第16話・歌枕の浅き夢(ディビジョン・ラップバトル)3
その目の前にすっとやってきたのは乞巧奠の宴の進行を指揮していた
蔵人が立ち去ると老爺は広間に恭しく礼をした。あいさつをする声の声量も堂々たるものだ。
「皆々様御機嫌麗しく。盛大に逢瀬を祝うていただき、二星も幸せ者にございます」
姿勢もとても老爺とは思えず、若者でもついぞ見ない背筋の通り方と足取りの軽さをしているが、声はそれにも増して低く艶やかな張りがある。
「さて、それでは二星もつつがなく
「が?」と思わず反芻する公卿たちに、好々爺はにっこりと微笑んだ。
「この
清涼殿にひしめく貴族たちが一斉にざわめいた。宮中行事が毎年同じことを繰り返しているとしても飽きたとか飽きないとかそういう問題ではない。第一みんなこの日のために渾身の和歌を考えて用意してきているのだ。
「お静かに。ご心配なく。歌合わせは行います。かような爺の一存で行わないわけにはまいりませぬゆえ」
土御門の老爺はほがらかな微笑みを片時も崩さないまま言うと、袖口から一枚の呪符を取り出して口許に当てた。息を吹きかけると、呪符はたちまちに四方の御簾に飛び散り、隙間に突き刺さる。皆が目の前の御簾の目に刺さった紙片に声もなく瞠目しているうちに、老爺はすかさず祭文を奏上し始め、それに反応してどろりと溶けた呪符が御簾の上を流れ落ちる。表面を溶け落ちた紙は御簾をたちまち白い一面の薄布に変えてしまった。
「今日お詠みになる歌は、かようにしてこちらの御簾に絵物語として映し出されまする」
そうして好々爺が万葉集にもある七夕の歌を朗読すると、白い幕となった御簾の上に、きらびやかな銀河の映像が映し出された。星屑の大河の中を銀色の船がゆっくりと漕ぎゆく波紋が見える。七月七日の月は宵の早い時間に浮かぶ上弦の月で、これを天の川を渡る船に喩えた優雅な歌だ。
ときどき怪しい術を見せる陰陽師の翁は恐ろしいが、この術はただただ美しく、眺める者たちからため息が漏れる。
しかし貴族たちが安心したのは一瞬だけのことだ。
「ちょうど今年はこの爺が一目置く
続く説明に貴族たちが再びざわめきはじめる。
翁はにこにこと微笑みながら、騒然とする貴族たちを眺めまわし、金色の髪の上で目を止めた。先程、土御門の翁と共に乞巧奠の進行について相談を交わしていた蔵人だ。
「そうだな、
黒い
なるべく目立たないように固く髷にして冠に押し込んでも、横顔にほつれた髪が燭台の光を受けて淡い光のように纏いつく――その色は月の光がこぼれるような淡い金色がかった白髪で、しかし、肌の質感は明らかに若い。化粧もしていないのに雪を
緊張を打ち破ったのは大きないびきの声だった。――それも他ならぬ白金髪の蔵人の。
「立ったまま寝るでない!」
思わず一喝する陰陽頭の声で広間の緊張は解け、笑いの中で蔵人が目をこする。その瞳の色も綿毛のような睫毛も黒くはないが、もはや「宴の最中に堂々と居眠りをする蔵人」のおかしさに紛れて
「まったく。行事の最中にいびきを立てて寝るとはなんという蔵人だ」
「だってぇ。俺、見飽きたんですもん、この術。毎晩毎晩月の船を夢にまで見て寝不足で……」
陰陽師の身分も高くはないとはいえ、帝と藤原家に重用された賢老を相手に孫のような口を利く。そもそもこの宴自体、帝の御前なのだ。豪胆な大物なのか物を知らない痴れ者なのか。下級官人としてはあまりな無作法さに、かえって外見の与える威圧感が解けていく。
ひと通りざわめきが収まったところで。
蔵人は、ふあ、ともう一度あくびをすると、すっと姿勢を正し、優雅な笑みを浮かべて一礼した。
「……さて、今宵の歌合せの余興、大変面白き出来栄えになりましたので、ぜひお楽しみいただければ。――されども我らの歌論のみが頼りでは偏りが酷く、とてもではありませんが正確には判じかねます。後ほど歌の有識者の方々とよく相談し、正しい判定を報告いたしますゆえ、今宵の歌合せはひと味変わった愉快な余興として楽しみいただければ光栄にございます」
つまり要約すると「宴なのでふざけたことをするが歌そのものは幻術空間の判定にかかわらず後ほど正当に評価する」ということだ。歌の腕に覚えのある貴族たちの不安と不満の原因のいくらかは「あんな妖術で俺の歌が判定できるものか」である。殊勝なくちぶりで説明をすれば、貴族たちは渋々不満を抑え、隣の者と相談してうなずきあった。後から有識者が判定したほうが正しい評価となるのならば、まあいいかというわけだ。
代わって不満な顔になったのは土御門の爺だ。
「人と為した仕事をあまり謙遜するのはかえって失礼であろうよ、紀の小僧」
蔵人は口許に薄い笑みを浮かべ、軽く会釈した。その声は刺すように冷たい。
「事実説明は必要ですよ、陰陽頭殿」
しかし皮肉な笑みが浮かんだのは一瞬で、顔を上げたときにはもう屈託のない笑顔に変わっている。
蔵人はいかにも冴えない役人のように白い頭を掻きながら言った。
「それに頼りないのは泰寿様の腕前ではなく、もっぱら俺の歌人としての実績のほうなので」
翁はふんと鼻を鳴らすと、それから目を逸らして手を打ち鳴らした。
「どなたか歌をお詠みくだされ。その間、該当の歌人おふたりは歌の世界を現出する幻術空間で歌を詠み合い、それによって現れた幻影を交えて戦っていただくことになります」
あまりの非現実的な話を矢継ぎ早にされて、貴族たちは顔を合わせて困惑するばかりだ。
「さあ、早う歌を」
老爺の顔から笑顔が消える。
顔を見合わせたままの貴族たちの中から誰かが動く気配はない。それはそうだ。歌を詠んだら何が起こるというのだ。
「陰陽頭殿、」
つばを飲み込む一同を見回してあきれたように首を振り、手を挙げたのは先程の蔵人だった。
「はい、私。詠みたいです、私が」
それを見て、老爺はすんと鼻白んだ顔をして言った。
「紀の小僧よ、お前のつまらん事務対応、そういうところだぞ。せっかくの人の楽しみを折りおって」
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