▼18「約束」
明日は入試だ。
今度こそ、僕の受験日である。
『落ちないように気を付けないとね』
安立さんの声音は心なし明るい。というのも先日、彼女は晴れて高校への入学が決まったからだ。
入試後は不安ばかりを渦巻かせていたけれど、合格通知を受け取ってからは非情に機嫌が良い。
他にも受験を終えた生徒はいる。大半が暇そうにしていて、中には勉強を頑張っている生徒にちょっかいをかけて先生に窘められている人もいた。
そしてそれは安立さんも同じだった。僕がペンを握ったにも関わらず雑談を始めようとするのだ。と言っても悪気はなく、どうしようもない欲求が表に出てしまっただけですぐに思いとどまっているのだが、僕の方がその話題を拾っていたりする。
だからまあ、勉強が進んでいない原因は僕にあった。
『三戸くんって自信家よね』
一応、安立さんよりは頭が良いみたいだからね。
以前に行ったテスト勝負の戦績は僕の勝ち越し。そのことを持ち出すと安立さんは途端に不満げになる。
『受験で結果を出してから言って欲しいわねっ』
むくれた調子の安立さん。冗談なので怒らないで欲しい。
こうして勉強そっちのけになっているけれど、一応順調ではある。教室内で無駄にした時間は家で取り返しているはずだし、志望校もそれほど難関というわけでもない。
このままいけば無難に合格は貰えるだろう。などと楽観視しつつも、若干の不安もやっぱりある。けれど若干だから脇に置いてしまえるのだ。
まあそれも明日まで。
『三戸くんも絶対に受かるのよ』
そう言われたら、頷くしかない。
僕と安立さんの志望校は違う。教室で繋がるというのなら、同じ高校に通えば希望があるのではという考えもあった。
けれど、それはしなかった。そもそも願書ももう間に合わない。来年に挑戦するというのもそれは向こう見ずすぎる。
それに、高校に入ったら僕たちはお互いのことはもう何も考えないと約束した。
どうしようもないことからは目を逸らすのだ。
この現象をやはり妄想と割り切って。
それが最善だと話し合った。
僕は安立さんのことが好きで、安立さんも同じ想いを抱いてくれている。けれどその想いを互いに認知しているだけで、愛を囁き合ったり、確かめ合ったりなどの、言わば≪らしい≫ことは一切していない。
そういうことをすれば、辛い気持ちが上回るのを理解していたのだ。
あまりに短い、期間限定の幸福。それを受け取る度に、後の喪失感を先取りしてしまう。
けれどこの日、安立さんは一歩ほど距離を縮めようとした。
『そろそろ、バレンタインデーよね』
言われて今日の日付を思い出す。僕の受験が終わって休日を挟むと、確かにあの、女子が男子にチョコを渡す日がやってくる。
今まで僕にはまるで関係のなかった行事だ。ようやく明確に欲しい相手が出来たけれど、それも諦めた行事。
けれど安立さんは、それを提案する。
『三戸くん、あなたにチョコを渡してもいいかしら?』
どうやってと思いかけて、すぐに安立さんの思考で明かされる。
『渡すというより、渡し合うってことになるんだけれど。あたし達でお互いにチョコを持参して自分で食べるのよ。それでその、食レポ? みたいなことをして味を伝え合えば、渡し合ったことになるんじゃないかしらと思って』
少しだけ自信のなさげなプレゼンを聞いて、思わず笑ってしまう。これはまた変なことを考えたものだ、となんだか愛おしくなった。
確かに糖分は脳に行くというし、もしかしたら教室の中でチョコを食べれば、思考が繋がる僕らなら届け合えられるのかもしれない。
……まあきっと、そんなことはない。でも、それはそれで楽しそうだと思った。
『ダメかしら?』
いや、やろう。
頷いて、胸がチクリと痛む気がした。それでも甘い感情もあって、今はそちらを優先したかった。
『あくまでもチョコレートは、想いを伝えるためのものだから。だからあたしたちにはピッタリでしょ?』
そう考えれば、確かにそうかもしれない。
僕たちはこれ以上先に進めないから、その範囲の中で出来ることをするしかない。
なんてしんみりする僕を置いて安立さんは声を弾ませる。
『それじゃあ、どっちが美味しいチョコを作れるか勝負ねっ』
あれっ、勝負なの? というか僕も作るのか。あいや渡し合うって言っていたからそれもそうか。
『あ。まあそうよね。男子が作ることなんてほとんどないし、面倒よね。あれなら市販のものでも構わないけど……』
とはいうけれど、小さく『出来れば手作りが良いな』という声が聞こえている。それなら期待に応えるしかあるまい。
『ほんとっ?』
うん。
そう言えば、以前にもイベント事に前のめりになってみようと考えたことがあった。これがとっかかりというのも悪くはない気がする。
それにこのことで、お菓子作りという趣味も得られるかもしれないし。
『良かったわ。受け入れてくれ』
僕の方こそ、嬉しいよ。
少しでも楽しみがあれば日々を頑張れる。少なくとも終わりのその瞬間までは、寂しさを考えずに済むかもしれない。
『ちなみに、あたしはチョコを作るのには自信あるわよ。なんて言ったって、既に趣味にしているお父さんがバックにいるからね』
助っ人がいるのは手ごわいな。しかも僕はまるっきりの初心者だ。なのに安立さんは手を抜こうという考えはなかった。
どうやら安立さんは今までのテスト勝負での黒星をここで返上しようというらしい。どれだけ負けず嫌いなのやら。
『そ、そういうのだけじゃないわよっ。ちゃんとその、本来のチョコを送る意味もあるわっ』
もう十分想いは伝わっているのだが、嬉しいことには変わりない。
これは僕も負けていられなくなる。早々に案を練っておかないといけないな。
『今考えたら筒抜けになっちゃうわよ。それと、明日まで三戸くんは勉強に集中しないと』
僕が不利な要素多くない?
『大丈夫よ。美味しくなくても食べるのは三戸くんだから』
……ますます負けられない。
早速色んな策が頭を駆け巡って、このままでは勉強の方も手がつかなくなってしまいそうだった。
『今言うことじゃなかったかしら。……でも今日中じゃないと無理だったし』
大丈夫だよ。
僕は合格するし、チョコでも勝利する。僕の本気というのを見せてあげるよ!
『調子の良いことを言うわね。ふふっ、楽しみだわ』
うん、僕も楽しみだ。
それから結局、勉強は手につかないまま受験に挑むことになった。
手ごたえとしては、たぶん大丈夫だったと思う。
落ちたら落ちたでその時だ。
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