かないでよ!」
「え?」
「行かないでよ、健児!」
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