#2 ここから鉄道で少し移動した先に

「え?」

「ここから鉄道で少し移動した先に面白い町がある」

 ヨルマが先程まで読んでいた本は、いつもの魔法や呪いに関する書物ではなく、この国の観光ガイドのようなものだったらしい。

 指で示されたのは、現代美術が盛んだという町のページだった。

 アートで町興しをしようと数十年前から国中のアーティストを誘致し、アトリエや工房をつくって若い芸術家たちに開放した。町には常設の展示品もたくさんあるが、年に一度この時期は町中で芸術祭が行われる。

「町がまるごと大きな美術館になると書いてある。気晴らしにどう?」

「……大丈夫かな。そんなことして」

「へいきだよ」

 からりとヨルマは請け負った。

「ニコラの便利グッズだってあるんだし」

 しずかの森の別れ際、ニコラが手渡してくれた巾着袋には、魔導式がいくつか収められていた。

 魔鉱石を核にして、任意の相手のところに飛んでいく木彫りの鳥。対物障壁を起動することができるブレスレット。それとペアリングの片方。これはリングを持つ者同士がお互いの場所に瞬間的に行き来することができる空間転移魔導式が組み込まれているという。

 もう片方の指環はニコラが持っていて、つまり危険があればこれを使って、ルツィカだけ逃げてこいということだった。

 まだどれも実際に使うほど切羽詰まったことはない。ただヨルマと二人になってからも魔法の練習を継続しているが、全然うまく使えないので、多分自分には魔法の才能がないんだろうと思っている。魔導式も使いこなせる自信がない。

「もし平気じゃなくなったらまた移動するだけだ。行こう」

 背中を押されて、ルツィカはクロゼットから上着を取り出した。

 短くなった髪。気候に合わせたシャツと上着。走りやすいズボンと靴。お金と、ハンカチと、ニコラがくれた魔導式だけが入ったポシェット。それだけが今のルツィカの持ち物だ。

 逃げることに最適化した身軽さは、たまに心許ない。

 ヨルマとはぐれたらもう生きていけない気がするから。

 宿の一階に下りると、「どっか行くの?」とこの宿の息子に声をかけられた。

 彼は同い年のルツィカをよく気にかけてくれる。

 知らない土地でも知り合いができれば愛着が湧くけれど、あまり顔を覚えられることはしたくない。複雑な気持ちだった。

「マキアの町に」

「あーマキアね。いま芸術祭やってるから人多いよ! おれのおすすめは『鼓動の残響』だな」

「鼓動の残響? 絵か何かなの」

「なんか国民の心臓の音を集めて展示してるんだって。おれも昔、登録したなぁ。外国人だとお金がかかるけど、ナタリアたちも録音できるよ」

「そうなんだ。……ありがとう」

 心臓の音……。無意識に胸のあたりに手を置いていた。とく、とく、と鼓動を刻む振動が指先に伝わる。

 他人の心臓の音を展示するなんて、不思議なことを考える人がいるものだ。


 マキアの町へは鉄道で三駅。シリウス三號は小回りも利くし足が速いから便利だけど、いかつい機体が目立ちすぎるので、町中ではあまり乗れない。

 ちなみにルツィカはニコラの家を出たトーヴァ共和国の町中で、魔導式で動く四輪の車を初めて目にして固まり、何百人も人間を乗せて走る鉄道を見て引っくり返りそうになった。シリウス三號にはだいぶ乗り慣れたものの、鉄道はまだおっかなびっくり、ヨルマにしがみつきながら乗っている。

 駅に降り立つと、宿で聞いた通り、観光客でずいぶん賑わっていた。

 駅舎からすでに不思議なかたちのオブジェが展示されている。駅から一歩出た広場にまた大きな銅像。町の上空を覆うようにして張り巡らされたロープには、色とりどりの傘や生花が飾られていた。

 通りに建つどの建物も扉が開け放たれ、自由にアトリエを見学できるようになっている。

「『鼓動の残響』に行ってみるか。せっかくおすすめされたんだし」

 いつの間に手に入れたのか、ヨルマはガイドマップを広げていた。

 マキアの町はムルスカヤの西端にあり、青海に面している。宿の少年がおすすめしてくれた『鼓動の残響』は海沿いにあった。展示は駅前の大通りに集中しており、海を臨むのはこの一軒のみのようだ。

 青海……。ずっとラサラにいたルツィカは、天海以外の海を見たことがない。

「ルツィカは、こういうのは好き?」

「きれいなものは好きよ」

「よかった。そういえばラサラの正教会も好きそうだった」

「うん。正教会の建物の白さや、扉や布の青の鮮やかさが好きだった」

「おれも好きだよ。芸術はよくわかんないけど」

「わかんないんだ」

「学がないからな」

 ヨルマの生い立ちを思い出す。皇国と呼ばれていた時代のベルティーナに侵攻を受けた山岳民族の末裔で、集落を作って細々と暮らしていたという話だった。古代には教育制度もまだ整っていない。十七で殺人を犯してからは死刑囚だったということだから、ルツィカのように学校で授業を受けたこともないのだろう。

「学があってもなくても、わかったりわからなかったりするのが芸術なんじゃない?」

「そうかな」

「そうだよ。きっと」

 全く身にならない会話をしながら、ルツィカたちは駅舎を出た。

 最近はこうして、ひとつずつ互いの中身をひらき合う作業が増えた。ヨルマの妹や皇女との旅の話を聴いて以降、なにか、内側へ踏み込むことを赦されているような感覚がする。

 地図を見ながら工房や画廊のひしめく狭い路地を進んでいくと、唐突に視界が開けた。

 風が強い。

 白い砂浜の向こうに、青い、青い海が見渡す限り広がっている。

 水平線はくっきりと、青海と天海の境を浮かび上がらせていた。砂浜に打ち寄せた海水が空気をはらんで音を立てる。波はざん、と鳴りながら押し寄せ、砂を舐めるように滑り、やがて引き返していった。

 寂しい場所だ。そう感じた自分に驚いて、そしてすぐにその原因に思い当たった。

 生まれ育ったラサラ教国は、ゴドルム山脈の一峰であるアルベルト山に抱かれるようにして造られた。ルツィカにとって天海と大地の境目は常に山の稜線だった。

 ここには山がない。

 馴染みのない潮騒、匂い、水平線。何もかもが心許ないのだった。

 青海は湖よりもずっと広く、遠く、天海よりも青い。ルツィカの髪の毛は潮風に吹かれてぼさぼさになった。荒れ狂う髪で視界が遮られる。

 少し離れた崖の上には、『鼓動の残響』と思しき武骨な建物が建っていた。

「ああ、ここ」とヨルマが目を細めた。

「──西大陸の西の果てか……」

 確かに地図上はこの辺りが西に迫り出す形になっていて、マップには西大陸で最西端の岬、と書いてあった。〈真澄岬〉、天海に一番近いところ、とある。

「おれが十年前に目を覚ましたのは、東大陸の極東部だった。ここは〈わすらるる峡谷〉の反対側なんだ……」

「すごいね。大陸の端から端まで旅してきたんだ」

「そうなるな」

 世界には四つの海がある。

 一つは天海。神々の住まう天の海である。

 それに対するのが冥海。神々の加護を外れた魔性のものの棲み処。

 一つは青海。中央大陸の周囲をぐるりと囲う果てしない海だ。

 それに対する最後の一つが白海。中央大陸を東西に分ける砂の海。

「じゃあ、ヨルマは白海も渡ったことがあるんだよね。砂の海ってどんな感じ?」

 初めての海を見晴るかすルツィカの三歩後ろで、ヨルマは砂浜に座り込んだ。足元の砂を掘り返しては何かを捜しているようだ。視線を落としたまま「どんな感じって」とうわの空でつぶやく。

「見渡す限り白い砂だよ。流砂が岸壁に打ち寄せている。太陽が白い砂を照り返して、反射光がすごいから、船乗りはみんなサングラスをしているんだ。砂が擦れあってきゅいきゅい音を立てるのを砂鳴といって、白海沿岸の人びとはその砂鳴によって明日の天気や波の具合を知る」

「砂が音をたてるの」

「この、潮騒よりは高い音。船はけっこう揺れがひどい。あと、小型の快速船だと輓獣がまだ現役だな。ステラリウムという竜の仲間が船を曳くんだ」

「竜……」

「そう、竜。古代じゃわりと人里近いところに住んでいて交流もあったが、次代が流れるうちに人間を避けて深い山の奥に隠れたみたいだ。いまの時代に人里に残っているのは、動物に近くて温厚な種族ばかりだな」

 白い海はきっと、青海よりもずっと寂しいのだろう。

 見てみたい。

 白い砂の海も、竜も。ラサラにいたら一生見るはずのなかったものだ。

 ラサラを出てよかったと思えるものにもっと出逢わなければ。まだ未練が、恐怖がある。ルツィカが逃げるように出国してしまったせいで、大切な家族たちがひどい目に遭ってはいないかと、眠れなくなる夜がある。

 ヨルマが何かを握った手を差し出してきた。

「あげる」

 開いた掌のうえに落とされたのは、きれいなオレンジ色の貝殻だった。

 表面はつるりとしていて、くるんと丸まったフォルムが可愛らしい。

 ルツィカが貝を陽の光に透かしたり引っくり返したりして観察しているあいだに、ヨルマは立ち上がって砂を掃っていた。崖を上る階段が岸壁に沿って設置されているのが見えたので、そちらに向かって砂浜を歩きだす。

 ヨルマの足跡を追った。

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