赤竜紀行

モノサイト

プロローグ【最後の日常】

 チャイムの音と共に、堰を切ったように開放的な空気でいっぱいになる教室。年若くひょろっとした担任教師の、「おまえら-、夏休み始まる前から早速浮かれて事故るとか、勘弁しろよー?」という言葉が耳に入っている者など、あまりいないのだろう。

 担任は一言、「それじゃ、帰りとか気をつけて。はい、放課!」とだけ言って、スマートそうな眼鏡をクイッと直すと颯爽と教室を出て行く。これでは、どちらが浮かれているか分かったものではない。


 鞄を持ち上げると、山のような配布課題の重みがズシンと手に伝わる。その重圧に少し憂鬱になっていると、いつもつるんでいる男子生徒数人がいきなり肩を組んできた。


「よー、竜侍ィ。この後さ、カラオケ行かね?」


「えー、俺ラ○ワン行きてぇんだけどー。」


「なぁ、竜侍はどっちがいい?」


 こんな、何の取り柄もないような男にかまってくれる彼らは貴重な存在だし、提案もあまり無碍にはしたくなかった。だが、生まれ持った性分というのはどうにも変えがたいもので、大人数で行動するのが苦手なのだけは、高校に入って一年と半年経った今でも変わることはなかった。俺は毎度の如く、ありもしない用事を作り上げて首を横に振り、苦笑いしながら頭を下げる。


 のんびりと歩いて家に帰ると、家の前の小さな庭で、姉で次女のスカーレットと、同じく姉で三女の加奈が、仲良く庭木に水やりをしていた。スカーレットはこの前成人した大学三年生で、加奈は今年の春から同じ大学に通い始めた。


「ただいま、スー姉さんと加奈姉さん。」


「あ、竜侍。お帰り。」


「お帰りー。あんたの学校、終業式は半日じゃなかったんだ。」


「うん。特にやることもないのに、無駄にホームルームが長くてさ。あ、あとその木は今の時間に水をやらない方がいいかも。根腐れしちゃうから。」


「おっと危ねぇ。サンキュー竜侍。」


 スカーレットと加奈は互いにとても仲が良いが、それ以上に俺のことも気にかけてくれる。今は仕事で外出しているが、長女の沙奈も随分と俺のことを可愛がってくれる。何でも、元々三人姉妹だったので、三人とも弟ができて嬉しかったんだとか。それにしても、十六年経った今ですらこうして仲良くしてくれているあたり、彼女らは皆優しいということだろう。


 家に入ると、中は既に冷房が効いていた。七月下旬の暑さに浮かんだ汗がスッと冷える快感を堪能してると、後頭部をコツンと小突かれた。


「ほれ、汗かいたままで冷房あたると風邪引くぞ。暑かっただろ、風呂でも入ってこい。」


 朗らかに笑いながら落ち着いた声で言ったのは、うちに居候している鳥辺野多嘉子という女性。薬剤師をしているが、研究所の近くに良い賃貸物件が無かったので、大学時代の後輩であった父を頼ってこの家に下宿しているのだそう。

 決して身長が低い方ではない俺を軽々と見下ろす程の長身で、スレンダーな体型とショートカットの黒髪も相まって、ザ・大人の女性という雰囲気に満ちた人だ。父の先輩だというのに、どこからどう見ても二十代そこそこの若々しい見た目に、年上ならではの余裕と貫禄がにじみ出る言動や仕草。そのいじらしい笑みで世話を焼かれるたびに、何度ドキリとさせられたかは分からない。

 俺は彼女に挨拶し、風呂で軽く汗を流した。


 そしてのんびりと宿題に手をつけているうちに、姉で長女の沙奈とその夫の広人おじさんが、続いて母が帰ってきた。


「あ、竜侍お帰り。もう帰ってたんだ、随分早いね。」


「うん、今日は終業式だったから。」


「そっかそっか。明日からあんたたち夏休みか。」


 そう言って、母たちはキッチンへ入っていった。今日も母の作るおいしいご飯が待っていると思うと、課題を進める手がよく動く。


 夕ご飯の時間の良い匂いがし始める頃になると、俺の双子の兄である多嘉志と父が帰ってきて、今日あったことなどを楽しく語り合いながら、大家族でひとつのテーブルを囲い、夕食をとる。

 俺にとってはありふれた毎日であり、かつ、かけがえのない日常が、今日もそこにあった。





 しかし、その日常が今日で終わりだなんてことは、このときの俺が知るはずもなかったのだ。


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