転生した悲劇の王妃は今世の幸せを死守したい

悠井すみれ

一章 過去から忍び寄る影

第1話 懐かしくも愛しくもない面影

 お見合い用の肖像画をひと目見て、アンナリーザは凍り付いた。唇からは声にならない悲鳴が漏れて、全身を走った震えによって、ドレスの裾がさざ波のような音を立てる。


 マルディバル港国の謁見の間にて。両親──国王夫妻の一段下に控えた彼女の前に、国を支え富ませる碧い海が水平線を輝かせている。海の碧と空の青を背景に、恭しく鎮座する金の額縁、その中身こそ、アンナリーザを怯えさせる元凶だった。


「我がイスラズールのレイナルド陛下は当年四十歳──アンナリーザ姫とは少々年が離れておりますが、この通り、いまだ若々しく覇気に満ちた美丈夫でいらっしゃいます」


 使者が滔々と語るのは、間違いではない。アンナリーザの夫候補は、美形ではあった。


 日に焼けた精悍な顔を彩り、豊かに波打って広い肩に流れる髪は、燃えるような赤。翡翠色の目は鋭く力強く、キャンバスの外を──たぶん、彼の国土を──見据えている。唇に浮かべた微笑は余裕と自信に満ちて王の風格を漂わせる。


 アンナリーザの反応を、見蕩れているとでも思い違いしたのだろうか。使者は満面の笑みを浮かべて口上を続けた。


「王が戴くこの冠──黄金も宝石も、すべて我が国から産するもの。王だけでなく、国土の豊かさをお伝えする画となっております。伝統浅い国ではございますが、貴国にとってもきっと良いご縁かと──」


 政略結婚にはお決まりの美辞麗句は、右から左にアンナリーザの耳を通り抜けていった。



 だって、聞くまでもなく彼女はすべて知っている。


 イスラズールの歴史の浅さ。海の向こうに発見された小さな大陸を、富を求めて渡った人たちが開拓して作った国。冒険者と呼べば聞こえが良いけど、食い詰めた山師や逃げ場を求めた犯罪者も多かった。肌を焦がす熱い太陽と、荒々しい自然。民の気風も、相応に激しくて──時に乱暴だった。


 レイナルド王もそうだった。肖像画に描かれた姿より幼い少年のころから、ずっと。臣下を纏め上げるには、仕方ないことだったのかもしれないけれど。声を荒げるのも拳を振り上げるのも、ものに当たって壊すのも日常茶飯事で。だから、は恐怖したのだ。


(私──私、どうして知っているの?)


 整った顔を、怒りや嘲笑に歪めるレイナルドの姿が目の前に見えるかのよう。ここはアンナリーザが生まれ育ったマルディバルの王宮で、イスラズールの王なんてさっきまで名前を聞いたこともなかったのに。


 震える手を握りしめて、倒れないよう必死に足を踏みしめる娘に気付かず、父は鷹揚に首を傾けた。交易で栄えるマルディバルのこと、王女の縁組は最重要の商談だ。じっくりと詰めていこうというのだろう。


「確か、レイナルド王には死別したお妃がいらっしゃったのでは? だいぶ前の──それこそ、アンナリーザが生まれる前のことだと記憶しているが」

「エルフリーデ妃のことでございますね。はい、確かに十八年前、たった二十歳で亡くなられました。まことにお気の毒に」


 エルフリーデ妃。また、

 その女性が大国フェルゼンラングの末の王女だったということ。真珠と称えられた美貌は、でも、十三歳で異国に嫁いで以来、曇ってばかりだったこと。艶やかだった黒髪は褪せて萎れて、深い青の目には悲しみを湛えて──だって、鏡を見るたびに嫌でも目に入ってしまうから。


(え? 私──)


 アンナリーザの髪は、輝く金色。目は、マルディバルの海の碧。エルフリーデ妃の名を聞いたのは初めてで、ましてその人の姿なんて知る由もないのに。思わず自分の毛先を摘まんで色を確かめた彼女を余所に、父と使者のやり取りは続いている。


「それ以来、再婚を考えられなかった? 君主に妃がいないのでは不都合も多いのだろうに」

「我が王は亡きお妃を心から愛していらっしゃいましたので。とはいえ、二十年近くも喪に服したことでございますし、国の将来のためには是非とも若く健康な姫君を、と──」


 レイナルド王の気性や健康に問題はないのか、と。探りを入れた父に、使者は沈痛な面持ちで目を伏せた。


 愛していた、と聞いた瞬間、アンナリーザの頭の芯がカッと熱くなった。


! 彼はを愛してなんかいなかった!)


 彼女の中に燃え上がった感情は──恐怖と戸惑いを圧倒する、激しい怒り。


「嫌──」


 声高く叫んで。そして、その場に崩れ落ちながら。アンナリーザは悟っていた。彼女はだった。不幸な結婚をして、若くして死んだエルフリーデ。どういう理屈かは分からないけれど、彼女は前世の記憶というやつを思い出したらしい。


      * * *


 遠くから赤ちゃんの声が聞こえていた。がやっと授かった王子、クラウディオが泣いている。ひと月前に生み落としてから、一度も抱いてあげられていない。顔を見ることができるのもほんの数えるほどだった。


 痩せた手指が、絹の褥を虚しく掻く。身体を起こすこともできない弱りようでは、我が子をあやすこともできないのが悲しくてならなかった。


(私、あの子の成長を見られないで死ぬんだわ……)


 出産による心身の疲労と出血に加えて、イスラズールの高い気温と湿度、夫との不仲。いまだに慣れない食事、遅れた医療──すべてが彼女の命を削った。祖国で出産できていたら、と思うけれど、叶わなかった。夫も実家も、イスラズールの世継ぎはこの地で生まれなければ、と彼女の願いを退けたのだ。


(私は、死ぬために結婚したの?)


 夫に愛されず、祖国にも見捨てられて。


 エルフリーデは、この国を豊かにしたかった。そのために海を越えて嫁いだはずだった。大陸の伝統ある国の王女として、手つかずの土地に技術と文化をもたらすのだ、と。教育に、開拓に。ようやく撒き始めた種が実るところを、彼女は見届けられそうにない。


 孤独。悲哀。絶望。諦念。悔しさ。そして怒りと、憎しみ。彼女の痩せた胸に渦巻くあらゆる負の感情をさらに掻き立てる存在が、枕元に控えていた。


「王妃様、お気を確かに。お薬を持って参りましたから」


 ふんわりと花咲くような笑みで杯を差し出す──は、窶れはてたエルフリーデと裏腹に美しかった。

 この国の太陽に映える蜂蜜色の巻き毛と、常に潤んだような碧い目、豊満な身体つき。彼女の夫レイナルドの愛人、マリアネラだ。男爵令嬢を名乗ってはいても、早めにこの国に入植して財を築くのに成功したというだけの、山師の娘。夫はそんな女を寵愛して、妻よりも先に懐妊させた上に王妃付きの侍女に取り立てていた。


「もう必要ないでしょう……!」


 マリアネラが用意したなど信じられない。たとえ毒でなかったとしても、弱り切ったエルフリーデを救ってくれるとは思えない。今さら、救われたくもない。エルフリーデは力を振り絞って杯を払いのけた。


「王妃様……」


 零れたを見下ろして、マリアネラは困ったように笑っていた。夫が薔薇だとか天使に喩える可愛らしい顔で。エルフリーデの美貌は朽ちてしまったのに、この女は美しいままで、子供たちに囲まれて、夫に愛されて生き永らえるのだ。これまでもエルフリーデの目を恐れる気配はなかったけれど。彼女が死んだら、より堂々と憚ることなく王妃さながらに振る舞うのだろう。


 その想像が、エルフリーデの命の残り滓を燃やし尽くす。


「私のことはもう良いわ。でも、クラウディオには止めて。あの子を殺さないで。イスラズールの、次の王になる子なのだから」


(せめてあの子が、私の想いを継いでくれたら……)


 大国の王女に生まれた身で、どうして娼婦まがいの女に懇願しなければならないのだろう。涙が溢れて止まらなかった。


「ええ、王妃様。きっと。王子様は健やかにお育ち遊ばしますわ。だから安心なさって」

「きっと、よ……」


 にこやかな笑顔と軽やかな声で、マリアネラはエルフリーデが死ぬものと決めつけた。大嫌いな女の、信じられない言葉に縋るしかないなんて。疑念と悔しさと屈辱に満ちた──それが、の最期の記憶だった。

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