第3話 推しの正体

 6月16日(金)8時25分


 翌日、朝のホームルームが始まる時間。だというのに、俺は家のベッドに居た。

 ピピピピッ、と体温計が脇のあいだでがなり立てる。

 37.8℃……風邪だ。


「翔ちゃん、大丈夫……? お熱が下がったらお母さんと病院に行こうね?」


 ベッドわきで母さんが眉を八の字にして話しかける。


「寝れば治る……。母さんも、仕事あるだろ……」

「仕事なんか休めばいいのよ。ね、病院に行こ? タクシー呼ぶから。無理なら救急車でもいいのよ」

「たかが風邪で大げさすぎる……。いいから、寝かせてくれよ……」


 寝るから静かにしてほしい。

 そう思って言ったところ、母さんは何を勘違いしたのか笑顔になり、


「わかった、お母さんに任せて! ……ねんねころりよ~♪」

「赤ちゃんじゃねえよ」

「ごめんね、そうよね……翔ちゃんはアニソンのほうが好きよね? お母さん、今から〝ウィーアー!〟歌うね!」

「病人を尻目にウィーアーすんな!」


 見かけによらず母さんはサブカルに明るい。そういえば、俺がオタク文化にハマったのも、昔から母さんがリビングでアニメを見ていたり、スマホでアニソンを流していたことがきっかけだった。だからって母親の歌うアニソンなんて聞きたくもないが。


 ピロリン~♪


 ふいにアラーム音が鳴る。母さんの手首に巻かれたアップルウォッチが、8時30分を告げていた。


「仕事の時間なんだろ。もういいから、寝るから出てってくれ……」


 ようやく母さんは諦めてくれたらしく、腰を上げた。


「お母さん、スマホを手元に置いておくから何かあったらすぐ連絡してね。あ、でもごめんね、仕事部屋には……」

「入らないよ。わかってるから」


 仕事部屋には入らない、これは母さんとの約束だ。ウェブライターの仕事相手と通話することもあるらしく、勝手に入ってほしくないらしい。


「……頭、いてぇ……」


 母さんが出ていって静かになったし今は寝よう。そう思って、瞼を閉じる。

 が、しばらく横になってみるも、朝起きたばかりで眠気が湧かない。日中に何もせず寝転んでいるのは暇でしょうがなかった。

 暇すぎる俺は、女神に救いを求めるようにスマホに手を伸ばす。


『こんマリ~、天母マリアですぅ。……ごめんなさいっ! いつもどおり八時半に始めようと思ったんですけど、ぼんやりしてて遅刻しちゃいました。今日は、#女神のひと狩り! みんな、楽しんでってね~』


 丁度マリアのゲーム実況が始まったところだった。

 プレイするのは、様々な武器を手に巨大なモンスターを狩っていくゲームだ。


『まったり雑談をしながら素材集めに行きま~す。狙うは出現率1%の宝玉よ!』


 そうして、マリアはレア素材を求めて次々とクエストに挑むが……。


『――出ないなぁ』

『――また出ないなぁ』

『――うーん、出ないなぁ』


 と、クエスト報酬を確認するたび、『出ないなぁ』を繰り返すbotになっていた。

 だがさすがはマリア。喋るだけで可愛いからチャット欄は常に盛り上がっている。


コメント

:「出ないなぁ」がずっと聞いてるとクセになってきた

:マリアママの言い方がいちいち可愛すぎるんよ

:「出ないなぁ」もっとください


『え~、早く出てよぉ。ハァ、もぅ手が疲れてきちゃった……。出そうになったら『出る』って言ってくれたら楽なのに……』


:センシティブやぞ!


『え、何が⁉』


:うっ、出る……ッ!


『何を出してるの⁉』


:俺たちの思考が汚れてるのかマリアママが天然すぎるのか……

:マリアママ知ってる? 30過ぎると性欲抑えられなくなるらしいよ


『知りませんっ! マリアはぴちぴちお肌の18歳女神なんですぅ!』


:今月のアンチエイジング代です ¥10,000


『あっ、スーパーチャットありがと――って、アンチエイジングぅ⁉ 人違いです!』


 草。マリアとファンジェルの大喜利はいつもおもしろくて笑ってしまう。

 ちなみに、スーパーチャットはYouTubeの仕組みで、配信者に金銭的な支援ができるものだ。リスナーはお金を送りながらコメントできる。


『はぁい。次のクエスト行ってみよぉーっ!』


 風邪でつらいときでも、マリアの癒しボイスはずっと聞いていられる。

 俺はこの人の声が、本当に大好きだ。聞いていると頭を撫でられているみたいに落ち着く。きっとマリアの中の人は、この声にふさわしい、可愛くも母性溢れる優しい人に違いない。


「……のど渇いたな」


 かれこれ一時間ほど配信を楽しんだ頃。俺はスマホを置き、ベッドから這い出た。

 おぼつかない足取りで階段を下り、廊下を進む。

 なるべく足音を立てないように気を付けた。というのも、階段を下りた正面には母さんの仕事部屋がある。木の引き戸が閉ざされた向こう側で、母さんは今頃パソコンと向かい合って仕事中だろう。邪魔したら悪い。

 俺はキッチンで水を一杯飲んだ。

 そこまでは良かったが――


 ガシャン!


「…………やっちまった……」


 割れたコップが足元に転がる。ふいにふらつき、手を滑らせてしまったんだ。

 とりあえず破片を集めないと。箒ってどこにあるんだっけ。母さんが使ってるところ見たことないな。掃除機ってガラスを吸っても大丈夫だっけ……わからん。


「仕方ない、母さんに聞くか」


 俺は仕事部屋に向かった。

 こういうことは直接言って謝ったほうがいいだろう。仕事部屋には入るなと言われているけど、ちょっと声をかけるくらいなら大丈夫なはずだ。

 仕事部屋の前に立ち、引き戸に手をかける。俺はなぜか緊張していた。

 念のため、開ける前に引き戸に耳を当てる。話し声は聞こえない。仕事相手と通話しているわけじゃなさそうだ。

 俺は引き戸を開け、


「母さん、悪いんだけど――えっ⁉」


 引き戸を開けた直後、俺は硬直した。

 その部屋は、俺が思っていたのとは違う空間になっていたのだ。


「なんだ、あの……⁉」


 人が入れそうなほど巨大なコンテナが、部屋の奥にそびえていた。

 元々この部屋は八畳の物置だった。それを母さんが仕事部屋として使うようになったのが、六年ほど前――俺が小学四年生になる頃だ。昔は広い部屋という印象だったが、今はかなり狭く感じる。部屋の半分近くを、謎のコンテナが占領しているからだ。

 俺はコンテナを近くで観察してみた。よくよく見れば扉がついている。


「……カラオケボックスみたいだ」


 頭に思い浮かんだのは、〝防音個室〟という単語。

 防音個室は家でも作れて、周囲をテントで覆っただけの簡単なものから工事が要る本格的なものまでいろいろある。どうして俺がそんなことを知っているのかというと、いつかの配信でマリアが話していたからだ。

 そして、今、俺の目の前にあるのは本格的な防音個室だった。


 ……母さん、中で何をやってるんだ?


 俺は防音個室のドアノブに手をかける。

 ガチャリ。ドアを僅かに押し開けた瞬間、中の音が漏れ聞こえてきた。


「――出ないなぁ」


 それは、俺の知る母の声ではなかった。

 しかし同時に、ついさっき何度も聞いた声ではあった。

 母さんは部屋の奥でマイクに向かって一人で喋っている。こちらに背中を向けた格好でゲーミングチェアに座っており、ヘッドホンをしているため、俺がドアを開けたことに気づいていない。


「えっ、『脱げば出る』? ……はいはい、アイドルを脱がそうとしちゃダメでしょぉ。マリアはメタライブの清楚担当なんですからね」


 この包容力のある可愛くも優しい声、のんびりとした喋り方。


 え? いや……いやいや……。

 ち、ちょっと待ってくれ……おい、嘘だろ? 嘘だって言ってくれよ……。


 ばくばくと心臓の鼓動が暴れだすように加速する俺の目の前で、しかし母さんは言う。


「あっ! スーパーチャットありがとぉ! 天母マリア、頑張りますっ」

「…………」


 俺は、そっと防音個室のドアを閉め、立ち去った。

 自分の部屋に引き返してベッドに倒れこみ、布団を頭まで被る。

 思い出すのは、昨日の一対一トークで俺がリクエストした台詞。


 ――ママは翔くんのこと、だ~いすき! マリアをお嫁さんに、してください♡


「ああああぁぁぁああッ‼ 誰かっ、誰か俺を殺してくれええええぇぇぇええッッ‼」

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