第二章――フェンリル①――

 山峡の雪道を急ぐ二台の幌馬車ほろばしゃがあった。

 前方を行く方の馬車には、地の民アマリの一家が乗っており、後方の馬車にはわずかな護衛と、積みこまれた調度品の数々が所狭しとひしめき合っていた。

 彼らは地帝陛下のおわす都へ帰還する途中の商人一家だった。

 一番上の息子はもう年頃で、跡目を継ぐ者として学ばせるために、最近はこうして、ともなうことが多くなっていた。

 しかし、下の弟たちとまだ乳飲み子の末の子には初めての長旅であり、結局のところ仕事を名目にした一家での気晴らしなのだった。

 本来ならもっと、護衛も商人仲間も連れてくるはずなのだ。

 そのせいか道中の妻の機嫌は大変悪かった。

 せめて身の回りを世話する使用人をもう一人くらい連れてくるべきだったかもしれない。それか従兄の家で世話になった時、誰か借りていれば。

 自宅に着いたなら、こっそり用意していた新しい飾り帯をつけてやろうと、家長たる男は思っていた。

 小言もいくらかやさしくなるだろう。


「やれ、風がでてきた」


 一家の乗る馬車を操っていた御者が、いかにもまいったという口調でぼやいた。幌をめくり、男は御者に呼びかけた。


「どうした?馬足が遅くなったようだが」

「あぁ旦那様、まいりましたよ。風で雪が舞いあがって、道がよく見えんのです」

「ふむ」


 言われてみると確かに、白みがかっていた。びゅうびゅうと音をたてる冷えた空風に、粉雪が霧状に舞い上がっている。来る前はあれほど晴れていたのに。

 時折白樺が窺えたが、すぐ風雪に覆い隠された。男はたっぷりと蓄えた顎髭あごひげをなでつけながら、御者に言った。


「確かに視界が悪いな。もっとひどくなるようなら止まった方がいいが、できるだけ馬は止めないようにしてくれ。良くない噂もある」

「はい」


 幌を下げ男は居ずまいを正した。すると、抱いていた末の子を使用人の女に渡して、妻が口を開いた。


「良くない噂とはなんです?」

「あぁなに、大した話ではない。一月ほど前に立ち寄った村で世話になった、従兄の家があったろう。そこで耳にしたのだ。近頃、この雪山には天の民ヴィトの亡霊が現れるのだという」


 とたんに妻は顔をしかめた。


「まぁなんて不吉な。何故今まで話してくださらなかったのです」

「いやお前、ただの噂ではないか。おどかす必要もないと思ってな」

「それを知っていたなら子供たちと一緒に、家に残っておりましたよ。そのような道を通るだなんてどういうつもりです」

「おいおい、一月前に初めて聞いたのだぞ。それに、ここを越えた方が近道だ。お前も早く家に帰りたいだろう?」

「それはそうですけれども」


 男は妻の肩を引きよせながら、笑ってとりなした。


「そうだろう、そうだろう。なぁに気にすることはない、アマナ女神の懐深い御山に現れたとて、何ができる。何をするとも聞かなかったし、亡霊など蹴散らしてくれるとも」

「調子のよろしいこと」


 妻の皮肉を無視し、男はそういえばと思い起こしていた。従兄が、その亡霊が現れる時には必ず風が吹き、雪が舞って馬足が鈍るのだと言っていた。今の彼らが、まさにその状況ではあった。


(まさかな)


 単なる気候によるものだと、男は楽観した。だいたい天の民ヴィトの亡霊など珍しい話ではない。どこにでも、そういった話はあるものだ。

 男が幼いころ、亡霊ではないが、父からも聞かされたことがある。

 さる豪族のところで飼われていた一人の天の民が、館の人間を皆殺しにして逃げだして以来、夜な夜な現れては地の民と天の民の双方を必ず一人は殺してまわる、血に飢えた化け物になったと。

 その凶暴さはまるで、昔話に出てくる、女神ですらも手を焼いた巨大狼のようだったと。

 言うことを聞かない悪い子のもとには、そいつが現れると言われて怯えたものだった。


(そうとも、珍しくはない……)


 懐かしさに目元をほころばせると、妻が気付いて怪訝そうにした。



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