第六章――鷹と狼⑧――
フェンリルはかつてないカザドの眼光の鋭さに、怒気を孕んだ低い声に、思わず怯んだ。
「フェンリルよぉ……お前、そんなに何もかもを憎んでばかりで、しんどくはないか……。どうせなら、もっと別のことに躍起になったらどうなんだ」
「誰のせいで――」
「さぁな、誰かな。神々か?
カザドは失笑した。その笑みの酷薄なことといったらなかった。
叱られる前の子犬のように尻ごみするフェンリルに、カザドは言った。
「お前の言う通り、この世の全てが
フェンリルは自分の耳を疑った。
それはいつも彼が胸の内に秘めていたことであり、信心深い老人の言葉であるはずがないのだ。
カザドは市を見渡したのち、再びフェンリルに向き直った。
「――だがな、そんな地獄であがいているのは、なにも俺たちばかりじゃないんだぜ。ここにいるのはそんな奴らばかりだ。……憎むなと言っているんじゃない。ただ、ほんの少し、仲間たちに対するのと似た気持ちを、向けることはできないか? もっと別の何かが見えてはこないか?」
その眼差しに、フェンリルは胸をつかれた。
照りつける無情な太陽のようだった。
憐みを降りそそぐ哀しい月のようでもあった。
カザドがなにを言わんとしているのかわからない。
奴らがトルヴァたちと同じであるはずないのに。
なにかを期待されている。
いったいなにを?
わからない。
わかりたくない。
どう答えればいい?
哀れなるものが忍びよる。
悲鳴が近づいてくる。
許せないと泣く。
許すなと叫ぶ。
敵だと喚く。
許さない。
「――あいつらに、そんなもん向けたところでなんになる。全員黙らせるほうが確実だろ」
「
「そんなのわからねぇだろ!」
「わかるさ」
カザドは静かに断言した。
「……わかる」
カザドはくりかえした。
フェンリルの表情に怪訝な色が浮かぶのを見て、先に目をそらしたのはカザドの方だった。
「今の俺に、お前のその若さがあればなあ……」
それこそきっと、なんでもしただろうに。
(いや、それでも俺はこんな風にしか生きられなかっただろう)
やり直したところで結局、カザドはあの小太りの貴族を、館の人々を、奴隷たちを、何度だって殺してまわるだろう。そうでなければ出会うこともなかった。あの選択をしたカザドでなければ――。
カザドは
たらればを考えても仕方がないのに。つくづく老いとは嫌なものだった。
このどうしようもない少年に、もっと時間をかけてやれたらいいのに。よりそってやれればいいのに。
カザドにはもう、荒っぽい方法で風穴を開けてやるより他ないのだ。
「――教えてやるよ。お前はな、ヴァナヘイムで自分たちに降りかかった、なすすべの無い暴力が忘れられないんじゃない。忘れたくないんだ。
フェンリルを叱りとばしているのか、それともかつての自分を責めているのか、カザドにはもうわからなかった。
「
「――は?」
すべてを失ったあの日を。
父が、母が、ヴィーダルが、ヘイルが、炎に飲まれたあの日を。あの忌まわしい夜を、あの出来事を、この世の何より大事にしている?
愛している?
愛しているだと?
「ここを見てもその
頭を殴られたようだった。
かっと湧きあがる熱の赴くまま、フェンリルはつむじ風を巻き起こしてカザドの顎めがけて蹴り込んだ。
しかしすれすれのところで、蹴りはびたりと静止する。
つむじ風は勢いをなくし、対するカザドは瞬きひとつしないまま、フェンリルを見下ろしていた。双方の青い髪が、そろって残風に煽られる。
煽られた前髪が額に戻る頃、フェンリルが足を降ろしカザドに背を向けて歩きだした。ざしざしと踏む雪音に、やり場のない憤りが溢れていた。
カザドは黙ってその背中を見送った。声はかけなかった。どれほど無情なことを言ったのか、よくわかっていたから。
ハティがカザドとフェンリルを交互に見比べて、せつなげに鳴く。カザドが身ぶりで行けと示すと、フェンリルの後を追って駆けだした。どうしてか、フェンリルはあの狼犬の関心を買ったらしい。妙に懐いていた。
カザドは懐から真新しい短剣を取り出した。成人の祝いにと贈るつもりで手に入れた物で、黒塗りの鞘と柄に、遠吠えする狼の意匠が施されていた。
「――ん? なんだ」
じっとこちらを見上げるスコルの物言いたげな瞳に応えるつもりで、カザドは語りかけた。
「渡しそびれちまったな。あいつの名には似合いの意匠だろう? な?」
スコルの頭をぽんぽんとたたいてやる。狼は何も語らず、されるがままにしていた。
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