第8話 頭痛の種は発芽して生い茂る
「父は……武勇談だと喜ぶかもしれませんね。あ、いえ、マルディバルを軽んじる気はまったくございませんが」
杯を置いたユリウスが、奇しくも考えたばかりのようなことを言ったものだから、アンナリーザは真剣な表情を保つのに少し苦労した。カール小父様は、実の息子に対しても相変わらずの調子らしい。
「とにかく──ラクセンバッハ侯爵がマルディバルにいることも承知しておりましたから。私の身元さえ分かれば長く拘留されることはないだろうと考えておりました」
「彼も災難を押し付けられるものだな」
目下、アルフレートの頭痛の種であろうディートハルトが、他人ごとのように笑った。祖国の王宮の私室にでもいるかのように、優雅に杯を傾けながら。
大事な陰謀の要になるのだろうに、この王子様の言動はどうも
(評価のし辛い方ね──フェルゼンラングで、どう育ったのかしら)
前世の甥を心の片隅で気にしながら、アンナリーザはユリウスを真っ直ぐに見つめた。
「確かに、フェルゼンラングの侯爵子息ともなれば罪人扱いする訳には参りませんわね」
平時なら、公式に使節を立てて抗議したかもしれないし、回答を待つまでの間はユリウスは拘束されていたのかもしれない。でも、今はマルディバルにアルフレートがいる。フェルゼンラングの高官が近くにいるなら、同国の貴族が起こした騒動についてはそちらに話が行くのは当然のこと、確かに話は早いだろう。アルフレートの頭痛の種はさらに増えるのかもしれないけれど、それはアンナリーザの知ったことではない。
でも、それはユリウスの事情であって、アンナリーザが完全に納得するにはまだ問い質さなければいけないことがある。
「でも──王家の紋章を帯びた馬車を止めるのは、それほど簡単なことでしょうか。小国とはいえ、矜持はございますのよ。父がフェルゼンラングに抗議しても何ほどのことはないと思っていらっしゃったのですか」
「とんでもないことでございます」
怒りと不快を滲ませるためにアンナリーザが目を細めると、ユリウスは慌てた様子で身を乗り出した。
「非礼は幾重にも詫びた上で、
「……つい先日、ラクセンバッハ侯爵からも似たようなお言葉をいただきましたわ」
アルフレートのもったいぶった微笑に比べれば、ユリウスの表情は真摯なものではある。でも、だからといって単純に信じられるものではない。儲け話に安易に食いつけば痛い目を見る──商売の基本を、マルディバルが心得ていないと思っているなら心外だった。
「我が王がラクセンバッハ侯爵にどのような命令を下されたのか、私は存じません。知らされてない以上は王子殿下にも王女殿下にも伺うこともできませんし、どうかおふたりともお答えにはなりませんように。──が、商人たちの動向から推測することはできます」
祖国の命、マルディバルの意図──知れば、板挟みになるかもしれないから、ということだろう。ユリウスの願いに応じて、アンナリーザもディートハルトも無言のうちに頷いた。
「マルディバルはイスラズールとの交易を真剣に検討されている。ラクセンバッハ侯爵が到着していながらその事態とは、我が国も多少は考えを改めているのでしょう。だから、我が家が
先ほどのやり取りからも想像がついたことではあるけれど、ユリウスは現在の状況をかなり正確に把握していた。
(小父様が言い出しそうなこと、と言ったら──)
頭の中にいくつも浮かんだヴェルフェンツァーン侯爵カールの逸話は、あいにく
「動植物の収集で名高いヴェルフェンツァーン侯爵家が……? イスラズールから何かしらを仕入れたいと仰るのですか? かの地の産物になるものがあるなら、確かに有益な情報ですけれど」
エルフリーデ亡き後、侯爵がイスラズールの動植物を得る伝手は失われただろう。珍品の収集には金に糸目をつけないと、息子のユリウスからも聞いた通り。採算が計算しづらい交易に、確実に買い手がいる商品があるなら嬉しいけれど──でも、手放しで歓迎する訳にもいかなかった。
(マルディバルを使い走りにしようというのも、無礼でしょう?)
アンナリーザの目に、じっとりとした疑念が浮かんだはずだ。カールはエルフリーデに親切に接してくれたけれど、その息子がどうかは分からない。まして他国の王女となれば。大国ゆえの傲慢さを、見せつけられることになるのかもしれない。
「殿下がたには想像しづらいことかもしれませんが、虫や、そこらの草花でも商品になる可能性は十分にあります。未知の種に、未知の薬効があるかもしれませんし」
翠の目を輝かせ、頬を紅潮させて語るユリウスは、アンナリーザが構えたのには気付かなかった──いや、気付いた上で、だったのだろうか。アンナリーザが眉を顰めかけたちょうどその瞬間に、彼は笑みを深めて身を乗り出したのだから。
「──だから、私がこの目で確かめたいと思っております。爵位を継ぐ前のこの時期に、このような機会が持ち上がったのは僥倖としか申せません」
「……え?」
王族としても商人としても不覚なことに、アンナリーザは驚きを
「無論、便乗させていただこうなどとは考えておりません。マルディバルの商人たちも、さすがに迷わず船を出すほど冒険心には富んでいない様子──ならば、我が侯爵家が範を示します。
「それは──そうですけれど。そこまで、なさりますか」
船団が大きくなれば、嵐の時も身を寄せ合うことができるし、万が一難破した時も乗員を無事な船に退避させることもできる。ほかの航路ならば、行きずりの船同士で助け合うこともあるけれど、イスラズールに向かう時はそうはいかない──だから、大型の船が増えるだけ乗員の命も出資者の財産も安全になる、のだろうけれど。
(でも、いくら侯爵家でも、いくら貴重な種がいるとしても、
具体的にいかほどの費用になるのかは分からないまでも、安い投資ではないのだろうに。ユリウスの眼差しには微塵も恐れは見えなかった。
「千載一遇の好機ですから」
父親にそっくりの不敵な表情で彼は宣言し──そして、ディートハルトもなぜか大きく頷いていた。
「君も来てくれるなら心強いな。私は船での長旅は初めてだし。アンナリーザ様も、そうでしょう?」
「──え。殿下がた
自国の王子を、目を見開いて凝視するユリウスの気持ちが、アンナリーザには良く分かったと思う。
(それは言ってはいけないことでしょう……!)
仕える王の意図は知らないことにしておきたいと、彼は言ったばかりだというのに。陰謀の中枢に関わることとはまだ知らなくても、異例の事態を不意に漏らされては、不安にならないはずがない。
思わず卓に突っ伏したアンナリーザの頭の上に、ディートハルトの朗らかな声が降ってきた。
「楽しい旅に、なりそうですね」
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