第2話 束の間の語らい


 歩いている感覚は、足の裏から伝わってこない。見えている景色は、三条河原だ。


(なんで……どうやって、こんなところに?)


 トンッと、肩に重みが生じる。

 目の端で捉えた影を見上げれば、あの黒猫が総司の肩に立っていた。


(なんて平衡感覚なんだ)


 それとも猫だから、人間の肩に立つという芸当が簡単にできてしまうのだろうか。


 ーーここは、幽界のようなもの。

「幽界?」


 ということは、死んでしまったということか。

 総司は無造作に猫の細い首を掴み、顔の前に掲げる。


「なんてことをしてくれた!」


 怒りをあらわにする総司に、黒猫は余裕の表情で尻尾を揺らす。諭すようにも見えるその表情は、反面でバカにされているようにも受け取れる。

 尻尾の短く柔らかな毛が、総司の細くなってしまった腕をスルリと撫でた。


 ーーそんなに怒ることは無いでしょう。なぜなら、貴方はまだ生きている。

「幽界と言えば死後の世界のことだろう! それなのに、まだ生きているなんてことがあるものか」


 怒る総司に、黒猫は呆れた表情を見せた。今度こそ、本気でバカにしている顔だ。


 ーーだから、のようなもの、と伝えたではないか。猫の言葉でも、ちゃんと聞きなさい。

「なっ……!」

 ーー頭に血を上らせず、冷静になりなさいよ。それでも、一番隊の組長ですか。


 総司は、たしかに……と、渋々自制する。黒猫の言うとおり、前線に居たときのような冷静さは欠いていただろう。

 黒猫に窘(たしな)められた悔しさと恥ずかしさを誤魔化すように、咳払いをひとつする。黒猫を地面に下ろしてやり、総司は黄緑色の瞳と視線を合わせた。


「なぜ、こんな場所に連れてきたんだ?」


 黒猫は悪戯っ子のように、ペロリと前足を舐めてみせる。


 ーー会いたいのでしょ? その、近藤勇という人に。


 たしかに、会いたい気持ちはある。現に、さっきは声に出して会いたいと言っていたのだから。


「でも……だからって、なんで」


 こんな所に……とぼやきながら、三条河原と思(おぼ)しき場所に視線を巡らせた。

 霧がかかったように、明瞭ではない視界。黒猫が言うように、幽界のような場所だからだろうか。どこか陰気な、梅雨の不快感とは違うジメジメとした空気で満ちている。

 そんな中で、総司は人影を捉えた。

 ザリッザリッと砂利を踏みながら近付いて来る足音。

 警戒心を前面に出し、いつもの癖で、どんな動きにも対応できるように全身の筋肉に意識を集中させた。

 不思議と咳は出ない。呼吸も、胸の音も落ち着いている。それはまるで、胸を患う前に戻ったかのようだ。

 ザリッと、足音が止(や)む。


『やあ、総司じゃないか』


 耳に届いた声に、総司は僅かに動揺する。


(まさか、そんなはずはない。でも、本当に……?)


 頭を巡った自問は、ほんの数秒にも満たない。本人かどうか探るように、じっと人影に目を凝らす。


(暖かな陽だまりのように穏やかな、あの声は……)


 何年も共に暮らしてきたのだ。聞き間違えるはずがない。

 総司の唇は呼吸をするように、自然とその名を紡ぐ。


「近藤さん」

『やっぱり総司だ。なぜこんな所に居るんだ?』


 懐かしい近藤の声に胸躍らせていた総司だが、途端に息を詰めた。


「なんで、そんな……姿に……っ」


 途切れ途切れに出た総司の言葉に、近藤は笑みを浮かべる。


『やぁ……斬首されてしまってね』


 自分の頭を両手で抱えていた近藤は、喉仏の辺りから上がない首筋をポリポリと人差し指で掻いた。片手で抱えられている頭には、生前と変わりない苦笑を浮かべている。

 それよりなにより。


「斬首? それは、なにかの間違いじゃないんですか!」


 近藤は、ずっとご公儀のために尽くしてきた。京の治安を守ってきたのだ。幕府のために、この国のために。

 薩摩や長州といった、幕府を倒そうとする勢力と戦ってきたのだ。


(だから、なのか?)


 新しい勢力にとって、誰よりも心を賭して尽くしてきた近藤勇という男は、罪人と同じなのか。

 悔しくて、力の入りにくくなった手の平を握り締め、怒りに震わせる。


『大久保大和だと名を貫き通していたんだが、顔を知る者が新政府軍に居てね。取り調べから逃れることができなくなってしまったんだ。板橋の処刑場でこうだよ』


 近藤の体は、苦笑を浮かべる頭を掲げて見せた。


「だからって、なんで斬首なんですか! せめて、せめて……そう、武士らしく切腹させてくれたら!」

『総司……』


 いつもの優しい声と共に、大きく温もりの無い手が、俯く総司の肩に乗る。


『その気持ちだけで、十分だ。ありがとう』


 総司が悔しさに歪む顔を上げると、近藤は頭を元あった位置に掲げてくれていた。


『この位置に頭があるほうが、お前は慣れているだろ?』


 ニカッと笑う近藤は、総司が知る当時のまま。

 死してなお、近藤勇は近藤勇のままだった。

 怒りは収まらないながらも、総司は近藤の気遣いに絆(ほだ)されていくのを実感する。怒りに歪んでいた己の表情が、次第に緩んでいくのが分かったからだ。


「いつだったんですか? その……処刑になったのは」

『四月だ』

「四月……」


 今は六月。誰も総司に、近藤のことを知らせてくれなかった。

 近藤を慕っていた総司に対する気遣いなのか、なんなのか。悔しくて、今度は涙が溢れてくる。

 目にいっぱいの涙を浮かべる総司を見て、近藤はまた苦笑を浮かべた。


『こらこら、泣くんじゃない。子供の頃の泣き虫宗次郎に戻ってしまったのか?』

「違いますよ。そんなわけないじゃないですか」


 強がってみせるも、涙は溢れることをやめない。ポロリと頬を伝い落ちた。


「これは私の涙ではなく、近藤さんの涙です。どうせ泣くこともしなかったんでしょ? だから、今になって私の目から溢れてくるんです」

『はははっ! なんだ、その理論は』


 近藤の笑う声を聞きながら、総司は着物の袖で涙を拭う。


「今は、苦しくないですか?」


 総司からの問いに、近藤は笑うことをやめる。そして、そうだな……と呟いた。


『今は、苦しくないぞ。さすがに斬られたときは痛すぎたがな』


 笑えない冗談に、今度は総司が苦笑を浮かべる。そして、小さな疑問を口にした。


「死んでからも、その首は元通りに繋がらないんですか?」

『そうだな。今のところ、繋がる気配はなさそうだ』

「ずっと手に持ったままだと、不便ではないですか? 布かなにかで巻いて固定してみてはどうでしょう?」

『まぁ不便ではあるが……ふた月もこうだと、次第に慣れてくるものだよ』


「そんなもんですか」

『ああ。こんなもんだ』


 生前と変わらぬ、他愛のない会話が弾む。互いに軽口を叩き合い、ひと段落ついたところで近藤は終わりを告げるように、総司の肩にポンと手を置いた。


『なんの巡り合わせか、会えてよかった』

「あの黒猫が、連れてきてくれたようです……」


 総司は、後ろのほうで様子を見守っている黒猫に視線を向ける。近藤は『そうか』と頷き、総司の肩から手を退けた。


『それじゃ、そろそろ行かねばならん』

「はい」


 最後になにか言いたいけれど、言葉が浮かんでこない。ただ黙って、会いたかった男の顔を見つめることしかできないでいた。


『大丈夫だ。きっと、また会える。あの世で待っているから、安心しておいで』

「はい……」


 ニャアと黒猫がひと声鳴く。

 瞬きをすると、そこにはいつもの庭が広がっていた。

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