結局私と萩本くんは、学校より少し離れたコンビニに入って、そこで話をすることにした。とりあえずそれぞれコーヒーを買って、カフェスペースに座る。

 私は甘くしたカフェオレ。萩本くんはブラックコーヒーと一緒に唐揚げを買って、それをもりもりと食べていた。

 そのとき、私は初めて萩本くんがマスクを取っている姿を見た。

 体育は男女別だからどんな格好で授業を受けているか知らないから、私はできる限りカフェオレの紙カップに視線を向けながら、上目遣いでちらちらと彼を見ていた。

 日焼けしていない肌。意外と通っている鼻筋。頬はシュッと肉が削げていて、それでいて痩けている印象がない。唇は薄く、そこから普段聴いている【カズスキー】さんの歌が紡がれているのかと思うと、意外な気分だった。


「そういえば【カイリ】さんは歌の練習ってどうやっているの?」


 唐揚げの入ったカップに手を伸ばしながら、萩本くんがなにげない口調で尋ねてくる。それに私はどう言ったものかと迷う。


「練習した……覚えがなくって……」

「ふうん。いろんな歌を歌っているのに? あのウィスパーボイスは貴重だと思うけど」

「ウィ、ウィスパーボイス……そんなこと、初めて言われた」

「もっとあっちこっちのSNSで宣伝したら、いろんな人が聴いてくれると思うけど、そういうのはする気ないの?」

「わ、私は……本当に……歌えれば、それでいいかな、なんて……」


 そもそもたまたま動画サイトで聴いた曲が素敵だった、動画SNSで聴いた歌が頭の中で繰り返し再生されている。そういうのをなにげなく口ずさんでみたら歌えたから、趣味の一環でアプリに上げてみたのが初めだ。

 歌手志望の人だったら、もっとガツガツと大手動画サイトにプロモーションビデオを撮ったりして宣伝するんだろうけれど、私はそういう欲に欠けていた。ただ歌いたかったから歌っていただけ。

 クラスメイトの名前も顔も覚えられない私は、代わりに歌詞と曲を覚えて歌っている。人からしてみると訳がわからないなと思われてもしょうがないんじゃないかな。

 それでも萩本くんは否定しなかった。


「ふーん。俺はねえ、風呂場で歌ってたりするよ」

「お風呂……うん。声が響くし、歌いやすいね」

「そ。そこでだったらいくらでも声が伸びるし湿度もあるから、歌歌い続けるのにちょうどいいんだよね。SNSに上げていったら、なんか受けちゃって」

「そ、うなんだ……でも萩本くんも……私と同じで宣伝とかしないんだね?」

「えっ? してるけど。SNSも文章中心、写真中心、動画中心だと、それぞれ客層が違うから、それぞれのところに歌った動画を投稿してみたら、結構違う反応が返ってくるから」

「そんなにたくさんアカウント管理して……上手く回せるの?」

「慣れたら割と楽」


 それが不思議でしょうがなかった。

 私自身には承認欲求がない。人が多いと、名前と顔を覚えなくちゃいけないというストレスがあるから、自然と人が少ないほう、人が少ないほうに移動してしまう。そこでは人にどうこう言われない代わりに、覚えなくても生きていけるから、息がしやすくなる。

 でも萩本くんは違うみたい。

 萩本くんは「うーんと」と言いながら、唐揚げの脂のついた指をチロリと舐める。


「俺は単純に、上手く歌えた曲を聴いてもらいたいだけ。最近はすごい曲をつくってくれてる人とか、格好いい歌詞を書いてくれる人とかもいるから、なおのこと、すごいいい曲だから聴いて欲しいって思うだけだけど」

「……すごいね」

「そう?」

「私はそういう……ガツガツしている? そういうのがないから。それに、萩本くんは当たり前なことを当たり前に繰り返しているだけだから、ガツガツしているとも違うし……」

「ふーむ……」


 萩本くんは指を舐め終えると、グビッとブラックコーヒーを呷った。


「苦くないの?」

「うーん、コンビニのコーヒーって割と薄いから平気。エスプレッソとか、超苦いよ」

「そうなんだ……」


 変な会話を挟んでから、ふいに「じゃあさ」と言ってきた。


「一緒にカラオケ行かない?」

「え……」

「行ったことないの?」


 私は素直に頷いた。

 中学時代の友達も、特にカラオケに興味がなかったし、ひとりで入ったこともない。ただあそこには主婦会や老人会がたくさん出かけているから、知り合いに見つかったら面倒だなあと思って、行ったことがなかった。

 だからひとりで歌ってた訳だし。それに萩本くんがひと言きっぱりと言った。


「もったいない」

「……ええ?」

「山中さんは、ちゃんとマイクで歌う快感を知ったほうがいいよ。ほら、行こう」

「え……うん」


 そのまま私は、萩本くんに連れさらわれるようにして、カラオケ屋へと向かうこととなった。


****


 カラオケ屋はカウンターで受付を済ませると、あとは全部セルフサービス。会計までセルフサービスなのかと、いちいち物珍しい顔で見てしまった。

 プラスチックのグラスをふたつ持った萩本くんは、もうすっかりと端正な顔つきをマスクで覆い隠してしまっていたことに、私は少なからずほっとしていた。

 あれだけ格好いい人とふたりで歩くのは、きっと緊張してしまうから、隠してくれていたほうがいい。


「なに飲む? ちなみにウーロン茶はお勧めしない」

「え……なんで?」

「ウーロン茶、喉の脂を持って行っちゃうから、声が枯れやすくなる。あと唐揚げがいいよ、喉に」

「……それは多分嘘だと思う」

「単純に俺が唐揚げ食べてたほうが、歌歌う調子がいいだけだけど。あと喉を温めたほうが歌いやすい」


 さっきのコンビニの飲食を思い返した。

 そういえば、私はなんとなく甘い物が好きでカフェオレ頼んでいた中、普通に温かいブラックコーヒーを頼んでいたから、歌を歌うときのジンクスに沿っていたのかもしれない。

 結局私はオレンジジュースを、萩本くんはコーラを頼んで、取れた部屋へと向かった。

 カラオケルームはもっと狭くて薄暗いものだと思っていたから、通された部屋は広い上に明るく、スクリーンにカラオケの機械が接続してあるのを見て、私はポカンと口を開けてしまった。


「カラオケって、こんな広い部屋で歌うものなの?」

「多分今空いている部屋がここしかなかったんだと思う。本当だったらもっと狭い部屋だし、ここ多分十人部屋だと思うよ」

「十人部屋……贅沢だね」

「あ、ちなみに曲はこれでリクエストするの」


 そう言いながら、マイクふたつと一緒に、タッチパネルを持ってきてくれた。

 それに私は困った顔で眺めていた。


「あのう……」

「ん? 歌いたい曲がないとか?」

「……そうじゃ、なくって。あのう……私、曲のタイトル全然知らなくって……」

「あれ。普段歌っているのはどうしているの?」

「動画をパッと見て、それで曲を覚えているから……タイトルまで覚えてない……」

「マジか」


 萩本くんにそう言われてしまった。……そうかもしれない。本当に動画SNSで人が歌っている曲をそのまんま覚えてしまっているから、タイトルとかを覚えていない。

 そこで萩本くんは「ちょっと貸して」とタッチパネルを取り上げると、何回かタップしてから返してくれた。


「歌い出しはわかる? それでも検索できるよ」

「えっと……うん。ありがとう」


 私はどうにか歌い出しの歌詞を思い返しながら、それをタップして入力してみると、曲が出てきた。なるほど、世の中のカラオケの利用者って、こういう風にやっているんだ。


「えっと、これを押せばいいの?」

「そこにカラオケの機械があるから、そっちに向けて送信してみて」

「わかった」


 しばらくすると、思いの外大きなボリュームで曲が流れてきたから、私は思わず「ひゃっ」と小さく背中を丸める。すると萩本くんがマイクの電源を入れてこっちに回してくれた。


「じゃあ歌って」

「えっと……はい」


 正直、緊張する。

 私が最後に人前で歌ったことがあるのは、中学時代の音楽の歌唱テストだったと思う。人前で歌わないといけないから、頭が真っ白になって歌詞も曲も飛んでしまい、ろくでもない歌を歌って、皆の前で先生に怒られた。

 人前で歌うのは苦手だし、ましてや【カズスキー】さんだと明かしてくれた萩原くんの前だ。ウィスパーボイスだって言われてもわからない中、私はどうにか歌いはじめる。

 カラオケマシンは初めて使ったけれど、マイクを通して声が何倍にも増幅されたような気がする。歌を歌っているときは、体が楽器なんだと思っていたけれど、マイクも楽器の一部になったような気分。

 それに伴奏が思っているより大きく聴こえて、一生懸命合わせないと、声が裏返ってしまうような危機感がある。

 一生懸命歌っていたら、三分ほどの曲はすぐに終わってしまった。私が「ほっ」とひと息ついてマイクの電源を落としたら、乾いた音が響いた。萩原くんが拍手をしてくれたのだ。


「すごいな、本当に山中さんは」

「えっと……どうして?」

「一曲目って、どうしても全開で歌えないんだよな。肩慣らしに一曲二曲持ち歌を歌って、本番は三曲目以降が俺のパターン。でも山中さんは一曲目から持ち歌でしょう? この曲、アプリで聴いたことがある」


 それに私はドキリとした。

 今の曲は、たしかに歌ったことがある。でもそれは私がアプリをスマホに落として、投稿をはじめた初期の頃の歌だ。それを聴いててくれたなんてと、なんとも言えないむずがゆさが生まれてくる。


「あ、あのう……」

「うん?」

「【カズスキー】さんは……歌わないんですか?」

「どうして敬語? あとハンドルネーム」

「だって……生歌聴きたいから」

「うーんと。じゃあリクエストはある?」


 そう尋ねられても、私は曲を歌で覚えてしまっていて、タイトルで覚えていない。私は鼻歌で「ふんふん」とイントロを歌って「これ」と言うと、萩本くんはタッチパネルをぽちぽち動かしはじめた。

 そしてカラオケマシンに入力すると、聴き覚えのある曲が流れてきた。

 萩本くんは骨張った指でマスクを外すと、それを無造作に制服に突っ込んで歌いはじめた。

 聴いたら誰もが一度は恋をしてしまいそうな声。ときおり混ざる吐息。そして曲調はアップテンポで強弱激しいにもかかわらず抜群の安定感で難なく歌い上げてしまう力量。どれを取っても満点で、その曲を十人部屋の大きなスクリーンの特等席で聴かせてもらった私は、贅沢者以外のなにものでもない。

 曲が終わった途端、私は大きく拍手をしてしまった。


「すごい……!」

「ありがとう……そこまで喜ばなくっても」

「私じゃなくっても喜んでると思う。この曲、ものすごく難しいでしょう? たとえば……」


 サビの部分の音が三回跳ね上がる部分を歌うと、萩本くんは「うん」と頷く。


「この部分無茶苦茶難しいよね。でも山中さん歌えてない?」

「マイクを通してだと、多分声がひっくり返って歌えないと思うよ」

「でも歌えてる。あのさ、じゃあ俺もリクエストしていい?」

「なに?」


 萩本くんも鼻歌で曲をリクエストしてくれた。タイトルは覚えてないけど、たしかに前にこの曲もアプリで歌ったと思う。


「うん。いいよ」

「じゃあ曲入れるよ。【カイリ】さんへのリクエスト」

「それくすぐったいよ」


 こうして私たちは、互いにリクエストを重ねながら、歌を歌いはじめた。

 最初は緊張して、声帯が縮こまっていたはずなのに、今まで自室以外でこんなに緩んだことがない。私も萩本くんも、フリータイムをたっぷりと楽しんだのだった。

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