1room存在密度過剰
「すーっハッすーっハッすーっすーっ」
落ち着いて。ほら深呼吸して。
「すーーはっはっぁぁ……うぅ………」
彼女の息は荒く、吐く量よりも吸う量の方が多くなってしまったようですぐにむせてしまった。呼吸を意識的にしようと頑張っている姿が、とても愛らしい。
手から落とした包丁は艶やかに鈍く光っている。
「愛していたのよ………私は…とても」
『……』
彼女は座り込んで顔を手で覆う。ポロポロと涙がとめどなく溢れ、見えてないけどきっと顔がくしゃくしゃになっているんだろう。前に映画を見た後そんな泣き方をしていた。
そんなに泣かないで。体がひとつ壊れただけじゃないか。
加湿器にも血がかかり、小さな音を立てて赤い気体状の液体を吐き出している。
「あなたはいつだって優しくうけとめてくれて………ふわふわと羽毛のように漂って」
この部屋には僕と彼女のすべてがあった。主張しすぎない暖かな照明が、2人の笑顔が貼ってある茶色いボードを、記念日に買ったオルゴールを、引っ越しの時に買ったお揃いのマグカップを優しく照らしている。
「暗闇の世界に輝くあなたは、私には痛いだけなの。光がまぶしくてまぶしくて、つらくなるだけなの」
呼吸は落ち着いてきたみたいだ。
彼女の目元は真っ赤に腫れて、涙の跡が残っている。
徐に彼女は僕の亡骸を抱きかかえて、膝枕させた。彼女の黒く長い髪が、僕の明るく赤い血と混ざり合っていく。血塗れの手の甲で死体の肌を撫でている様子を、その頭上で僕は俯瞰して見ている。
今この瞬間、この1roomで存在する密度は、今までにないくらいにとても充足していて、過不足がないように思えた。
「痛いだけなの………」
果たして、僕の意識は空中に漂っているのか。彼女を包み込むように、感情を映す情景と同化していくようで……彼女のこころが、思考が、僕を震わせていく。
彼女が僕をゆっくりと仰向けに寝かせ、瞼をそっと下ろす。
「貴方がいる私は私じゃない。こんなの、私じゃない。
……………でも、貴方がいなくなっても…これからを考えても、何故か私はあの時の私に戻れない気がする」
彼女はゆっくりと立ち上がりながらそう言った。血が名残惜しそうに髪にまとわりついている。目線は亡骸へ向いているようだけれど、表情はついぞわからなかった。
「去年行った海。結局冷たくて入れなかったけど、それでも楽しかった」
『……』
写真の縁をなぞる。赤い線が残る。横にあるオルゴールのネジを回す。ガラスの中の白馬がゆっくりと周り始めて、緩やかな音楽が部屋をなぞっていく。空気の振動に影響されているのからか、僕も震えている。
「………………じゃあね」
そうして、すっかり冷たくなってしまった僕を、血まみれで動かなくなった僕を、彼女は踏み越えて去ってゆく。出口へ、黒く暗いドアの向こうへ。
ゆっくりドアは閉まって、冷たい風がだんだんと弱まっていく。
『愛してるさ。ずっと』
僕が……中身のない抜け殻ではなく、宙に浮いてる僕がそんなことを言うけど、誰も聞いちゃいなかった。
予想よりもかなり小さな音で、ドアは閉まった。
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