第8話・弘徽殿の悪役令嬢(5)

 女房達の中から一番見目の悪い者達を呼んで犬君いぬきの身繕いをさせていた弘徽殿の女御は、湯浴みから戻ってきた犬君を見て息を呑んだ。

 湯上がりの犬君はすでに女物の白い単衣に緋袴を着せられている。

 きっと美しいはずと見抜いた髪は洗い立てでますますさらさらと肩を流れ、上気した白い頬がやわらかく見える。予想外だったのはその面差しだ。いつも面で隠しているなんてどうせたいしたことのない顔立ちなのだろうーーと思いきやこれが、白拍子と見紛うほどの女性的な顔立ちをしている。目と顎が女にしてはやや鋭いが、目尻に紅でも差せばこれはこれで色気のある切れ長の瞳に化けるだろう。

 体つきはといえば、鍛え上げられた身体ながら身丈はさほど大きくない。一見どこまでも女性的な容姿の人間なのに薄い白の単衣から筋肉質な胸が透けているのがあまりに異質で、なんとなく見てはならぬもののように思えて目を背けてしまった。

「まったく、とりかへばやもびっくりね」

 そのうちに先程湯浴みを手伝ってくれた赤毛の柔和な女房がたくさんの布を持ってやってきて、にこにこと犬君の足許にひざまずく。

「まことに惚れ惚れするお顔でございますよ、犬君殿。もし今が冬でしたら思いきって、しっかりと艶を出した練絹にざらりとした浮き織り目の生絹、それから紋様の透かす薄物など揃えまして、とりどり手触りの違う白の衣ばかりを五枚重ねた雪のかさねを着せますのに」

 うきうきと犬君に着せるものの思案をする龍田中納言の声で我に返った弘徽殿の女御は、顎に指を当てて「そうね」と犬君の顔を見る。この怜悧な美貌は、すべての重ねを白にするという思いきったーーそして着るものの美しさと気品が問われる装束さえ着こなしてしまうに違いない。しかし今はその季節ではない。

「まだ残暑も厳しいし一番上に着る唐衣からころもは涼しげな白にしても構わないけど、中の五衣はもう少し華やかにしたいわね。せっかく花も葉も綺麗な秋なんだし」

 十二単は、正確には五衣唐衣裳いつつぎぬからぎぬもと言う。季節感のある色を重ねた五枚の衣の上に華やかな織の施された袿と腰丈の唐衣を羽織って、最後に成人女性の証である裳を腰から後ろに長く引く。そういう構造の服なのだ。その五枚の衣の色を何にしようかという話で弘徽殿の女御と龍田中納言は盛り上がっているのだったーー着る犬君を置いてけぼりにして。

「それでは、薄紫を重ねて一番下に緑色を忍ばせ、桔梗のかさねはいかがでしょう。上衣は白、唐衣は品のあるお顔が映える無紋の二藍ふたあいがよろしいかしら」

 いろんな色や材質の布をひと通り顔周りに当てられた後、不意に弘徽殿の指が伸びてきて犬君の唇を撫でた。ぬるりとした冷たい感触に、弘徽殿の指を確かめると指先が紅で汚れている。すかさず龍田が紫色のうちぎを持ってきて犬君の肩に重ねた。二藍とは藍色の糸と紅色の糸とを織り合わせた紫のことで、着る者の動きによって玉虫色に青みから赤みへと表情を変える。

「いいわね。めちゃくちゃ映えるじゃない。やだ、うちの龍田ってば、やっぱり天才!」

 弘徽殿の女御が龍田中納言に抱きついて喜んでいる中、女性の服に詳しくなく今の自分の姿も見えていない犬君だけが完成形が想像できずに困惑している。

 そういう二人の着物は弘徽殿の女御が緑と黄色を重ねてあざやかな緋色に至る青紅葉のかさねで身分の高さゆえにわずらわしい唐衣と裳は省略されており、龍田中納言は黄の濃淡五枚を茶色に近い落ち着いた赤色の唐衣で引き締めてその上に豊かな紅い髪がこぼれかかる朽葉のかさね。仲のいい主従で揃えて紅葉を表現する趣味はたいしたものである。

「……というわけで桔梗のかさねでよかったかしら?」

 ひとしきり女性ふたりで盛り上がってから一応の礼儀程度に確認される。犬君はあきれた顔も隠さずにうなずいた。

「どうぞお好きなように願いします。いずれ私には何をおっしゃっているかまったく解りませんので」

 皮肉が通じているのかいないのか、二人の少女はデカい雛人形を手に入れたかのように楽しそうに犬君を着替えさせる相談を続けている。

「ではそれで用意をお願いするわね、龍田中納言」

「かしこまりました」

 弘徽殿は真珠貝の螺鈿の施された漆塗りの箱を持ってきて、中から黄楊の櫛を取り出す。そうしてそれを犬君の手に握らせて言った。

「知り合いに知られては困るのでしたわね。そこで対外的にはお前を別の名前で呼ぶことにします。お前は黄楊姫つげひめ。今からお前は黄楊姫よ」

 犬君は布を片付けている龍田中納言に視線を向ける。

「なぜ私が黄楊姫なのです。龍田中納言は男性名では?」

 龍田はそれを聞いて振り向き、微笑う。

わたしは父が中納言ですので。そこに女御様がこの髪の色をお気に召して『ちはやぶる神代もきかず龍田川』とお歌を引いたので龍田中納言と呼ばれております」

「ーーということよ」

 龍田に全部説明されてしまった弘徽殿はうなずき、改めて犬君に柘植の櫛を押しつけながら言う。

「女房が男性名を名乗っているのは親の官職を名乗っているから。詮索されたいのなら男の名をつけてあげるけど?」

 結構です、と苦虫を噛み潰したような顔をして犬君は櫛を受け取る。

「まあ、予想外にお前の顔は良過ぎるし、こちらとしても身内が誰か探られたり新しい女房を紹介しろなんて和歌が届きまくったりすると迷惑なのよ。あまり目立つところには出さないようにするから安心して」

 弘徽殿の言葉に、犬君はまったく安心できない予感がしながら「そう祈っております」とぶっきらぼうに答えた。

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