J.GARDEN56ありがとうございました

9月23日のJ.GARDEN56、「古池ねじ個人サークル」として参加しました。

新刊は100円の薄い中綴じ本、しかもBLなのか微妙…?というもので、あとは既刊、お友達のサブローさんの「縞馬のナイフ」という文庫をお預かりしていたのでそちらがメイン、という感じでした(縞馬のナイフ、内容も最高でしたが本当にデザインがかっこいい本で…)。


イベントもずいぶん慣れてきて、既刊が多かったのでのんびりと過ごしました。色んな方にご挨拶でき、お手紙や感想もたくさんいただけて嬉しかったです。差し入れもありがとうございました。


ここからはイベントとはあまり関係がない話をします。

お会いした方にはなんとなくわかってもらえるでしょうが、私は自分のことをなんでもぺらぺらしゃべる人間です。どういうふうに生まれてどういう家庭で育ち今どんなふうに暮らしているのか、聞かれたら、聞かれなくても、ぺらぺらしゃべります。

でも自分の重要な部分を、他人にわかってもらおうという欲望みたいなものは、希薄かもしれない、とも思っています。そのときどきで伝えたい情報をやりとり出来て、楽しく過ごせたりすればそれでよくて、人に自分のこと、古池ねじという人間がどういうふうに出来ているのか、をわかってもらいたい、という欲望がそれほど強くない気がします。あんまりわかってほしくないような気もするし、そもそも自分のこともあんまりよくわかっていないような気がします。私の家族は私を理解しているでしょうが、その理解はそもそも私が望んだかたちでの理解でもなくて、私の自分でも望ましくないと思っている習慣とか、衝動とか、そういうもので出来ているような気がします。

どうせわかられてしまうんだから、わざわざわかってほしくない。


小説を書いていると、そこに隠しようもない自分が滲みます。自分とは別の人の話を、自分の自然な声とは別の語り方ですることでしか伝わらない何かがあるような気がします。それは作品のテーマというか、あらすじからもはみ出したもので、直接読んで、言葉と言葉の流れの中にしか見つけられないようなものです。選んだ言葉と選んだ言葉の間にある、選んでいないもの。それはわかってほしい私でもなければ、わかってほしくない私でもない、もっと違う私です。どういう私なのか、はっきりと言い表せないし、言い表したくもない。

読者の方とお話していると、この方はそういうふうに存在している私をわかってくれているんだな、と感じることがあります。私が選んだ言葉の話をしながら、その間にあるものも感じ取ってくれている。そして多分、ご自身の何かとそれが共鳴して、会いに来てくださったんだ、と。

おそらく普段の生活で出会うこともない、私と全然違う生き方をしている方が、誰にも伝えようとしたこともない私のことをわかってくれている。

すごく不思議で、すごく嬉しいことです。小説を書いてよかったです。本当に、心から、よかったです。


いつもありがとうございます。これからも頑張ります。

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