第九章『青春の行く先』

第57話『二人目』

 暗闇の中でもがく。


 痛い。痛い痛い痛いイタイイタイ!!


 でたらめに狭く寒い空間を蹴り飛ばし、殴りつける。

 真っ暗な空間の中で、身の内をのた打ち回る痛みから逃げるように悲鳴を上げながらもがきまくった。


 やがて暗闇の中にわずかな光がこじ開けられる。彼女は出鱈目に腕を振り回しながら、光の方へと体を滑り込ませた。


 体がほんのわずかな間宙にあり、すぐに地面に転げ落ちた。



「うう、痛い痛い痛い痛いッッッ!!」



 足をバタつかせながら胸を押さえ、消毒液の匂いだらけの空気を吸い込んだ。


 電話が鳴り、耳元が忙しなくなる。

 甘い腐乱臭と淀んだ血の臭いに頭がくらくらとする。



「わ、私……事故で……!!」



 自分が落ちてきた場所を仰向けに見上げる。


 引き出し式の、死体を入れておく冷却室から自分が落ちてきたと知ったとき、彼女の頭は余計に困惑した。


 白い空間の中でゆっくりと体を起こす。足についたタグを引きちぎる。


 裸の体をかき抱く。寒い。

 歯をがちがちと鳴らしながら、胸に開いた傷をなぞる。


 血は出ていないが、痛くてたまらない。穴が開いているようだ。ゆっくりと移動しながら、雑に置かれた袋の中に衣服を見つけ、巻き取られるように大雑把に羽織り、履く。


 震える細い足で立ちながら寒さに呻く。顔にかかる黒髪が邪魔だ。



(あれ……茶髪にしてたのに)



 物音が近づいてくる。


 臆病な小動物よろしく体をびくつかせながら、でき得る限りの早足で部屋の奥へと急ぐ。赤い色の滲む洗面台に手をつき、耳をそばだてる。



「いやぁ、妙ですよねぇあの死体。胸部の傷に、大量の失血。確実に死んでるはずなのに、腐敗が全く進まない。なんだか生きてる人間を解剖するみたいで気味悪いっすよ」

「前例が無さ過ぎるぞ。これが『毒神具』を使った人間の変化なのか? 老化が止まるといった事例があるらしいが……生き返りそうだ」

「『毒神具』?」



 聞き覚えがあるが、聞き間違いだろう。あの言葉を現実の人間が大真面目に使うなんてありえない。



「そしたらぼくたち、死ぬより怖い思いしそうですね。なんたってあのご遺体は天下に名を轟かせたテロリスト黒縄 リリアですし。実はもう立ち上がってたりして」

「黒、縄?」



 彼女は、恐る恐る顔を上げ、そのまま、凍った。


 自分の見た目じゃない。 水色の目に、長くつやのある黒髪。その口元が酷薄に歪んだのを、テレビの向こう側で何度も見かけたことがある。


 形を確かめるように何度も顔を両手で触る。まざまざとした人肌の感触、未だ体を貫く痛みが、これが夢であるという逃避を許さない。


 彼女は自分が皮を被った女が何者かをすぐに理解した。



「嘘……セカゲンの……?」



 ぎゃあ、と。

 検死官だろうか、先ほどまで会話していた男たちの断末魔が飛び散った。


 物が激突する鈍い音とともに、入り口の窓に赤い液体がぶちまけられる。黒縄の皮を被った彼女は、あまりにも不気味な死の気配に体をわななかせる。


 彼女が後ずさっている間に、扉がゆっくりと開いた。


 首元を裂かれ、真っ赤な肉の塊になった二人の死体の間を、ゆっくりと一人の少女が歩いてくる。


 口元から吐き出された煙が、霧になってあたりに満ちていく。対照的に、あまりに凄惨な光景に彼女は吐き気を覚えて口を押さえつける。



「シュ、シュゴウ……!!」

「あら? どうしたんですの、初めて会ったような顔をして」



 シュゴウは血まみれの手で頭に生えた角を撫でた。本の中で易々と人を殺し続けた女が、目の前にいる。



「あなたが名も知れぬ若造に殺されたと聞いて、半信半疑死に化粧を施したお顔を拝みに来たというのに、やっぱり生きてたんですのね。何かはかりごとでもありまして? ……あら?」



 シュゴウが喋り終わる前に、彼女は弱った体で走り出していた。


 殺される。本能的にそう感じていた。


 奥の扉から白い施設内を走り続ける。

 やがて彼女は、夜の帳下りる街に繰り出していた。裸足のまま、駆ける。



「助けて……!!」



 あのとき口にできなかった言葉を、漏らしながら。

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