放課後、桜の基地で

POKA

五月

 〝そよ〟が学校に来なくなった。

 連休が明けた火曜日に風邪で休むと連絡があって以来、学校に来ていない。

 先生は〝つぐ〟に、そよの家まで様子を見に行ってほしいと頼んだ。

 風邪が治っているようだったら学校に来てほしい。先生が話をしたがっていると伝えてくれないか、と、先生は言った。

 つぐは困ってしまった。

 いつも普通に喋ってはいたけれど、席が隣というだけで、つぐとそよは特別に仲が良いというわけではなかった。

 つぐは〝ももえ〟に相談しようと思った。

 ももえは半年ほど前に東京から引っ越してきたばかりだったが、つぐとはなぜか気が合って、クラスの中ではつぐが誰よりも仲良くしていた。ももえは中学三年生にしては大人びていたし、頭も良く、色々なことを知っていた。

 きっと、ももえは頼りになるに違いない、と、つぐは思った。


   §


 K市は人口二十万人ほどのベッドタウンだ。電車に乗れば一時間ほどで東京に出ることができる。駅前に二つのデパートがあって周辺の街から若者が集まってくるし、首都圏の重要な物流経路である幹線道路沿いにはいくつかの大きなショッピングモールも建っていた。

「でも、いなかだよね」と、ももえはいつも言った。

 確かに、駅から車で少し走ればすぐに畑や田んぼが広がり、市の北側と南側にそれぞれ川が流れているし、隣接する市との間には大きな沼があって、色々な種類の水生植物や野鳥などを見ることができる。市内の大半は住宅地として拓かれてはいるけれど、カブトムシやクワガタが集まるようなクヌギの林もまだあちこちに残っていて、子供たちは夏になると虫網と虫かごを持って自転車に乗り、出かけて行ったりした。

 東京から引っ越してきたももえにとって、ここはいなかであるのに違いなかった。


 つぐ、ももえ、そよはK市立第五中学校の三年生で、同じクラスだった。

 つぐとももえは学校から帰る方向が一緒で、毎日二人で歩いて帰っていた。ももえは半年前まで東京のマンションに家族で住んでいたが、親が一戸建ての家をK市に購入して、小学生の弟と家族で引っ越して来た。

「中学の卒業まで待ってくれたらよかったけど…」

 つぐと仲良くなり始めた頃、ももえは言っていたが、東京に未練があるような様子はあまり見せなかった。

「どこに住んでいてもあまり変わらないよ」

 つぐが東京を羨ましがるようなことを言ったとき、ももえはそんな風に答えた。

「電車で原宿や渋谷にも遊びに行けるし、友達にだって会いに行けるし…」

 それから、少し後ろめたそうに言った。

「それにわたし、むこうにあまり友達いなかったし」

 三年生のクラス替えで、つぐとももえは同じクラスになった。

 四月の最初の登校日につぐがももえに話しかけて、二人はすぐに仲良くなった。と言っても、何か共通の話題があって一気に話が盛り上がったという訳ではない。つぐは理由なくももえに近づいていき、ももえは何となくつぐを受け入れた。

 そして、二人はお互い一緒にいて何も喋らなくても苦にならないようだった。


 先生からそよのことを頼まれた日も、つぐとももえは二人で下校していた。

 つぐは脚がすらりと長くてスタイルがよく、ほっそりとした面長の端正な顔立ちだった。切れ長で奥ぶたえの目は清廉な印象で、すっきりと鼻筋がとおり、つやの良い真っ直ぐな黒髪を頭の後ろで一つに束ね、前髪を斜めに流していた。透き通るような白い肌で美しい顔立ちなのに、いつもさばさばと気取らない表情で、薄い唇から覗く整った歯並びを見せながら快活に笑った。ももえはよく、つぐが男の子であるかのように接して、ふざけていた。

 ももえは、つぐよりも少し背が低い。睫毛が長く色素が薄い綺麗な色のつぶらな瞳で、黙っていても何かを語りかけているような、はっきりと大きな目が印象的だった。ふっくらとした頬にほんのり赤みがさし、大きくはないが小高い鼻と、丸みを帯びた上品な唇で、つぐとは対照的に常に女の子っぽく可愛らしい表情を見せた。ただし、ふわりとした前髪から時々見えるへの字の形をした眉が、隠れた意志の強さを感じさせることもあった。


「そよ、休んでるでしょ?」

 校門を出て広い道を渡り、花屋の横を通って住宅街に入った辺りでつぐが言った。

「風邪じゃないの?」ももえは不思議そうな顔をした。

「分からないんだって。先生に、様子を見てきてほしいって言われた」

「そうなんだ。それで?」

「どうしようかなと思って」

「どうしようって…」

 ももえは目を丸くしてつぐを見た。

「つぐがそよちゃんの家に行くしかないんじゃない?」

「いや、そうなんだけどさ」

 つぐは少し顔を赤らめて、ももえの視線から逃げるように目をそらした。

 ももえはそれを見て何かに感づいたように微笑み、つぐの手を握った。その動作は緩やかなのに素早く、隙がなかった。

「どっち?そよちゃんち」

 ももえの掌の温度と柔らかさを自分の手に感じて、つぐはびっくりしたような、恥ずかしいような気持ちになり、慌ててももえの手を引いて歩きだした。


 そよの家は、つぐとももえの帰宅路からはずれて駅と逆のほうへ十分近く歩いたところにあった。つぐは町名までしか知らなかったから、詳しい住所を先生に教えてもらい、その住所を調べて二人でそよの家を探した。

 二十年ほど前から分譲され始めた、元は高台の林だったようなこじんまりとした住宅街の一角に、そよの家はあった。それほど大きくはないが新しくて綺麗な家で、明るいベージュ色の外壁に深い鼠色の屋根、出窓の周りと小さなバルコニーは濃い茶色の木目調になっていた。

 お洒落だな、と、つぐは思った。

 玄関につながる短いアプローチの外側にアルミ製の門戸が建っていて、つぐが門に付いた呼び鈴を押すと、少し間をおいてインターホンから「はい」という声が聞こえた。そよの母親らしかった。

 つぐはあらかじめ挨拶を考えてはいたものの、一瞬ひるんでしまった。だが、ももえは落ち着いていた。

「あの、五中のそよちゃんの同級生なんですけど、様子を見に来たんですけど…」

「ああ! そうなの。ごめんなさいね。ちょっと待ってて」

 すぐに玄関のドアが開き、すらりと背の高い美しい女性が出てきて門を開けてくれた。二人はそれぞれに名乗り、先生に頼まれてそよの様子を見に来たことを告げた。

「わざわざ来てくれてありがとうね」

 そよの母親は申し訳なさそうに言った。

 つぐは、中学校の文化祭で保護者会の出店に立って手製の焼き菓子を売っていたそよの母親の顔を覚えていた。母親は少し色を抜いた肩のあたりまでの長さの髪の毛に嫌みのない自然な化粧で、上品だが親しみやすさがあった。服装は、生成りの七分袖のTシャツに濃い藍色の細いジーンズを穿いていた。つぐは、大人特有のとげとげしさを感じさせない母親の雰囲気を、なんとなく好きだと思った。


 そよの母親は、つぐとももえを家に上げてくれた。

「つぐちゃんのこと、そよがたまに話しているのよ」

 階段を登りながら、そよの母親が言った。

 つぐは少し意外だった。そよとはもちろん仲が悪いということはなかったが、とりわけ親しいという意識もないし、これと言って特別なことを話し合ったような記憶もなかったのだ。それでも、そよが家で自分の事を話しているというのを聞いてやはり悪い気はしなかったし、少しむずがゆいような恥ずかしさもあった。

 三人は二階に上がり、短い廊下のつきあたりの部屋のドアをそよの母親が叩いた。

「つぐちゃんとももえさん。先生に頼まれて、来てくれたよ」

 そよの母親がドアを開けてくれて、つぐとももえは部屋の入り口から中を覗き込んだ。そよは、勉強机の椅子に座ったままこちらを見ていた。

「つぐちゃん、ももえちゃん…」

 そよは眉尻を下げて、困惑したようにつぐとももえに笑いかけた。


 そよはパジャマではなく、部屋着のような紺色のスウェットパーカーに黒いジャージを穿いていた。細い筆で水墨をさっと引いたような眉にぱっちりとした睫毛と半月型で黒目がちの瞳、少し上向きで形のよい小さな鼻、そして上唇が山なりで憂えたような表情を作る特徴的な唇が、色白で小さな丸い顔の真ん中に綺麗に整って集まっている。全体に曲線的で柔らかく、ふとした表情にも愛らしさが浮かぶ印象の顔立ちだった。髪の毛は背中の真ん中辺りまでの美しい長髪で、本を読むためか前髪をゴムで結わき、なだらかな丘のように広い額がはっきりと見えている。いつもは眼鏡をかけて学校に来ていたが、部屋ではコンタクトレンズを使っているのか眼鏡はかけておらず、年齢よりも少し幼く見えた。

 そよは手に持っていた文庫本を机に置き、椅子から立ち上がった。母親と似て細身で背が高かった。

「二人ともごめんね、なんか…」

 そよは落ち着きなく手を動かしながら、つぐとももえを部屋に招き入れ、二人は、うん、とか大丈夫、とか言いながらのろのろとそよの部屋に入った。

 部屋は六畳ほどの洋室で、入り口の正面から見て左の壁に寄せて勉強机があり、右の壁に寄せてマットレスベッドが置いてある。ベッドの脇には古めかしい小さな丸いちゃぶ台とクッション。勉強机の上は筆記用具と何冊ものテキストやノートでいっぱいになっていて、机の隣には小さな縦長の本棚が置かれ、そしてベッドの足元近くに建付けのクローゼットがあり、折れ戸が開いてたくさんの服が見えていた。

 そよの部屋は、家具や壁紙は決して派手ではなく落ち着いた印象だったが、所々に置かれた可愛らしい小物やぬいぐるみが女の子っぽさを感じさせた。つぐが気になったのは、ベッド脇のちゃぶ台の上の小さな化粧箱と並べられた化粧品の瓶、そして四角くて青い小さな折り畳みの鏡だった。クローゼットから覗いているたくさんの綺麗な洋服やメイクの道具は、学校での地味でおとなしいそよの印象とは少しかけ離れている感じがした。


 三人ともがなんとなく立ったままもじもじしていると、そよの母親が飲み物を乗せたお盆を持って部屋に入ってきた。

「リビングからクッションを持ってきたら」

 そよの母親はそう言いながらちゃぶ台の上を手際よく片付けてコースターを三つ並べ、冷たい紅茶のグラスを置いた。そよは小走りで部屋を出て階下に降り、すぐにクッションを二つ手に持って戻ってきた。

「つぐちゃんとももえさんと、少しお話しなさい」

 そよの母親はそよに優しい視線を向けて諭すような口調で言い、それからつぐとももえに「ゆっくりしていってね」と言って微笑んだ。

 母親が出て行ったあと、三人はようやくクッションに腰を下ろした。

 ちゃぶ台は直径四十センチほどの小さなものだったから、自然と三人の距離は近くなった。紅茶のグラスに手を伸ばすタイミングが重なると、お互いの指が触れてしまうくらいの距離だった。

「風邪、治らないの?」つぐが、そよに尋ねた。

 そよは黙って小さく首を横に振った。

 つぐは、何となく気まずくなってしまった。 

「そよちゃん、お勉強、どうしてるの」と、ももえが言った。

 ももえの声には深刻にならないある種の軽やかさがあって、瞬間、小さな部屋の空気は緊張から解放されたように感じられた。

「勉強は自分でしてる。教科書を読んでノートにまとめるのと、課題集をやるくらいだけど…」

 そよは目を伏せたまま、口ごもるように答えた。

「先生、怒ってる?」

 おそるおそる尋ねたそよの言葉に、つぐは首を横に振った。

「怒ってるっていうか、困ってるみたい。そよが休んでいる理由が分からないから、様子を見てきてほしいって、頼まれた」

「お母さんに風邪って連絡してもらってるんだけど、ばれてたかな」

 そよは苦笑いしながら言った。眉尻が下がり、困ったように眉間にしわが寄るあの表情が顔に浮かんだ。


 つぐは、そよの様子を見て少し安心していた。学校に来ないというのはよほどのことで、風邪ではなくても寝込んでいるとか、部屋のドアに鍵をかけて出て来ないとかいうのを想像していたのだ。けれども、つぐが見る限り、学校を休んでいるということ以外は、そよはいつもと変わらないようだった。

 そよはももえと勉強の話を活発にしていた。ももえは時々かばんから出したノートを開いて、そよの質問に答えた。つぐは、先生から頼まれた、そよの風邪が治っているのなら学校へ来て話をしてほしいという事を伝えなければ、と思っていた。二人の会話はなかなか途切れなかったが、数学の話が終わると少し落ち着いたようだった。

「そよ、あのね」

 つぐは思い切って口を開いた。

「風邪が治っているなら、先生、学校に来てほしいんだって。話がしたいって。別に怒ってる様子じゃなかったから、大丈夫だと思うよ?」

 そよは、それを聞いて申し訳なさそうな表情でうつむいてしまった。

「つぐちゃん、ごめんね。わたしのせいで、先生に頼まれて家まで来ることになっちゃったんだよね。わたし仲の良い友達が少ないから、先生、つぐちゃんに頼んじゃったんでしょ」

「別に、そんなことはいいんだけどさ」

 つぐはぶっきらぼうに言ったが、実際に、そよの事を頼まれた時は少し困ってしまっただけで、迷惑とは思っていなかった。

「明日、学校に来る?」

 つぐはなるべく強くならないように気を付けながら、そよに言った。

 そよは黙ったまま答えなかった。

 つぐはまた気まずくなってしまい、ももえが後を引き取るように言った。

「いいんじゃない。今、無理に決めなくても。明日の朝、大丈夫だったら来る、でいいと思うよ」

 そして、ももえとそよは、国語の勉強の話を始めた。

 それから三人は、勉強の話や学校の友達のこと、流行っているテレビドラマの話などをして、気が付いたら六時を過ぎ、外は薄暗くなってきてしまっていた。つぐとももえは帰ることにしたが、結局そよが学校に来るかどうかはうやむやのままだった。

 

 二人はそよに見送られ、「おじゃましました」と言ってそよの家を出た。そよは玄関のドアが閉まるまで、しきりに謝っていた。

 つぐとももえはドアの前に立ったまま、少し目を見合わせ、息をついた。

「帰ろう」と、ももえが言った。

 すると、玄関のドアが開いてそよの母親が出てきた。

「つぐちゃん、ももえさん、来てくれてありがとうね。迷惑だって分かっているんだけど、よかったらまた来てね。そよ、嬉しいと思うの」

 そうして、そよの母親は笑い(そよと同じ困り顔のような微笑みだった)、きれいな薄桃色のパラフィン紙にくるまれたクッキーを、二人の手に握らせてくれた。


   §


 そよの家を訪ねた次の日、つぐとももえは二人で一緒に登校した。

 ももえは普段、八時前に学校に着いて自主勉強をする。つぐは朝読書が始まる少し前の時間に学校に着くのが習慣だった。その日は、ももえが七時五十分につぐを迎えに来た。

 つぐの家は学校から歩いて十分ほどのところにあり、広い敷地に三棟の大きな建物が建っている団地のような集合住宅だった。そこには第五中学校に通う友達も多く住んでいて、つぐは両親と姉の四人で暮らしている。ももえの家はそこから更に離れた、この辺りでは新しい分譲住宅地にあった。

 二人は集合住宅に隣接した小さな公園で待ち合わせて、学校へと向かった。

「昨日もらったクッキー、食べた?」

 つぐの少し前を歩きながら、ももえが言った。

「手作りなのかな。オレンジの皮が入ってて、おいしかった」

「そよのお母さん、お菓子作るの上手なんだよ。前に学校の文化祭でお店出してた」

「そうなんだ。そよちゃんも一緒に作ったりするのかなあ」

 ももえはちょっと甘えたような、うらやましそうな声で言った。


 K市は全体に土地の高低差があって、坂が多い。低い場所には町名に『谷』が付くことが多く、『台』や『丘』が付く町は高い場所にある。つぐが住む地区も、ももえが住む地区も、どちらかというと高い場所にあって、一方で学校はつぐの住む集合住宅から坂道をずっと下ったところにあった。

 つぐの家の前から通学路を学校に向かってしばらく歩くと、左手に、レンガ模様の石壁に囲まれ、たくさんの樹が生い茂った広い庭を持つ大きな古い家が建っている。住人の姿はほとんど見ない、廃屋のような家だったが、中学校の生徒たちはそこを『洋館』と呼んで、子供をさらう怖い老夫婦が住んでいるとか、妻と子を事故で亡くし正気を失ってしまった男が独りで住んでいるとか、色々な噂話をしていた。

 そこから緩やかな下り坂が始まる。坂は途中で平らになり、また坂道に戻りを繰り返して五分ほど続き、右手に花屋が見えると広い通りにぶつかって、そこが『谷』だった。

 学校は通りを渡ってパン屋と文房具屋を過ぎた右側にあった。自転車通学は認められていなかったから、重い鉄製の校門の向こうに建つコンクリート造りの校舎に、毎朝、生徒たちは歩いて集まってきた。


 水曜日の朝読書の時間は小テストだった。つぐは先生に昨日の事を報告しようと思ったが、朝は機会がなく、掃除と帰りの会が終わってから、ようやく先生と話しをすることができた。

「先生」つぐは足早に教卓の方に歩いて行って、先生に言った。

「そよのことなんですけど」

 先生は教卓の上からファイルを持ち上げた姿勢のまま、つぐに視線を向けた。

「うん。どんな様子だった?」

 つぐは、ももえと一緒にそよの家を訪ねた時の様子を話した。

 そよが思ったよりも元気そうだったことや、勉強は自分なりにやっているらしいということをつぐが話していると、ももえも二人のそばに近寄ってきた。

「先生は」

 報告と言えるような話がひと通り終わると、はっと一つ息をついて、つぐは言った。

「なんで、わたしに頼んだんですか?その…そよのこと」

 先生は、質問の意図が分からないというような表情になった。

「なんでと言われても、適任だと思ったからだよ。迷惑だった?」

 眼鏡の奥にやさしい目で微笑みながら、先生は言った。

「いや、迷惑ではないんですけど」

 つぐは適当な言葉が見つからずに、もじもじと両手の指を動かした。

「とにかく、そよはまだ学校に来るつもりがないみたいです」

 先生は、怒ることもなく頷いた。

「分かった。じゃあ、小テストの用紙とか、教科で出ていた課題とかを持って行ってあげてくれないか。もちろん毎日じゃなくてもいいし、二人に用事がある時は無理をしなくてもいい。それで、訪ねた時にはまた様子を教えてくれると助かるんだけどな」

 つぐは先生が直接そよの家に行くのがよいと思っていたのだが、どうやら先生にはそのつもりはないようだった。


「どういうつもりなんだろう」

 校門を出て通りを渡り、住宅街に入ってから、つぐが言った。

 つぐは少し困惑をしているようだった。先生は用事があるなら無理しなくていいと言ったけれど、その日、つぐは塾がなかったし、ももえは家庭教師の日だったが、訪問は夜の七時半頃なので、結局二人はまたそよの家へ行くことになったのだった。

 二人は手を繋いで、つぐがももえの手を引くようにして歩いていた。

「先生はつぐのことを信頼してると思うけどな」

 ももえは、つぐの方は見ずに前を向いたまま答えた。

 中学校は一年ごとにクラス替えになるが、つぐとそよは二年生、三年生と同じクラスで、担任は二年続けて同じ先生だった。だから先生は二人の事をよく知っていると言えば知っている。それでも、先生がこんなに重要に思える役を自分に任せた理由が、つぐにはよく分からなかった。

「先生は、自分では行くつもりがないのかな。そよの家に」

「でもね、昨日のそよちゃんの様子だったら、いま先生が行くと余計に閉じこもっちゃうと、わたしは思うよ」

「そうか。ももえが言うなら、そうなんだろうね」

 ももえと仲良くなってからまだ一ヶ月ほどだが、つぐは、何かあった時にはももえの意見を全面的に信用していた。ももえが何か判断をしたりする時、つぐはまず同意をすることがほとんどだし、ももえはその様子を見ていつも少し嬉しそうな顔をした。


 そよの家に着き門戸の呼び鈴を押すと、昨日と同じようにそよの母親が応じてくれた。つぐは、今日は落ち着いていられたので、先生に頼まれて小テストの用紙を持ってきたことを告げた。玄関のドアを開けて門のところまで出てきたそよの母親は、困った顔をしていた。昨日の困ったような笑い顔ではなく、本当に困った顔だった。

「ごめんなさい。そよ、塾へ行っているの」と、そよの母親は言った。

 つぐとももえは驚いて顔を見合わせた。二人は帰りの会のあとしばらく教室でおしゃべりをして、職員室の先生のところへ小テストの用紙を取りに行き、それからそよの家に向かったので、家に着いた時には五時を過ぎてしまっていた。

 そよは五時から七時まで近所の個人塾に行っている、と、そよの母親は言った。

「学校に来ないのに、塾には行っているんですか?」

 つぐはそよの母親に尋ねたが、すぐに、ちょっと嫌な言い方になってしまったかなと思った。そよの母親は、気にしない様子だった。

「ピアノの教室にも行ってるのよ。おかしいでしょう?」

 そう言って、そよの母親は笑った。

 そよは月曜日と水曜日には塾に、木曜日にはピアノの教室にも通っているのだという。つぐは、そよが水曜日は帰りの会が終わると急いで帰り支度をして帰宅していたことを思い出した。ピアノを習っているのはつぐも知っていた。そよは、二年生の時に、一月の合唱コンクールでピアノの伴奏を担当したことがあった。

「あの…」なんとなく訊くのが怖かったけれど、つぐは思い切って尋ねてみた。

「理由とか、あるんですか?そよが、学校を嫌いになった」

 そよの母親はゆっくり首を横に振った。

「学校を嫌いになんか、なっていないと思うの。言葉にするのは難しいんだけどね」

 母親は、眉尻を下げて柔らかく微笑みながら言った。


 五月の連休明け、具合が悪いから学校を休みたいとそよが言った時、母親はすぐに何かおかしいと感じた。それが三日ほど続いて、本当に風邪なのかと聞くと、そよは黙って小さく首を振った。

 学校へ行きたくない理由があるのか。勉強が嫌なのか。友達や先生が理由なのか。母親は根気強く尋ねたが、そよは「学校に行きたくないわけじゃないんだけど…」という曖昧な言葉を、だが、思いつめたようにかすれた声で言うだけだった。

 休み始めてから一週間が経った頃、母親は先生に電話で事情を話した。先生は電話口で「無理に理由を正す必要はないので、しばらく様子を見ていてあげてください」と言った。先生は、そよが学校を休んでいることを咎めたりはしなかった。

 そうすると先生は、そよが風邪で休んでいるのではないと分かっていながら、様子を見てきてほしいと頼んだのかと、つぐは思った。

「休んでいる間、家では本を読んだり、自分で勉強をしたり、家事を手伝ったりしてくれているの。私がパートに出る日もあるから…」そよの母親は話を続けた。

 食事も両親と三人で食卓について時間通りにきちんとするし、友達のことを話す事もあるし(もちろん、ほとんどは二年生の頃のことだったが)、塾と習い事には通っていて、部屋に閉じこもりきりという訳ではない。そんなふうにしてさらに一週間が経って、つぐとももえが家を訪ねて来た。

「私は、中間テストが近いから、先生がそうしたのだと思ったんだけど」と、そよの母親はいたずらっぽく笑った。

「実はね、二人が来てくれた日の夜、そよはとても嬉しそうだったのよ。だから、うまく言えないけど、きっと学校に不満があるのではなくて、理由はあの子の内側にあるの。私にだって十四歳や十五歳のころにはそんな経験があったし…」

 だから、なるべく焦らないように、自分の方から無理強いをしないように気を付けているのだ、と母親は言った。

「つぐちゃんとももえさんには本当に迷惑をかけてしまうけれど、時間のある時だけでもいいから、また来てもらえると嬉しいな。実際のところ、私もすごく助かった気分なの」

 夜七時まで待つ訳にはいかなかったので、つぐとももえは小テストの用紙を母親に手渡して、その日は帰ることにした。

「今度は、そよちゃんに、ノートのコピーも持ってきますね」

 帰り際に、ももえは笑いながらそよの母親に言った。


「よくわからないな」

 そよの家からの帰り道、つぐは困惑したように言った。

「学校に嫌な事がないし、勉強もしたいって気持ちなのに、なんでそよは休んでるんだろう」

 ももえは手を繋いだまま、覗き込むようにしてつぐの顔を見つめた。

「つぐのそういうところ、好きよ」

 ももえはふざけた調子で言った。

「えっ?」つぐはびっくりしたような声を出した。

「そよちゃんは真面目だし、たぶん、ちょっと不器用だから」ももえは、考えながら少しずつ言った、「自分の中でバランスっていうか…折り合いがつかないんじゃないかな」

 ももえはふいに真剣な表情になった。

「自分らしくいるのって難しいよね」

 最後の一言は、なんとなく独り言のようにつぐには聞こえた。

「ももえはまだ少ししかそよを見ていないのに、分かるんだね」

 感心したように、つぐは言った。

「なんとなくだよ」ももえは答えた。

「想像するしかないよね。お母さんにも、そよちゃん、あんまり話してないみたいだし。でも、先生が直接会いに行かないのは正解なのかも知れない。理由が学校のほうにないとして、もし家に先生が尋ねて来たら、申し訳ないっていうか、すごく追い詰められた気分になっちゃうもんね。きっと、そよちゃん、そういう性格でしょ?」

 そして、また真剣な表情になってつぐを見た。

「何度か通って、もう少し話をしたほうがいいと思う。大丈夫?」

 ももえは珍しく懇願するような目をしていた。

「もちろんだよ」と、つぐは言った。

「でも、そんな風に言うなんて思わなかった。巻き込んじゃって悪かったかな、って思ってたから」

 ももえは、つぐの言葉には直接答えなかった。

「そよちゃんのお母さん、ほっとしていたように見えたから。たぶん、わたしたちが、そよちゃんと学校を繋ぐ糸みたいに思えたんじゃないかな」

 つぐは、ももえの例えがなんだか少し大げさに思えて、恥ずかしかった。


 その翌日から、つぐとももえは朝も二人で一緒に登校するようになった。

 時間は、つぐが少し早起きをしてももえに合わせた。ももえは無理しなくてもいいと言ったが、つぐは「受験に向けてたくさん勉強ができるからちょうどいいよ」と、明るく笑った。

 二人はテストがある教科のノートをコピーしてそよに持って行こうと思ったが、木曜日の放課後の時間は、そよも母親も不在だという事を聞いていた。そよはピアノ教室のレッスンの日だし、母親も夜までパートの仕事に出かけているということだった。そこで二人は金曜日に再びそよの家に行くことにした。金曜日はつぐが夜から塾に行く日だったが、夕方までは時間があった。二人はそよを訪ね、前と同じように勉強や他の色々な話をし、ノートのコピーを渡して、六時前に帰った。それから週が明けて火曜日、また同じようにノートのコピーを持ってそよを訪ねた。

 相変わらずそよは日常会話には活発に応じたが、二人がそれとなく学校を休んでいる理由を尋ねようとしたり、学校へ来ることができるか、という話になりかけたりすると、うつむいて黙ってしまうのだった。それは会話を拒絶しているというよりも、どう話していいか分からなくて困っている、という様子だった。

「そよ。じゃあ、これノートのコピー。明日から一学期の中間テストだからさ」

 帰り際、つぐは言った。

「テストを受けられないと、さすがに先生もお母さんも心配するだろうから、来られるようなら来なよ?無理をする必要はないと思うけど…」

 つぐは努めて気軽な口調で(ももえの口調を真似るようにして)言い、だが、やはりそよは来ないだろうな、と心の中で思いながら、コピーをそよに手渡した。

 二人がそよの家を後にしたのは、また六時を過ぎた頃だった。先生に頼まれてそよの家に初めて来た時から一週間と少しが経っていた。陽は五月の初めに比べれば幾分か長くなっていたが、もうほとんど沈みかけていて、いくつも連なる屋根の遥か向こうの空は、紅い色をわずかに残しながら暗くなり始めていた。


「どう思う?」

 帰り道を歩きながら、つぐはももえに言った。

 ももえは少し考えてからつぐの顔を見た。

「そよちゃん、やっぱり何が何でも学校に行きたくないっていう訳じゃなさそうだよね。あんなに楽しそうにおしゃべりして、勉強だって家じゃサボったって誰も怒らないのにちゃんとやってるし…。何が引っかかっているのかな」

「そよはさ、二年の頃から一緒なんだけど」

 つぐは、ももえの手を引きながら、暗くなり始めた空を見上げた。

「本当にいい子だよ。ちょっと恥ずかしがりやで目立つことはほとんどないけど、真面目で、誰かが困っていたら必ず助けてあげるし、成績だって悪くないんだよ。あんなに優しいんだもん、わたしもそよが学校を嫌いになったなんてことはないと思う」

「そよちゃんとそんなに仲良くないって言ってたけど、良いところ、たくさん知ってるじゃない」ももえは微笑んだ。

「つぐは、そよちゃんに、また学校に来てほしい?」

「そりゃあ…」つぐは一瞬考えて答えた、「そよが、本当は学校に行きたい、と思っているなら」

 つぐは、頭に浮かんだことを一つ一つ確かめながら言葉にしているようだった。

「力になりたい。何をしたらいいか分からないし、なれるかどうか自信はないけど」

 それから二人は、お互いの家へ向かう分れ道まで、黙ったまま手を繋いで歩いた。

 結局、五月の最終週、中間テストの期間もそよは登校しなかった。

 そして、六月になった。


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