閑話 忘れ得ぬ眼差し (アルフレート視点)

 ラクセンバッハ侯爵アルフレートは、マルディバルでの滞在先として、海辺の館を用意していた。自国フェルゼンラングの貴族が避寒用の別荘として所有していたものを購入したのだ。借りるのでも構わないといえば構わないのだが、他人の物件を気を遣いながら使うよりも、仮とはいえ我が家にしてしまったほうが寛げるというものだ。五十を目前にして彼は独身を貫いているから、祖国から使用人を引き連れて移動するのもさほどの無理ではなかった。


 そんな、異国の地まで従ってくれる使用人のひとりが、アルフレートを出迎えてくれた。


「おかえりなさいませ、閣下。お食事になさいますか。今日は良い海老エビが入っているとのことですが──」

「いや、良い。酒を持ってきてくれ。強いものが良い」


 マルディバル王と初々しい王女とは、初対面で晩餐に招かれるほど打ち解けた関係に至ることはできなかった。先方にも予定があるのだろうから、さほど落胆することでもないし、予想できたことだからこそ、館では食事が用意されていたのだろうが。


(海老か。結構なことだ)


 温暖なマルディバルにいるうちに、海の幸を堪能しておくべきなのだろう。だが、あいにく今日の彼は美食に舌鼓を打つ気分ではない。


「──それでは、ドライヒュッテ産の火酒ブラントヴァインをお出しします」

「ああ、頼む」


 よくできた使用人は、祝杯などではないということを察してくれたようだった。外交官としては、容易く機嫌を読み取らせてしまったのは不覚なのかもしれないが──自宅でのことなのだから、まあ良いだろう。


 強い酒精と重い甘さの火酒に合わせるつまみには、干した果物やナッツが供された。《南》との窓口にあたる港国だからだろう、香辛料の香りは《北》で味わうよりもずっと強く華やかで酒の香りを引き立てる。


済むはずだったのに無様な始末だった)


 美味なはずなのになぜか苦い酒を啜りながら、アルフレートは今日の会談を──ひいては、外交官としての彼の、二十年来の使命を反芻した。すなわち、イスラズールから大陸に来る船の動向を監視して、レイナルド王の再婚話を徹底的に潰すことだ。


 フェルゼンラングの後ろ盾を得ておきながら、感謝せず反抗的な態度を見せるレイナルド王への報復のため。恩を忘れて独自に他国との交渉が可能であるなどと、思い上がらせてはならない。

 さらには、自国以外がイスラズールとの交易で利益を得ることを防ぐため。大陸との交易を封じれば、イスラズールはいずれ音を上げるだろうという読みもあった。無論、同盟国に説明した通り、イスラズールの金が無秩序に市場に流れ込めば、大陸側の経済に混乱をもたらすのも的外れな懸念ではない。


(フェルゼンラングは《北》の盟主として秩序の保護に努めているのだ)


 事実、これまでにを知らされた国の王も姫君も、フェルゼンラングのに感謝してくれた。金に目が眩んで、不実かつ野蛮な王に娘を渡さずに済んだ、と。エルフリーデ妃の悲劇的な最期は大いに同情されたし、だからこそイスラズールを封鎖する政策も簡単に維持することができた。


 これまでが上手く行っていたから余計に、マルディバル王と王女の非難の眼差しが不本意に思えたのだろうか。破談に持ち込んだだけでは済まず、さらに陰謀ももちかけたのだから当然と言えば当然なのだが。

 特に王女の碧い目──真っ直ぐに彼を睨む目が、亡き御方を思い出させて不覚にも気を逸らされてしまった。ひと口に碧眼といっても色味はまったく違うはずなのに、不思議なことなのだが。


(青……茶器と、ドレスもそうだった。だからだ……)


 目の前に蘇った青い破片を、痩せ細ったかつての主人エルフリーデの面影を、アルフレートは火酒を煽って振り払おうとした。マルディバルの王女が、海を思わせる色を好んで使うのは当然だろうに。ただの偶然でこんなにも心乱されるとは、まだまだ彼も未熟だとしか言いようがない。あるいは──それだけ、エルフリーデ妃のことが、彼にとって忘れられない傷になっているのだ。


「貴女のための復讐でもあるのです……」


 知らず、唇から漏れてしまった呟きを、空いた皿を下げに来た使用人は礼儀正しく無視してくれた。強い酒も、足りなくなるということはないだろう。世間ではいくら冷徹だの鉄面皮だのと評されようと、酔わなければやっていられない、という夜もあるのを身近な者たちは知ってくれている。


 エルフリーデ妃の非業の死は、フェルゼンラングの政策の動機になってはいない。アルフレートの主君たちは、娘や妹が蔑ろにされたことを確実に不快に思っているだろうが、それはフェルゼンラングを軽んじられたためでしかない。異国で頼る者もなくやつれていった少女のことを今も想っているのは、たぶん彼しかいない。


 レイナルド王の思い通りにはさせない。そこらの小国の姫君にイスラズール王妃などとは名乗らせない。イスラズールは、金銀宝石を抱えて飢えれば良い──彼が、妻も娶らず各国を旅し続けたのは、そんな一念に駆られたからでもあった。孤独と絶望のうちに儚くなったエルフリーデ妃の無念を晴らすためだと思えば、祖国を離れる流浪の日々も何ということはなかった。


 だが──


『王妃とは、民の母でもあるのでしょう。我が子であるイスラズールの民をも悩ませて顧みない方であったなら、復讐とやらを喜ばれるのかもしれませんわね』


 マルディバル王女は、彼の二十年を軽やかに斬って捨てた。何も知らない小娘が、と笑い飛ばすことができなかったのは、彼女の言葉が正鵠を射ているのを、アルフレートが誰よりよく知っているからだ。


 彼があの御方にできることは、まだあったはずだった。レイナルド王に諫言するのでも、その愛人であるマリアネラに敵対するのでも。


『王妃を、正しく敬ってくれる人たちだってこの国にはいるもの』


 エルフリーデ妃が訴えた通り、異国からはるばる嫁いできた姫君は、イスラズールの民の心を掴み得た。洗練された立ち居振る舞いに、繊細な美貌。まだ未開の地に技術と文明をもたらした使者。彼女自身も、民の暮らしのために働こうとしていた。

 民の支持を集めてレイナルド王に対抗する道を塞いだのは、ほかならぬエルフリーデ妃の父王、ひいてはその意志を受けたアルフレート自身だった。当時は、レイナルド王を交渉相手と定めていたから、彼の機嫌を損ねぬために。エルフリーデ妃が発言権を持つことで、事態が混迷を深めるのを避けるために。


 もしも、あの方を王宮の外に連れ出していたら。かの地の太陽や自然が過酷だとしても、慣れさせることができていたら。──あるいはもっと単純に、あの方の手を取って大陸行きの船に飛び乗っていたら。それで彼がどのような罰を受けようとも、あの方の身命には代えられなかっただろうに。


(私は、判断を誤った。あの方を見捨てて──殺した。想いを抑えることが忠誠の証だなどと考えたばかりに……!)


 けれど、もう過去を変えることはできない。止まることもできない。

 フェルゼンラング王に仕える臣下として、主君の命を違えることはできない。彼が何をしようと、あるいはすまいと、動き出した大国は止まらない。それに──イスラズールへの航路が開かれなければ、彼はあの御方の墓前にもうでることさえできないのだ。

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