7-5

 翌日の正午。ユニコーンダービーを目前に控えたドーンシティ競馬場には十万人以上の観客が詰めかけていた。日本ダービーに勝るとも劣らない熱気を感じながら、俺はプルーフとチームメンバーと共に装鞍所へと足を踏み入れた。

 装鞍所にはすでに何組もの出走馬やジョッキーたちが揃っており、その中には今までのレースで見知った顔もあった。

「久しぶりだな、プルーフとそのジョッキー。それにルドルフも」

 すぐに近づいて話しかけてきたのは禿頭に黒髭のドワーフ、グスタフだった。

 前に会った時と同様、血のにおいのような危険なオーラを発しており、ユニコーンレースの祭典である華やかな雰囲気の中で異彩を放っていた。

 隣にいる彼の愛馬、バイコーンのライトニングボルトも健在だ。全身の筋肉がパンパンに盛り上がっており重厚なフォルムは戦車を思わせる。

「ユニコーンダービーを獲るなどとでかい口を叩いていたくせに。危うく出走すらできないところだったとはな。これでは本番の結果が思いやられるわ!」

「……ふん。お前も似たようなものではないか、グスタフ。ライトニングボルトも出走ボーダーギリギリだっただろうが」

「はん! 俺たちは最終トライアルを一着でゴールしているのだぞ。負けた上にお情けで出走できた貴様らと一緒にされては困る」

「勝手に言っておれ。ここで勝ったものが真の勝者だ。儂らがそうだと今日この小僧が証明してくれるわ」

 ルドルフはそう言っていきなりドンと俺の背中を叩いた。

「お、おう」

 元英雄の強烈な平手に息が詰まりそうになりながらも俺は何とか答えた。

「はん! 最後は他人任せとは。そんな装蹄師などという仕事の何が良いのか理解できんな。まあいい。いずれにせよ、勝つのは俺だ。今度こそお前の夢を粉々に砕いてやるから覚悟しておけ!」

 グスタフは言い捨てると肩をいからせながら大股に去っていった。

 相変わらず仲がいいのか悪いのかよくわからない兄弟だ。

 気を取り直して俺たちが蹄鉄のチェックや馬具の準備を始めて少し経ったころ、急に装鞍所にどよめきが起こった。何かと思って振り返ると、ユーリとアダマンタイトが入ってくるところだった。今日は後ろにオーナーのエレナ・ディアーナ姫も控えている。

「やあ、フーマ」

 ユーリは他のジョッキーたちに軽く会釈すると、真っ先にこちらに向かって歩いて来た。

「もう君と戦えることはないのかと諦めていたけど、こうしてまた会えてうれしいよ」

 今日もユーリの笑顔は爽やかだ。

「ああ、俺も嬉しいよ」

 そもそもホットスプリングステークスでお前に負かされたからだというのによく言えるな、と思ったが俺は口にも態度にも出さなかった。以前ならおそらく突っかかるか、皮肉で返していたところだが、なぜか今はそういう気持ちにはならない。

 思えばあの時、ユーリに負けたことが自分を見つめ直すきっかけになった。そうだとすればあの敗北にも意味はあったし、悪いことばかりではない。そう前向きに捉えることができた。

「前のレースではお前に上手く乗られたが、今日はそうはいかない。俺たちの全てを出し切って必ず優勝を掴み取る。だからお前も本気でぶつかってこいよ。それで最高のレースを見せてやろうぜ」

「う、うん。それにしても……。なんかフーマ、前と雰囲気が変わったね」

「そうか?」

「うん。何というか、自信がありそうで、より手強くなった感じがするよ」

「まあ、俺というより俺の相棒がどんどん強くなってるからな。負ける気がしないってことかもな」

「なるほど。やはり僕が見込んだ通り、君が最大のライバルになりそうだね。僕も本気の本気でお相手するよ。お互いいいレースにしよう」

「ああ」

 俺とユーリは互いににやりと笑い合い、自然と握手した。

「ところで……」

 握手を終えたユーリが少し声を潜めながら尋ねてきた。

「噂に聞いたんだけど、あのヴェロニカ様を脅して出走辞退させたんだって? なかなかやるねえ」

 噂とは恐ろしいものだ。知らないところで話に尾ひれがついている。

「これ、ユーリ。滅多なことを言うものではありませんよ」

 ユーリを窘めたのはいつの間にかやって来ていたエレナ姫だった。

 エメラルドのような美しい瞳と、腰まである長い銀髪。彼女が持つ美貌と高貴な雰囲気は以前遠くから見たときと変わらない。

「この方たちがそのような野蛮な手段を取るはずはありませんわ。きっと平和的に話し合われたのでしょう」

「エレナ様、失礼しました」

「フーマジョッキーですね。いつも妹がお世話になっています。エレナ・ディアーナと申します」

 エレナは優雅に一礼して見せた。

「い、いえこちらこそいつもお世話になっています」

 昨夜ルナとかわした約束のことを思うと気恥ずかしさがこみ上げてくる。

「お、お姉様」

 突然の姉の登場にルナも慌てて近づいて来る。

「お、お久しぶりです」

「まあ、ルナ! 元気そうで何よりだわ。突然ユニコーン一頭だけを連れて森を出た、と聞いた時には心配したけれど、良いご友人に恵まれたようね」

「は、はい」

 姉の前でのルナはいつものハツラツとした感じではなく、少し居心地が悪そうな様子だった。

「……でも、驚いたわ。まさかあなたがユニコーンダービーに挑戦しているなんて。それもこの本番に出て来ているのですから。でもどうしてまたこんなことを? 私たち一族にとってこのレースがどういう意味を持つか、あなたも当然知っているでしょう?」

 そう問いかけるエレナの眼差しは優しいものだったが、わずかながら、しかし確かな冷たさを孕んでいた。姉妹とはいえルナがダービーに出る以上、彼女はエレナにとっての政敵になるのだから仕方のないことかもしれない。

「もちろん、わかっています」

 ルナは毅然とした態度で応じた。

「それでも私、決めたんです。私には叶えたい願いがあります。成し遂げたい目標があります。だからそのために戦うと決心しました。それがお姉様、あなたと争うという結果になるとしても、私は退きません」

「……そう。わかったわ。ではお互い悔いのないよう戦いましょう」

 エレナはぞくりとするほど美しくて酷薄な微笑みを浮かべると、ユーリを伴って優雅に去っていった。

「……怖かったぁ」

 二人が視界から消えるなり、ルナは全身の力が抜けたように膝から崩れ落ちた。

「っ!」

 俺はそんな彼女の手を取り倒れないよう支えてやった。

「ルナはよくがんばったよ」

「ありがと、フーマ……」

 ルナとエレナの仲がどのようなものか。詳しいところはわからない。しかし父親が違うということもあってきっと難しい関係性なのだろう。それでもルナは勇気を見せて自分の中の何かに立ち向かった。俺もそんな彼女に応えられるような結果を出したいと思う。

「あのーー! そこのお二人さん、いつまで手握っているんだい?」

 いつの間にか頭上を飛び回っていたヘカテに指摘され慌てて手を引っ込めた。

「全く……。若いってのはいいねぇ」

 マリアが意地悪く笑ってくる。

「でも残念ながらもうそろそろ時間だよ。気を引き締めな!」

「お、おう」

「小僧、チェックはとっくに終わっておるぞ。後はお前が乗るだけだ」

「ああ……」

 ついにその時が来たのだ。一年間かけて目指してきたユニコーンダービーの舞台へ。世界は違えど、あのレースと同じ名前を冠する栄光の舞台へ上がる時が。

 一年前の日本ダービーの時とは何もかもが違う。世界も馬もルールも、チームメンバーも、そして何より自分自身の心が違う。あの時は緊張と不安に押しつぶされそうだった自分が、今は冷静さと静かな興奮に満たされている。そう変われたのはきっとここにいる仲間のおかげだ。彼らとの信頼関係があるから、自分一人ではないと思えるから落ち着いて前を向ける。だからレースの前に皆に感謝を伝えたい。俺は自然にそう思えた。

「ヘカテ」

「うん?」

「プルーフのコンディションをしっかり保ってくれてありがとな。いつもお前が支えてくれてるから、俺たちも全力を出すことができる。それとその軽口も。イラつくときもあるけど、お前のおかげで俺も気持ちがほぐれるんだ」

「どうしたんだい急に? まあ、一応褒められたってことで素直に受け取っておくけどさ。レースに出たら君だけが頼りなんだから後は任せたよー!」

「ああ、任された!」

 俺は小指でヘカテの小さな手とハイタッチした。

「ルドルフ、あなたの装蹄という仕事への情熱、心から尊敬している。俺たちが怪我無く走れるのはあなたのおかげだ。本当にありがとう。必ず勝って戻ってくるから、そうしたらグスタフとちゃんと仲直りしてくれよ」

「……ふん。グスタフのことはいらん気遣いだ。お前はお前で自分の仕事を果たすがいい」

「ああ!」

 ルドルフの太い腕と固い握手を交わす。

「マリア……。俺を導いてくれてありがとう。あんたの厳しさと優しさのおかげで、俺はやっと自分と向き合えた。天才にはなれないけど、俺は俺の全力を尽くすよ。そして皆の力を借りて結果を出してみせる。このレースが終わったら一杯ごちそうさせてくれ」

「坊やの分際でいっちょ前の口を聞くようになったね。最初に会った時とは随分変わった。今のアンタなら安心して全てを任せられるよ。だからフーマ、胸を張ってしっかりやり切って来な!」

 マリアは抱擁を交わしながら俺の背中を叩き、送り出してくれた。

「ルナ……」

「うん……」

 ルナの瞳はまだレース前だというのに潤んでいる。

「君に会えて本当に良かった。この世界に来て最初に出会ったのが君で本当に良かった。君と出会えたから今ここに立っていられるんだ。だから、一番大切な君へ勝利を誓う。君の大切なユニコーンが最高最強だと証明してみせる」

「うん……。うん!」

 ルナは泣きながら俺の胸に飛び込んで来た。そんな彼女を優しく抱きしめる。

「芦毛が勝てないなんてジンクスを俺たちがぶち破る瞬間をしっかり見届けてくれ」

「うん! フーマとプルちゃんが走る姿、目に焼き付けるよ。だからフーマ、今日もプルちゃんと一緒に無事に戻って来てね」

「ああ!」

 そうして俺はプルーフに跨り、仲間たちに見送られながらコースへと向かって行った。

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